明智 光秀 帰 蝶 いとこ。 帰蝶(きちょう)

帰蝶(きちょう)

明智 光秀 帰 蝶 いとこ

最近、わかってきた説としては、 に嫁ぐ前に、一度、別の武将と結婚していたとされる。 1544年に、斎藤道三と が和睦した際の条件の一つに、帰蝶が織田信長に輿入れすると言う項目がある。 しかし、実際に嫁いだのは1548年であるため、恐らくはまだ11歳前後だった帰蝶がまだ幼いと言う事で、すぐに結婚と言う事にはならなかったものと推測される。 その後、斎藤道三が、越前の とも和睦すると、美濃守護は、 が就任すると言う事になり、その約束を守る担保として、このとき、斎藤道三の娘が、土岐頼純に輿入れしたとある。 この娘の名は不明だが、主筋である土岐家の当主への輿入れであることから、斎藤道三の正室が産んだ、唯一の娘である、濃姫 帰蝶 が嫁いだとする説が出てきた。 これが正しければ、織田家に嫁ぐと言う約束は反故になった訳だが、夫の土岐頼純は、1547年に24歳で死去した。 が落城した際に討死したとも、斎藤道三に暗殺されたともされている。 いずれにしろ、斎藤道三の娘 濃姫? は、夫が亡くなったことで、実家に戻ったものと考えられる。 その後、織田信長の守役でもある、 の功もあり、帰蝶 13歳? は1548年の秋に、織田信秀の嫡男・織田信長に嫁いだ。 下記は清洲公園にある織田信長・濃姫像となる。 なお、2人の間には子ができなかったとされる。 斎藤家の菩提寺・に父・斎藤道三の肖像を寄進した事は、良く知られているが、濃姫が織田家に嫁つぐ際「織田信長が、まことうつけ者であったならばこの刀で刺せ」と言う話は江戸時代に創作された物と推定できる。 テレビドラマや小説などでは、度々登場する濃姫だが、結婚後の生涯は謎に包まれており不明な点が多く、織田信長が で明智光秀に敗れた後も、動向や没年など、良く分かっておらず、濃姫の墓所、墓石も特定されていない。 その為、 の変で、薙刀で明智勢に抵抗して討死したとする説もある。 織田信長のことが多数記載されている「 」でも、濃姫の事に関しては全く書かれていない。 本能寺の変の直後、蒲生賢秀が から、織田信長の子女・側室達を日野城に避難させたが、その中に「安土殿」と言う名が見え、その人物が濃姫だとする説もあり、 分限帳に「六百貫文 アツチ殿」と言う記述も見られる事から、本能寺の変のあとも生存していたと推測される。 没年の説は下記の通り。 斎藤義龍が1561年に病没したすぐあとに濃姫も死亡とも。 濃陽諸士伝記にそのような記述がある。 1556年とも? いくつかの史料で の事を「御台」という正室の呼び名で記している事から、 が誕生した時にはすでに濃姫 のうひめ は織田信長の側を離れていたとする。 そして、斎藤道三が斎藤義龍に敗れて1556年に亡くなると、織田家としては斎藤家の同盟も意味がなくなったことから、濃姫は母・小見の方の実家である、 の のところに戻されたと言う話もある。 このとき、明智氏は、斎藤道三に味方していたため、斎藤義龍は敵とみなして、揖斐光就・ ら3700の軍勢を送った。 明智光安 明智宗宿 、 、一族の溝尾庄左衛門、三宅弐部之助、藤田藤次郎、肥田玄蕃、池田織部、可児才右衛門、森勘解由ら870名が籠城した。 しかし、明智光安は、明智光秀に明智家再興を託して、弟・明智光久と自刃し、妻や妾も落城前に自刃したと言う。 この時、明智家に返されていた22歳の濃姫も、明智一族と運命を共にしたともされる。 本能寺の変でなくなったとする場合とその理由は、濃姫の遺髪を埋葬したとされる濃姫遺髪塚が岐阜県不動町 下 にあるためで、その場合、濃姫の年齢はおよそ47歳。 1612年説では、大徳寺総見院の織田家墓所の織田家過去帳にある「養華院殿粟津妙大姉 慶長十七壬子七月九日信長公御台」から。 およそ77歳。 実際の墓石に記された文字は解読不能 ただし、上記史料ではいずれも「御台」などと言う表現で、その御台が濃姫だと示す証拠はない為、正確な没年がわからないのである。 このように、濃姫 帰蝶 は、織田信長の正室と言う、とても有名な立場でありながら、わからないことがスゴク多い。 どんな武家でも、正室との間に男子が欲しいのに、織田信長との間には、娘すらいなかったとされるのを考慮すると、子供とも言える12歳ころから、政略結婚に振り回されて、夫 土岐頼純 が暗殺され、悲しみも癒えない間に、織田家にイヤイヤ、泣きながら嫁いだのではないかと感じてしまう。 そのため、織田家では、引きこもりではないが、目だった行動もなく、表に出ることもなかったため、ほとんど、史料にも、お濃の方に関する記載がないのではないだろうか? もっとも、若い段階で亡くなっていたら、その分、史料も少ないので、明智一族と運命を共にした可能性も捨てきれない。 実は、思っている以上に、大変不幸な女性だったのかも知れない?と考えると、お濃の方が不憫でならない。 2020年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」では、帰蝶 濃姫 を、女優の川口春奈さんが演じられます。 126• 761• 110• 108• 128• 115• 113• 208• 161• 153 いつもご高覧賜りまして、深く御礼申し上げます。 各ページのリンク・紹介は自由で報告も不要です。 当サイトに掲載されている写真・画像、その他商品名・番組名などは、各社の商標・登録商標・著作物です。 記載内容は可能な限り事実に基づき、公平になるよう配慮致しておりますが、史料自体の問題などもあり、中には誤認もあるかと存じます。 ご指摘賜れば、再調査の上、必要に応じて修正・加筆など行いますので、誤字・脱字のご指摘と合わせて、コメント欄よりご一報賜りますと幸いです。 残念ながら当方の承諾を得ていない、記事の流用や成りすましサイト・動画などが見受けられ弁護士と対処を検討中です。 他サイトご利用の際にはご留意願います。

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映画「信長協奏曲」ネタバレあらすじを結末まで/戦のない時代を夢見てサブローの思いは届くのか

明智 光秀 帰 蝶 いとこ

戦国期の名のある大名は、後継者を残すこと(子作り)が大きな仕事でしたので、 信長は少ない方だ(笑)と言います。 吉乃(きつの)ー 嫡男信忠(のぶただ)・次男信勝(のぶかつ)・長女徳姫(とくひめ)の母 (生駒吉乃生家ー2018年4月4日投稿者撮影写真画像) 本名は、 生駒類(いこま るい)。 そこへ、父信秀の命でもあったのか、社会勉強と情報収集の為に吉法師(信長)が出入りをしていた訳です。 生駒の当主も当然親戚筋の織田弾正忠家の嫡子であることは重々承知の上で、類と信長の関係を容認したと思われます。 時期的には、信忠の生まれたのが、弘治3年(1557年)で、吉乃が出戻ったのが、弘治2年(1556年)とされています。 正室帰蝶の信長への輿入れは『 美濃國諸舊記(みのこくしょきゅうき)』によれば、天文18年(1549年)2月24日であり、父斎藤道三(さいとう どうさん)の敗死が弘治2年(1556年)4月20日で、帰蝶が父道三の肖像画(遺影)を岐阜常在寺に奉納したのが、永禄元年(1558年)頃とされ、以後 帰蝶の記録上の消息は忽然と消え去ります。 つまり、信長と吉乃の関係は、タイミング的には正室帰蝶が病床にあった前後である可能性も否定できないようです。 信長がやっと尾張統一に目処を付け始めた時で、 病死した?正室帰蝶に代り生駒吉乃を得て、信長が大きく戦国に羽ばたく時期となります。 吉乃は、永禄2年に徳姫を出産して以来、3年続きの出産がたたって病床に臥せっていて、永禄6年に竣工した小牧山城にて 永禄9年(1566年)5月13日に死去しています。 信長は翌永禄10年(1567年)に美濃稲葉山城を攻略して、美濃を征服し城を岐阜城を改称し、 吉乃の死を忘れ去るかのように、築城わずか4年あまりの小牧山城を破却して、『天下布武』実現に向かって岐阜城への移転を行ないます。 お鍋(なべ)の方 - 信高(のぶたか)・信吉(のぶよし)・お振(ふり)の母 お鍋の方は、織田信長の後半生を支えた女性と言われています。 現近江八幡市小田町の辺りの豪族高畠源兵衛を父に小田城に生まれ、本家小倉家の山上城主小倉賢治(こくら かたはる)の妻となっていました。 この時、東方に与する信長暗殺部隊も京都へ派遣されており、その魔手を逃れるために、 近江の八風街道の峠越えを当地の領主 小倉賢治の援護を得て無事に伊勢桑名へ抜け清洲へ帰着しました。 その美形の若後家『お鍋の方』はそのまま岐阜城へ留め置かれ、永禄11年(1568年)9月の上洛戦において、 六角氏を観音寺城から追い払い、無事『お鍋の方』の子息を救出し感謝した『お鍋の方』はそのまま信長の側室に収まります。 天正10年(1582年)6月2日の『 本能寺の変(明智光秀の乱)』の後、いち早く『お鍋の方』は岐阜城へ戻り、 信長の遺品をまとめて、岐阜崇福寺へ納め保護します。 その為、当然ながら織田信長の妻として秀吉から俸禄(所領)を付けられ厚遇されることとなります。 坂氏の女(ばんしのむすめ) - 三男信孝(のぶたか)の母 坂氏の女は、永禄元年(1557年)に叔父である熱田神宮神官の岡本太郎右衛門良勝(おかもと たろうえもんよしかつ)の屋敷で、 織田信長の三男となる信孝を出産します。 勿論岡本は信長から命を受けていたと思われます。 そもそも熱田神宮は、織田家の手厚い保護を受けており、多数の神兵を有し、大宮司家千秋家の千秋季忠(せんしゅう すえただ)なども、神官大宮司でありながら信長の家臣でもあり、後日の歴史的事件である『桶狭間の戦い』にも参戦し討死しているほどです。 岡本太郎右衛門良勝も、後年信孝が北伊勢の名族神戸具教(かんべ とものり)のところへ養子に入る時に、信孝に補佐として付けられ、信孝取次衆のひとりとなっています。 稲葉貞通の女(いなばさだみちのむすめ) これは、織田信長が稲葉山城攻略をした時、内応した 斎藤家重臣3名の内のひとり稲葉一鉄の孫娘です。 内応する時の人質にでも出したのでしょうか。 それに信長が手を付けた訳ですね。 困ったものですが、子供の有無に関しては伝わっていません。 しかし、信長には母不詳の子供が男4名、女6名もいますのでひょっとすると誰かの母なのかもしれませんね。 羽柴秀勝の母(養観院) 秀勝は、永禄11年(1568年)の信長上洛の年に生まれ、 四男『於継丸(おつぎまる)』と称されました。 信長がやっとの事で、稲葉山城をおとして美濃を手に入れたばかりの頃です。 どう考えてもこの女性は美濃国の関係者で、前述の稲葉一鉄の孫娘か、馬場殿のどちらかでしかないような気がします。 しかし、名流土岐一族につながる貴種の馬場殿を大事にして美濃勢に気を使う信長が、その間に出来た大事な息子を下賤の出の羽柴秀吉の処へ養子に出すでしょうか。 もし仮にどちらかだったとすると、ここはやはり、 秀勝は稲葉一鉄の孫娘の生んだ子どもとするのが妥当のような気がします。 時期的に云ってもそれは嵌りそうな話です。 馬場殿(ばばどの) 実は、彼女が側室であったと言う確証はないようですが、可能性が濃厚な女性です。 彼女は、信長が手こずっていた道三の息子斎藤義龍(さいとう よしたつ)の娘(斎藤道三の孫娘)です。 まむしの斎藤道三(さいとう どうさん)の孫ですから、おそらく 信長の最初の正室帰蝶(きちょうーまむしの娘)によく似た評判の美人だったと考えられます。 これには経緯が史料(永禄4年5月11日の義龍病死以降の記事)にあります、、、 其頃義龍の息女馬場殿とて、小牧源太が預り、山下の馬場殿におはしける。 容儀世に勝れける故、信長、妾にせばやとて、龍興に談ぜられける。 龍興申さるゝは、信長は、故道三の聟なれば、信長妻の爲には姪なれば、其妻死後に遺し難し。 況や妾などとは緩怠過ぎたる申分、當家は斎藤の家督とは雖も、種姓土岐の嫡流にて、天下の當家たり。 彼は今勢いに乘じて、其昔を忘れ、斯様の雑言申す條、返すゞも奇怪なり。 (引用:) 信長は、難敵斎藤義龍が病死したことを受けて早速、まだ稲葉山城が敵城にもかかわらず、 龍興に対して前領主斎藤義龍の遺児である娘をよこせと難くせをつけており、ここにはすでに重臣に渡りがついていることと、 信長が評判の美形である馬場殿に執心なようすが感じられます。 これで話は途切れたと言われていますが、その後織田信長は、永禄10年(1567年)8月15日に稲葉山城を斉藤龍興を降伏させる形で落城させており、 どう見てもその時馬場殿は信長の側室になったと考えられます。 生駒殿(いこまどの)ー 信長五女 永姫(えいひめ)の母 普通『生駒殿』とは、信長最愛の妻と言われる『吉乃(きつのー本名:類ーるい)』の事を指しますが、 この『生駒殿』はどうやら別人のようなのです。 前述しましたが、『吉乃』は3人目の子になる徳姫を永禄2年(1559年)に出産してから、産後の肥立ちが悪く、床に臥せった生活が続きます。 その後信長は永禄2年2月に上洛し、永禄3年(1560年)5月に一世一代の大勝負『桶狭間の戦い』を勝利に導くなど、多忙な毎日が続いており、生駒屋敷の『吉乃』のところへも足が遠のいていた様子です。 永禄6年(1563年)に小牧山城を落成させると、信長は正室扱いの『吉乃』に生駒屋敷(小折城)からの移転を求めます。 この時『吉乃』の兄の生駒八右衛門は、『吉乃』が簡単に動かせない病状であることを、小牧山城へ出向いて信長に謁見して説明したとあります。 つまり 信長は、徳姫出産以来、床に就く『吉乃』をほとんど見舞いにも行っていない状況だったことがわかります。 この間4年近く、他の側室(坂氏など)もいる訳ですが、とりわけ『吉乃』を気に入っている信長にしてはおかしなことです。 これは私見ですが、その間、子は成したとは言え、信長の相手が出来ない妹を見て、 生駒八右衛門が手を打って、縁者で吉乃(類)に似た少女を吉乃の代役に立てて、信長に世話したのではないでしょうか。 だからこそ、吉乃の小牧城への移動が難しいとの相談を八右衛門は信長に直談判の及んだのでしょう。 以後、この代役『生駒殿』本人は直接歴史の表面には出て来ませんが、 信長との間に出来た五女『永姫(えいひめ)』が、後年大身大名となった前田利家の家へ嫁ぐことによって、彼女は『永姫の母(生駒殿)』として歴史に記録を残すこととなりました。 信忠の乳母 - 三の丸殿(さんのまるどの)の母 信長家臣滝川一益の一族で、信長の嫡男信忠の乳母だったと言われています。 三の丸殿は信長が安土城へ移った天正4年(1576年)以降に生まれたもので、『本能寺の変』当時、4~5歳だったと考えられます。 安土城から安土の留守を預かる蒲生賢秀の差配で日野城へ避難し、秀吉の勝利後一旦日野城を退出しますが、後日また蒲生氏に身を寄せ、そのまま三の丸殿は蒲生氏郷の下で養育されました。 後年、伏見城へ隠居した太閤秀吉は、蒲生家からこの織田信長の遺児である姫を召し出して、側室として伏見城三の丸に囲い、以後彼女は『 三の丸殿』と呼ばれることになります。 信忠の乳母であった母は、信長の後継争いで反秀吉側に付いた実家の滝川一族が破れて行く騒乱の最中、失意の中で死去したものと考えられます。 土方勝久(ひじかた かつひさ)の女(むすめ) - 九男信貞(のぶさだ)の母 土方勝久は信長の家来でしたが、永禄12年(1569年)10月、信長が次男信雄(のぶかつ)を北伊勢北畠氏へ養子に入れた折、補佐する付侍となり信雄の近臣となりました。 天正4年(1576年)11月25日の北畠一族粛清の折、活躍しその功で信長より領地を拝領したとされています。 織田信長は、その娘を側室にして、9男信貞を得ています。 この時期には、 朝廷( 正親町帝)と信長の厳しい政治的駆け引き・綱引きが、翌天正10年(1582年)6月2日の『 本能寺の変(明智光秀の乱)』まで続きますので、時期的には十分可能性のある話だと考えられます。 この姫君との間に子を成したかどうかわかりませんが、その翌年に信長が本能寺で横死していますので、一切不明となっています。 お駒 - 実は信長の最初の子である『乙殿(おつどの)』の母 信長にはすでに正室『帰蝶』がいた頃(天文18年以降)に、信長付きの侍女だった『中條(ちゅうじょうーお駒)』に手が付き、妊娠したお駒は信長の傅役の平手政秀(ひらて まさひで)により、 信長配下にいた埴原常安(はいばら つねやす)の妻として『 乙殿』を出産したと言います。 永禄10年(1567年)11月に信長より埴原常安に20貫文(この当時は200~300万円程度)の知行地が与えられていますが、これは時期から見ると『乙殿』の元服料かもしれません。 その後、常安は尾張在住の吏僚として活躍し、『本能寺の変』後は、次男信雄に仕え500貫文(この当時は5000~8000万円程度)を知行します。 しかし 『乙殿』には成人後の記録もなく、早世した可能性があると思われます。 塙直政(ばん なおまさ)の妹(直子ーなおこ) 塙直正は、織田信長の直属の親衛隊(赤母衣衆ーあかほろしゅう)に属していました。 平手政秀によって『中條』が取り上げられたため、すぐに直子に手を出したと考えられ、直子は天文23年(1554年)5月5日に那古野城で男子(於勝丸ー信正)を生んでいます。 兄の 塙直正は妹が側室になったこともあり、信長に引き立てられ、その後大活躍をして侍大将で方面軍司令官へと大出世を遂げましたが、 天正4年(1576年)大坂の本願寺戦の最中、今の大阪難波三津寺筋辺りで討死しました。 スポンサーリンク 織田信長と側室吉乃(きつの)は、どこで知り合ったの? 前述していますが、吉乃の実家である 生駒家屋敷(小折城)での事です。 おそらく、信長が生駒屋敷に勝手に出入りを始めたのは、馬に乗れるようになって遠出することが出来るようになってから、、、10歳くらいではないかと推察します。 昔から出入りする織田の若君信長のことは生駒の娘類(るいー吉乃)も見知っていたようです。 しかし、信長が類のことを意識するのは、 夫の 土田弥平治(どた やへいじ)が討死したことによって後家となり、実家である生駒屋敷に出戻っていた時だと言います。 この生駒の後家殿、土田弥平治討死候いてより、雲球屋敷に罷り候ところ、上総介様、雲球屋敷へ御遊行、目を懸けなされ殊のほか御執心の揚句、上総介様の御たねを宿し罷り候なり。 (引用:吉田蒼生雄全訳『前野家文書 武功夜話吉法師様という信長公と成る事の条』1995年 新人物往来社) とあります。 雲球屋敷と言うのは、生駒八右衛門の屋敷ー小折城のことです。 生駒吉乃は織田信長の正室なの? 定説では、、、 織田信長の正室は生涯、美濃斎藤道三の息女『 帰蝶(きちょう)』ひとりだったと言われています。 森蘭丸(乱丸)も武辺の家柄でいかつい体格をしていた可能性が高く、どうも前田犬千代(としいえ)と同じ作り話ではないでしょうか。 そして、弘治2年(1556年)4月20日に、父道三が息子の義龍に殺されて以降は、父の肖像画を寺に寄贈したと言う記事から 帰蝶の消息が途絶えます。 夫婦仲が冷めているだけでは、あれだけ派手に活躍する織田信長の正室の消息が途絶えることはあり得ないことから、 帰蝶の離縁説・死亡説が出ている訳です。 実際はどうでしょうか。。。 無理強いするならあなたの妻兄弟が自害しますぞと脅したことが載っています。 これだけ、 美濃衆・斎藤一族に睨みの利くのは、信長の正室帰蝶が生存している可能性があるのではないか?とされている記録です。 ところが、、、前述した『馬場殿』の記事に、、、 其頃義龍の息女馬場殿とて、小牧源太が預り、山下の馬場殿におはしける。 容儀世に勝れける故、信長、妾にせばやとて、龍興に談ぜられける。 龍興申さるゝは、信長は、故道三の聟なれば、信長妻の爲には姪なれば、其妻死後に遺し難し。 況や妾などとは緩怠過ぎたる申分、當家は斎藤の家督とは雖も、種姓土岐の嫡流にて、天下の當家たり。 彼は今勢いに乘じて、其昔を忘れ、斯様の雑言申す條、返すゞも奇怪なり。 況や妾などとは、緩怠過ぎたる申分。 吉乃の死後、織田信長の愛妾はだれ? 『吉乃』の死後となると岐阜時代からとなるのかもしれませんが、前述の項目から考えると、、、 吉乃が病床に就いてから小牧城時代• 『 馬場殿(ばばどの)』 ー不明• 『 稲葉貞通(いなば さだみち) の女』 ー不明 大体こうなりそうです。 薄汚い格好で出入りしていた以外考えられません。 これが、前述した『 お駒(おこま)』です。 とすると、 14~15歳くらいですね。 当時としては普通だったのかもしれませんね。 まとめ 戦国の天下取り(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)の内、秀吉、家康に比べて 信長の女性関係は、正室の『 濃姫(帰蝶)』以外にあまり話題に上っていませんでした。 ところが、歴史作家の 津本陽氏の『下天は夢か』が1986年12月から日本経済新聞に連載されて、織田信長の女性関係が一気に有名になりました。 織田信長を取り巻く女性たちを、世の中の一般人に見える形で出したのが、津本氏の小説なのでした。 私も当時日経新聞に連載される織田信長の姿が、通説で認識していたものと相当違い、知らない女性たちが次々登場するのを驚きの目で読んだ覚えがあります。 ともあれ、ベールに閉ざされていた謹厳実直・冷血漢であると通説で考えられていた、 天下人織田信長を支えた女性たちが現れました。 なんと織田信長の子供は、判明しているだけで13人の息子と10人の姫もいると言うではありませんか。 そして、そ の中で母の名前が判明していない織田信長の子供たちは10名ほどもいるのです。 本当に子供がいないとわかっているのは、正室の『濃姫(奇蝶)』だけです。 記事に記述した側室たちだけでも2人は子供に関する事がわかっていません。 武家は合戦に負けて当主が討死すると、その一家の子女は離散するのが運命(さだめ)のようです。 10代の頃信長は、、、 『かぶき者』などと言われ、飛ぶ鳥を落とす勢いの織田信秀の二枚目の跡取り息子とあっては、街場での若い女子の評判はそのカッコよさでかなり高かったのではないかと思います。 しかし、街場の娘出身の側室は一人もいません。 武家が街場の女性など相手にしないと思うかもしれませんが、この信長の祖父は町衆を押える為に、町の有力者のところへ自分の娘を嫁に出しています。 今思うほど、当時の武家と町衆の垣根は高くなかったと考えられます。 この身分制度の垣根を分厚くしたのは徳川家康が作った江戸時代です。 つまり、 これだけモテ男の信長であれば、生駒屋敷のようなことが、織田弾正忠家支配下の津島でも熱田でもあっておかしくないのですが、記録にないのです。 信長は、世間から『大うつけ者』などと呼ばれる若年者だったにも拘わらず、実際はかなり倫理観のしっかりしたまともな若武者であったことが分かります。 おそらく、最初の妻、正室帰蝶に対する思いはかなりのものであったのではないでしょうか。 そして、 織田信長の人生において、正室・御台所とまわりから呼ばれた女性は、、、• 帰蝶(きちょう) -那古野城・清須城• 吉乃(きつの) -小牧山城• 馬場殿(ばばどの) -岐阜城• お鍋の方(おなべのかた)ー安土城 だったのではないかと考えられます。 間違いないことは、 正室・側室ともに当時評判の絶世の美女ばかりであったことです。

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織田信長の妻・濃姫(帰蝶)は本能寺の変で亡くなった?最期の場所はどこ?

明智 光秀 帰 蝶 いとこ

最近、わかってきた説としては、 に嫁ぐ前に、一度、別の武将と結婚していたとされる。 1544年に、斎藤道三と が和睦した際の条件の一つに、帰蝶が織田信長に輿入れすると言う項目がある。 しかし、実際に嫁いだのは1548年であるため、恐らくはまだ11歳前後だった帰蝶がまだ幼いと言う事で、すぐに結婚と言う事にはならなかったものと推測される。 その後、斎藤道三が、越前の とも和睦すると、美濃守護は、 が就任すると言う事になり、その約束を守る担保として、このとき、斎藤道三の娘が、土岐頼純に輿入れしたとある。 この娘の名は不明だが、主筋である土岐家の当主への輿入れであることから、斎藤道三の正室が産んだ、唯一の娘である、濃姫 帰蝶 が嫁いだとする説が出てきた。 これが正しければ、織田家に嫁ぐと言う約束は反故になった訳だが、夫の土岐頼純は、1547年に24歳で死去した。 が落城した際に討死したとも、斎藤道三に暗殺されたともされている。 いずれにしろ、斎藤道三の娘 濃姫? は、夫が亡くなったことで、実家に戻ったものと考えられる。 その後、織田信長の守役でもある、 の功もあり、帰蝶 13歳? は1548年の秋に、織田信秀の嫡男・織田信長に嫁いだ。 下記は清洲公園にある織田信長・濃姫像となる。 なお、2人の間には子ができなかったとされる。 斎藤家の菩提寺・に父・斎藤道三の肖像を寄進した事は、良く知られているが、濃姫が織田家に嫁つぐ際「織田信長が、まことうつけ者であったならばこの刀で刺せ」と言う話は江戸時代に創作された物と推定できる。 テレビドラマや小説などでは、度々登場する濃姫だが、結婚後の生涯は謎に包まれており不明な点が多く、織田信長が で明智光秀に敗れた後も、動向や没年など、良く分かっておらず、濃姫の墓所、墓石も特定されていない。 その為、 の変で、薙刀で明智勢に抵抗して討死したとする説もある。 織田信長のことが多数記載されている「 」でも、濃姫の事に関しては全く書かれていない。 本能寺の変の直後、蒲生賢秀が から、織田信長の子女・側室達を日野城に避難させたが、その中に「安土殿」と言う名が見え、その人物が濃姫だとする説もあり、 分限帳に「六百貫文 アツチ殿」と言う記述も見られる事から、本能寺の変のあとも生存していたと推測される。 没年の説は下記の通り。 斎藤義龍が1561年に病没したすぐあとに濃姫も死亡とも。 濃陽諸士伝記にそのような記述がある。 1556年とも? いくつかの史料で の事を「御台」という正室の呼び名で記している事から、 が誕生した時にはすでに濃姫 のうひめ は織田信長の側を離れていたとする。 そして、斎藤道三が斎藤義龍に敗れて1556年に亡くなると、織田家としては斎藤家の同盟も意味がなくなったことから、濃姫は母・小見の方の実家である、 の のところに戻されたと言う話もある。 このとき、明智氏は、斎藤道三に味方していたため、斎藤義龍は敵とみなして、揖斐光就・ ら3700の軍勢を送った。 明智光安 明智宗宿 、 、一族の溝尾庄左衛門、三宅弐部之助、藤田藤次郎、肥田玄蕃、池田織部、可児才右衛門、森勘解由ら870名が籠城した。 しかし、明智光安は、明智光秀に明智家再興を託して、弟・明智光久と自刃し、妻や妾も落城前に自刃したと言う。 この時、明智家に返されていた22歳の濃姫も、明智一族と運命を共にしたともされる。 本能寺の変でなくなったとする場合とその理由は、濃姫の遺髪を埋葬したとされる濃姫遺髪塚が岐阜県不動町 下 にあるためで、その場合、濃姫の年齢はおよそ47歳。 1612年説では、大徳寺総見院の織田家墓所の織田家過去帳にある「養華院殿粟津妙大姉 慶長十七壬子七月九日信長公御台」から。 およそ77歳。 実際の墓石に記された文字は解読不能 ただし、上記史料ではいずれも「御台」などと言う表現で、その御台が濃姫だと示す証拠はない為、正確な没年がわからないのである。 このように、濃姫 帰蝶 は、織田信長の正室と言う、とても有名な立場でありながら、わからないことがスゴク多い。 どんな武家でも、正室との間に男子が欲しいのに、織田信長との間には、娘すらいなかったとされるのを考慮すると、子供とも言える12歳ころから、政略結婚に振り回されて、夫 土岐頼純 が暗殺され、悲しみも癒えない間に、織田家にイヤイヤ、泣きながら嫁いだのではないかと感じてしまう。 そのため、織田家では、引きこもりではないが、目だった行動もなく、表に出ることもなかったため、ほとんど、史料にも、お濃の方に関する記載がないのではないだろうか? もっとも、若い段階で亡くなっていたら、その分、史料も少ないので、明智一族と運命を共にした可能性も捨てきれない。 実は、思っている以上に、大変不幸な女性だったのかも知れない?と考えると、お濃の方が不憫でならない。 2020年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」では、帰蝶 濃姫 を、女優の川口春奈さんが演じられます。 126• 761• 110• 108• 128• 115• 113• 208• 161• 153 いつもご高覧賜りまして、深く御礼申し上げます。 各ページのリンク・紹介は自由で報告も不要です。 当サイトに掲載されている写真・画像、その他商品名・番組名などは、各社の商標・登録商標・著作物です。 記載内容は可能な限り事実に基づき、公平になるよう配慮致しておりますが、史料自体の問題などもあり、中には誤認もあるかと存じます。 ご指摘賜れば、再調査の上、必要に応じて修正・加筆など行いますので、誤字・脱字のご指摘と合わせて、コメント欄よりご一報賜りますと幸いです。 残念ながら当方の承諾を得ていない、記事の流用や成りすましサイト・動画などが見受けられ弁護士と対処を検討中です。 他サイトご利用の際にはご留意願います。

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