浄土真宗 お経 全文。 無量寿経

正信偈(全文と読み方)の意味と目的

浄土真宗 お経 全文

[序分] 私はこのように聞きました。 あるとき仏 釈尊 はインドのという国にある「鷲の峰」(耆闍崛山 ぎしゃくっせん 、霊鷲山 りょうじゅせん)に千二百五十人の修行者たち、三万二千人の諸菩薩とともにおられた。 ときに王舎城ではマガダ国王の親子の間に、一つの悲劇が起こっていた。 マガダ国の太子である阿闍世 あじゃせ アジャータシャトル が、調達 じょうだつ デーヴァダッタ、提婆達多 にそそのかされて、父である頻婆娑羅 ビンビサーラ 国王を牢獄に閉じこめたのである。 王の身を案じた妃の韋提希 いだいけ (ヴァイデーヒー)は、自分のからだに食物を塗るなどして牢獄内に食物を持ち込み、ひそかに王に食を与えていた。 しかしそれもわが子阿闍世に発覚するところとなる。 阿闍世は怒りのあまり、韋提希を殺そうとするが、家臣に説得されて、この母親を宮廷にとじこめてしまう。 わが子に背かれて囚われの身となった韋提希は憂い憔悴して、耆闍崛山におられる仏に向かって教えを請う。 また世尊 せそん 釈尊のこと はどのような因縁があって、提婆達多という悪人と従兄弟なのでしょうか。 世尊よ、私のために憂い悩むことなき処をお説き下さい。 そこで釈尊が眉間から光を放って諸仏の浄らかな国土 浄土 を現出されると、韋提希はその中から特に阿弥陀仏の極楽浄土に生まれたいと訴え、そこに行く方法を説き示されるように仏に懇願する。 [本論] [定善の観法] そこで仏 釈尊 はまず、精神を統一し、心を西方に専念して阿弥陀仏とその極楽浄土を観想する方法 定善 じょうぜんの観法 を説き始められる。 まずは太陽が西の空に沈みゆく映像を頭の中に焼き付くようになるまで観想する「日想観」にはじまり、ないし極楽世界のありさまや阿弥陀仏の姿やその徳などを観想し、あるいは自分が極楽浄土に往生しているありさまを観想するといった、十三の観想の段階を説かれる。 [散善の行] つぎに仏は、ひとしく極楽浄土に往生する者といっても、そこには九種の分類 九品 くぼん があることを説き始められる。 九種の分類とは、極楽に往生しようとする者を、その資質や能力から上品・中品・下品の三つに分類し、さらにそれぞれの品を上・中・下の三種に分類するものである。 すなわち上品の者には上品上生 じょうぼんじょうしょう・上品中生・上品下生の三者があり、それぞれに資質や能力の上下はあれども、いづれも大乗の教えにしたがい、深く因果を信じて極楽往生を願う人々である。 これを第十四の観想という。 さらに中品上生と中品中生は小乗の戒律を守ることによって極楽往生を願う人々、中品下生は父母を孝養するなどの世間的な福徳を行うことによって極楽往生を願う人々である。 これを第十五の観想という。 これに対して下品に属する三種の人々 下品上生・下品中生・下品下生 は、上品や中品の人々が行うような福徳を行うことが出来ないどころか、かえってさまざまな悪行を犯してしまう罪悪の凡夫であるが、このような人々でも善き人 善知識 ぜんじしき の教えに出会い、南無阿弥陀仏の念仏を称えるならば極楽往生することができる。 これを第十六の観想という。 このように仏が説かれたとき、韋提希とその侍女たちは極楽世界のすがたや、阿弥陀仏および観音菩薩・勢至菩薩を見て、歓喜の心が起こり、からりと迷いがはれて大悟し 廓然大悟 、さとりを得ようとする心 菩提心 を起こして、極楽往生を願った。 [結語] 仏 釈尊 は、弟子の阿難 あなん からの、この経の「かなめ」は何なのですかとの問いに対して、念仏すべきことを強調される。 すなわち、「念仏をする人は、人々の中の分陀利華 ふんだりけ (プンダリーカ、白蓮華、汚泥の中から咲く白蓮華の花のような希有な尊き人)である 若念仏者、当知此人、是人中分陀利華 」と説かれ、そして最後に「あなたはよくこの語をたもちなさい。 この語をたもてとは、すなわち無量寿仏のみ名をたもちなさいということである 汝好持是語。 持是語者、即是持無量寿仏名 」、つまり念仏せよ、と言って、説法を終えられる。 その後、釈尊は耆闍崛山に戻り、広く大衆に対して上と同じ説法をされた。 すると、これを聞いた大衆はみな歓喜し、 礼をなして釈尊のもとを退いた。 このように、観無量寿経は極楽浄土に往生するてだてとして、十六の観想を順々に説く経典です。 そのなかで、初めの十三の観想は、禅定において阿弥陀仏や極楽浄土を観想するという善行 定善の観法 による極楽往生を説くものです。 これに対して第十四から第十六の観想は、観想とは称されるものの、実際には禅定の善行を説いているわけではありません。 これらは、禅定もできないような、心が常に散乱しているような人々でも出来るような極楽往生の善行 散善の行 を、順次、上品・中品・下品の人々の資質に応じて説いているのです。 さて、中国に観経が伝えられると、学僧 たちは、この経典を「定善の観法」を説くものとして理解し、「散善の行」を説く部分はいわば付け足し的なものとみなして、重視しませんでした。 釈尊は、極楽へ往生し、そこで仏とならせていただく行として「定善の観法」を勧められたが、それができない愚か者にも往生の道があることを「散善の行」と説くことによって示された、というのが、この経典に対する一般的な理解だったのです。 しかし経の結語は、これに反して、本経のかなめは「念仏」にあると説いているように見えます。 これはどうしたことでしょうか。 [善導独明仏正意] 浄土真宗では、浄土教を伝え広めた七人の祖師を「七高僧」として仰ぎたたえるのですが、その中の一人に中国の善導大師 ぜんどうだいし 西暦613年-681年 という方がおられます。 善導大師は、それまでのこういった観経の理解を正されました。 どんな人でも救い取るぞという阿弥陀仏のご本願のこころからすれば、観経の主題は、下品に説かれるような、「定善」もできないような罪悪の凡夫のために念仏による極楽往生を説くことにある、と明かされたのです。 しかし、それならば、一体なぜ仏は韋提希に対して「定善の観法」や念仏以外の「散善の行」を順々に詳しく説かれたのか。 それは、かつてはがあるにもかかわらず、自分が罪悪凡夫であるという意識をまったくもたず、善人の行う「定善の観法」を教授してもらうことのみを請い、「散善の行」を請い求めない韋提希に自分の犯した罪を自覚させ、他力念仏の教えに導き入れるためである。 善導大師は、このように仏の意図を汲み取られたのでした。 このようにして、善導大師によって、観無量寿経という経典が、「罪悪の凡夫が念仏を称えることによって極楽往生し、智慧と慈悲をそなえた仏とならせていただく」ことを説くものであることが明らかにされたのです。 この卓見によってこそ、後に我が国で法然上人 西暦1133年-1212年 は浄土教に救いを見出されたのであり、法然上人は「ひとえに善導一師に依る」とその著書に明言しておられます。 また親鸞聖人も、「正信偈」の中にも「善導ただひとり、仏の正意を明らかにされた 善導独明仏正意 」と讃嘆されています。 仏の説かれた観経は、こうして中国・日本の浄土教の諸師たちによって読み深められていったのです。 見落としてならないことは、善導大師にせよ、法然上人にせよ、親鸞聖人にせよ、これらの諸師がたはみな、観経に説かれる罪悪の凡夫、念仏によってしか救われない下品下生の者とは、ほかならぬ自分のことであると受け取られたという点でしょう。 『歎異抄』 第二条 に引かれた親鸞聖人の言葉でいえば、 いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし (いずれの修行にもたえられない愚悪の身には、しょせん、地獄こそ定まれる住み家であるといわねばなりますまい。 梯実円訳 と自覚されるとき、観無量寿経の言葉がわが身を救う依りどころとして意味を持ってくるのではないでしょうか。 親鸞聖人は、以下のご和讃にみられるように、観経は私という凡夫を救うために説かれた経であるという理解をさらにおしすすめられて、韋提希が極楽往生を願い、阿闍世・提婆達多が悪行をなしたのも、ひとえに「凡愚底下のつみびと」である私を他力の念仏に導き入れるためのことであったと味わっておられます。 [観無量寿経の大意をまとめた親鸞聖人の和讃 ] 九首あるうちの六首を引用 [和讃] [真継伸彦現代語訳] 恩徳 おんどく広大釈迦如来 韋提希夫人 ぶにんに勅 ちょくしてぞ 光台現国 げんごくのそのなかに 安楽世界をえらばしむ 1 慈悲の徳が広大であって、弥陀の本願を説くために世に出たもうた釈尊は、韋提希夫人のために、あらゆるみ仏が造りたもうた国土を、み光の中に示された。 夫人は弥陀の浄土への往生を望み、釈尊はそのための教えを説き出された。 1 頻婆娑羅 びんばしゃら 王勅せしめ 宿因 しゅういん その期 ご をまたずして 仙人殺害のむくいには 七重のむろにとじられき 2 頻婆娑羅王は性急に嗣子を望み、部下に命じて、わが子に生まれ変わるべき仙人を、寿命の尽きるのを待たず殺させた。 その悪業の報いとして、後に当の子供の阿闍世によって、七重の囲いのある室に閉じこめられた。 2 阿闍世王は瞋怒 しんぬ して 我母是賊 がもぜぞく としめしてぞ 無道に母を害せんと つるぎをぬきてむかいける 3 阿闍世王は、餓死させようとした父王に、秘かに食事を与えていた韋提希に激怒した。 わが母も父と同様に賊であると宣言し、無道にも、実の母を殺そうと剣を抜いておそいかかった。 3 耆婆 ぎば大臣おさえてぞ 却行而退 きゃくぎょうにたい せしめつつ 闍 しゃ 王つるぎをすてしめて 韋提 いだい をみやに禁じける 5 耆婆大臣は手で阿闍世王の剣を押さえ、後退させてついに剣を捨てさせた。 王は韋提希夫人を、宮殿の奥に閉じ込めるだけにした。 5 大聖 だいしょうおのおのもろともに 凡愚底下 ぼんぐていげのつみびとを 逆悪もらさぬ誓願 せいがんに 方便引入 いんにゅう せしめけり 7 『観無量寿経』には、聖者が悪人の姿となって現れている。 彼らが悪行をはたらくことによって、愚かで下劣な罪人である私たちを、善人も悪人も等しくお救いくださる阿弥陀仏の誓願に、たくみに導き入れようとされた。 7 定散 じょうさん 諸機 しょき 格別の 自力 じりき の三心 さんじん ひるがえし 如来利他 りた の信心に 通入せんとねがうべし 9 心を静めての修行 定善 や、日常での善行 散善 など、人それぞれの分にあった修行をして往生しようとする自力の心を捨てよ。 一切衆生を区別せず、念仏一つで往生せしめられる阿弥陀仏の他力の本願を、信じる心の中に入ろうと願え。

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南無阿弥陀仏の意味は?浄土真宗のお経を解説|終活ねっとのお坊さん

浄土真宗 お経 全文

浄土真宗で読まないお経 浄土真宗でよく歌のように読まれている「 帰命無量寿如来(きみょうむりょうじゅにょらい)……」というのは、『 (しょうしんげ)』といいます。 お経とは、の説かれた教えを書き残したものをお経といいます。 『 正信偈』は親鸞聖人の書かれたものですから、お経とは言いません。 ですから『 正信偈』を書き写すのは、写経とは言いません。 書写といいます。 また、浄土真宗以外の宗派でよく読まれたり写経される『 』も、浄土真宗では読みません。 一切経七千余巻には、もっと大事なお経があるのです。 では、浄土真宗では、どんなお経を読むのでしょうか? 浄土三部経(じょうどさんぶきょう) お釈迦さまの教えを書き残されたお経は、全部まとめて一切経といいます。 お釈迦さまが、35歳で仏のさとりを開かれてから、80歳でお亡くなりになるまで45年間説かれた教えを書き残されたものですから、その数は七千余巻といわれるたくさんのお経です。 そのお経の中で、最も大事なお経が3つあります。 それは、すべての人を救うと誓われたが集中的に説かれている 『 大無量寿経(だいむりょうじゅきょう)』 『 観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』 『 阿弥陀経(あみだきょう)』 の3つです。 『 』は『 無量寿経』とも『 大経』ともいいます。 『 』は『 無量寿仏観経』とも『 観経』ともいいます。 『 』は、『 小経』ともいいます。 これらの3つのお経を「 (じょうどさんぶきょう)」といいます。 この3つの重要なお経を「 浄土三部経」と名づけられたのは、親鸞聖人の先生の上人です。 法然上人の主著『 選択本願念仏集(せんじゃくほんがんねんぶつしゅう)』にこのように教えられています。 正しく浄土を明かす教というは、いわく三経一論これなり。 「 三経」とは、 一には『 無量寿経』、 二には『 観無量寿経』、 三には『 阿弥陀経』なり。 「 一論」とは、の『 往生論』これなり。 あるいはこの三経を指して浄土の三部経と号す。 (選択本願念仏集) 『 無量寿経』とは『 大無量寿経』のことです。 ちなみに「天親の『 往生論』」とは、の2番目の、天親菩薩の主著、『 浄土論』のことです。 『 大無量寿経』、『 観無量寿経』、『 阿弥陀経』の3つを『 浄土三部経』と名づけるといわれています。 浄土三部経を説かれたのは誰? 世の中には、この浄土三部経を、お釈迦さまの説かれたお経ではないと主張する人があります。 それについては、親鸞聖人はこう教えられています。 この三経はすなわち大聖の自説なり。 (教行信証) 「大聖」とはお釈迦さまのことです。 この浄土三部経は、お釈迦さまが自ら説かれたものだ、といわれています。 これに反する主張をしているような人は、浄土真宗の人ではありません。 親鸞聖人の教えのすべてが記された『 』は、このお釈迦さまの説かれた浄土三部経について詳しく教えられたものです。 『 教行信証』6巻のうち、はじめの5巻に『 大無量寿経』について、最後の化土巻に『 観無量寿経』と『 阿弥陀経』について教えられています。 このように、一切経でも最も重要なお経が浄土三部経ですから、一切経は浄土三部経におさまります。 この釈迦の説かれた浄土三部経が、浄土真宗のお経なのです。 ではなぜ一切経は浄土三部経におさまるのでしょうか? お釈迦さまが一切経を説かれた目的は? お釈迦さまの説かれた一切経に何が教えられているのかというと、 親鸞聖人は『 正信偈』にこのように教えられています。 如来世に興出したもう所以は 唯弥陀の本願海を説かんがためなり(正信偈) 「 如来世に興出したもう所以は」とは、お釈迦さまが地球上に現れて、仏教を説かれた目的は、ということです。 お釈迦さまが一切経を説かれた目的は何であったのかというと、「 唯」ですから、2つも3つもない、ただ1つであったということです。 そのただ一つのこととは何かというと、「 弥陀の本願海」一つを説かれるためであったといわれています。 「 弥陀の本願海」とは海のように深くて広い、阿弥陀如来の本願のことです。 とは、大宇宙に数え切れないほどおられるたくさんの仏の先生の仏です。 このことを上人は、『 』にこのように教えられています。 阿弥陀如来と申すは三世十方の諸仏の本師本仏なり(御文章) 地球上で仏のさとりを開かれたのはお釈迦さまただお一人ですが、大宇宙には地球のようなものが数え切れないほどありますから、仏のさとりを開かれた方も数え切れないほどあります。 その仏方を「 十方諸仏」といいます。 「 十方」とは大宇宙のことです。 その大宇宙の仏方の本師本仏が阿弥陀如来と言われています。 「 本師」も「 本仏」も先生のことですから、大宇宙の諸仏の先生の仏が、阿弥陀如来である、ということです。 お釈迦さまも大宇宙の諸仏の一仏ですから、阿弥陀仏はお釈迦さまの先生の仏です。 その阿弥陀如来の本願に何がお約束されているのかというと、 「 すべての人を必ず絶対の幸福に助ける」 とお約束されています。 すべての人を何としても絶対の幸福の世界へ出そうとされているのが本師本仏の阿弥陀如来です。 仏教では、弟子の使命は先生の御心を伝えることですから、お釈迦さまが一切経を説かれた目的は、先生である阿弥陀如来の本願一つを説かれるためであったのです。 大無量寿経の内容 では、お釈迦さまが仏教を説かれた目的である阿弥陀如来の本願はどこに説かれているのかというと『 大無量寿経』です。 ですから親鸞聖人はこのように教えられています。 それ真実の教を顕さば、すなわち『 大無量寿経』これなり。 (教行信証) 「 真実の教」とは、釈迦がこの世に生まれた目的のお経のことです。 これを「 出世本懐経(しゅっせほんがいきょう)」といいます。 「 経」には教えが説かれているので、「 教」も「 経」も同じです。 釈迦の出世本懐のお経が『 大無量寿経』だということは、 他の一切の経は、『 大無量寿経』を説くための方便の教えである、ということです。 「 方便」とは、どうでもいいものではありません。 私たちを真実に近づけ、真実を体得させるに絶対必要なものをいいます。 阿弥陀如来は、全部で48のお約束をされています。 これを阿弥陀仏の四十八願といいます。 その 四十八願の中でも、阿弥陀仏が本心を誓われているのが18番目にお約束された十八願です。 ですから阿弥陀如来の本願とは、阿弥陀如来の十八願のことです。 その十八願の世界へすべての人を出させるために阿弥陀如来が建てられたのが十九願と、二十願です。 ですから、阿弥陀仏の方便が、十九願と二十願です。 では十九願はどんなお約束かというと、 「 善いことしなさい、そうしたら助けます」というお約束です。 この十九願を解説されたのが一切経なのです。 ですから、『 大無量寿経』以外の一切経は方便の教えです。 では、『 大無量寿経』以外の一切経には何が説かれているのでしょうか? 一切経に説かれていることは? 一切経には何が説かれているのかというと、です。 すべての人は、幸せを求めて生きているのに、みんな苦しんでいます。 お金を手に入れたら幸せになれる、やりたいことをやったら幸せになれると思って、朝から晩まで色々なことをしていますが、苦しみ悩みがやってきます。 キリスト教を信じたり、イスラム教を信じたりして幸せになろうとしている人もありますが、 結局、苦しみばかりがやってきて、人生はあっという間に終わって行きます。 どんなに科学が進歩して便利になっても、幸せになれません。 それはなぜかというと、大宇宙の真理を知らないからです。 これを知らないから苦しみの一生で終わって行くのです。 この世苦しければ、未来もまた苦しみ続けねばなりません。 すべての人は、色々なものを信じて幸せになれずに苦しんでいるので、 まず大宇宙の真理である因果の道理を教えられたのです。 因果の道理とは、このような教えです。 善因善果 悪因悪果 自因自果 これは、善いことすれば幸せが、悪いことすれば不幸や災難が現れる。 自分のまいたタネは自分が刈り取らなければならない、ということです。 これなら誰でも分かります。 世の中には、色々な宗教や価値体系、考え方を持った人がいます。 しかし、どんな考え方をしたところで、変わらない幸せになれないことに変わりはありません。 そこでお釈迦さまは、色々な考え方を持つ人々を、 一人ももらさず絶対の幸福の世界へ導くために、 まず誰でも納得できる因果の道理を教えて統合されたのです。 この軌道へ乗せないことには、その先へ進むことはありせん。 因果の道理の教えによって、であることが知らされてくると、 「 廃悪修善(はいあくしゅぜん)」の心が起きてきます。 廃悪修善とは、悪いことをやめて、善いことしようという心です。 お釈迦さまの先生の阿弥陀仏が十九願に善いことしなさいとお約束されているので、 お釈迦さまは一生涯、廃悪修善を勧められたのです。 お釈迦さまは七千余巻の一切経にたくさんの善を説かれたのですが、 『 法華経』までの教えは一応『 法華経』におさまります。 その『 法華経』を説いておられる最中に、 お釈迦さまは『 法華経』を中断されて『 観無量寿経』を説かれています。 『 法華経』よりも、『 観無量寿経』のほうが重要ということです。 『 法華経』は自力の出世本懐経ではありますが、出世本懐の中の本懐ではありません。 『 法華経』までの教えは『 観無量寿経』を説かれるためであったということです。 ですから釈迦一代の教えは『 観無量寿経』におさまります。 このことを親鸞聖人は、このように教えられています。 臨終現前の願により 釈迦は諸善をことごとく 観経一部にあらわして 定散諸機をすすめけり(浄土和讃) 「 臨終現前の願」とは、阿弥陀仏の十九願のことです。 お釈迦さまは、阿弥陀仏の十九願の「 善いことをしなさい」という修善の勧めを 一切経七千余巻に一生涯教えて行かれました。 そのあらゆる善を「 観経一部にあらわして」とは、 『 観無量寿経』一巻にダイジェストされた、要約されたということです。 このように、一切経は『 観無量寿経』におさまるのです。 では『 観無量寿経』に何が説かれているのでしょうか。 観無量寿経の内容 『 観無量寿経』に説かれていることを、親鸞聖人は、 「 定散諸機をすすめけり」といわれています。 『 観無量寿経』には、お釈迦さまがそれまで説かれたあらゆる善を、定善(じょうぜん)と散善(さんぜん)の2つの善にまとめて説かれています。 この定善と散善を「 定散二善(じょうさんにぜん)」といいます。 それをやっている人を「 定散諸機(じょうさんしょき)」といいます。 このように一切経は、阿弥陀仏の十九願を解説された『 観無量寿経』におさまることを親鸞聖人は『 一念多念証文(いちねんたねんしょうもん)』にも教えられています。 八万四千の法門はみなこれ浄土の方便の善なり。 これを「 要門」という。 これを「 仮門」と名けたり。 この要門・仮門というは、即ち『 無量寿仏観経』一部に説きたまえる定善・散善これなり。 (一念多念証文) 「 八万四千の法門」とは、一切経七千余巻に説かれた教えのことです。 一切経に説かれた教えは、すべて「 浄土の方便の善」だと教えられています。 「 浄土」とは阿弥陀仏のことです。 阿弥陀仏の方便の善とは、阿弥陀仏が十九願に誓われた善のことです。 一切経に説かれた教えは、すべて阿弥陀仏の十九願を開かれたものなのです。 それを親鸞聖人は、「 要門(ようもん)」とも「 仮門(けもん)」とも言われています。 「 要門」の門とは教えということです。 「 要」とは、重要とか肝要ということです。 ここを通らずに一歩進めませんので、要門といわれています。 「 仮門」とは方便の教えということで、真実に近づけ、体得させるに絶対必要な教えです。 その要門・仮門は『 観無量寿経』に説かれる定善、散善であると教えられています。 このように、釈迦の一切経の教えは、すべて阿弥陀仏の十九願の善であり、 それは『 観無量寿経』の定善、散善におさまるのです。 その阿弥陀仏の善の勧めを要門と教えられ、 ここを通らないと先へ進めませんから、 それが要約されている『 観無量寿経』の一切経における位置づけが いかに重要なものかわかります。 では、定善、散善とは何でしょうか。 仏教の教えの通りに進んで行くと知らされること 「 定善」とは、心をしずめて阿弥陀仏とその浄土を思い浮かべる善です。 教えの通りに実行しようとすると、一つにならない自分の心が知らされて来ます。 私たちは阿弥陀仏一仏を念ずることができると思っているので、 の時だけでも心を一つにしようとすると、心が飛び歩いているのが知らされます。 心をしずめようとする前でも、心が散り乱れているのは同じですが、 しずめようとしないからわからないだけです。 しずめようとしたから知らされるのです。 そこで、心が散り乱れたままでもいいから、善をやりなさい、 と教えられたのが「 散善」です。 親孝行ができると思っている人は、あまり親孝行をしていない人です。 親孝行をしようとしてはじめて、親不孝しかできないことが知らされます。 人間は一つの善もできない悪しかできない者だと聞いても、 「 そうですか」というだけです。 善をしてみて初めて、一つの善もできない私だったと知らされます。 こうしてお釈迦さまは『 観無量寿経』の最後にを勧められて、 『 阿弥陀経』に送ろうとされます。 お釈迦様は私たちの本当の姿を知らせて、 阿弥陀如来の本願に救われる所まで導こうとされているのです。 それが阿弥陀仏のお弟子であるお釈迦様のただ一つの使命だからです。 そして、善もできない、悪のやまらない私と知らされると、 念仏を称えずにおれなくなってきます。 信仰が進めば必ず念仏を称えずにおれなくなるのです。 では、『 阿弥陀経』には何が説かれているのでしょうか? 阿弥陀経の内容 『 阿弥陀経』には何が説かれているかというと、念仏です。 お釈迦さまの教えの通り、廃悪修善を心がけて進んで行くと、 善ができないことが知らされます。 けれども、念仏なら称えられるという心が出てきます。 そこでお釈迦さまはこう説かれています。 名号を執持すること、若しは一日・若しは二日、若しは三日・若しは四日・若しは五日・若しは六日・若しは七日、一心不乱ならん。 (阿弥陀経) これが『 阿弥陀経』の要です。 「 名号を執持」とは、念仏を称えることです。 念仏ほど尊いものはないから、もしは一日からもしは七日まで、一心不乱に称えなさいということです。 これは阿弥陀仏が二十願にお約束されていることです。 阿弥陀仏は二十願に、 「 念仏を称えなさい、そうしたら助けます」 とお約束されています。 その阿弥陀仏の二十願を、お釈迦さまは『 阿弥陀経』に解説されているのです。 若一日から若七日というのは、一週間で終わりではなく、死ぬまでのことです。 「 命のある限り、一心不乱に念仏を称えなさい、そうしたら臨終に迎えに往って、極楽へ連れて往ってもらえますよ」 と教えられています。 私たちは、善ができなくても、念仏くらいは称えられると思っていますので、 お釈迦さまは「じゃあやってごらん」と勧められているのです。 すると、念仏も称えきれない私だったと知らされます。 それを知らせる為に説かれたのが、『 阿弥陀経』なのです。 念仏も称えきれない、しか行き場のない我が身と知らされて、 一念で絶対の幸福に救われるのです。 もう1つ『 阿弥陀経』で大事なのは、大宇宙の仏方が阿弥陀仏の作られたをほめたたえられていると説かれています。 大宇宙の諸仏方が「間違いない、本当だ」と保証されているのです。 このように、お釈迦さまも、大宇宙の諸仏も、『 大無量寿経』に説かれる阿弥陀如来の救いに導こうとされているのです。 浄土三部経のまとめ このことを親鸞聖人は、このように教えられています。 釈迦弥陀はの父母 種々に善巧方便し われらが無上の信心を 発起せしめたまいけり(高僧和讃) 「 無上の信心」とは絶対の幸福のことです。 絶対の幸福になれたのは、釈迦弥陀の善巧方便あったなればこそであった、 ということです。 「 釈迦弥陀」とは、阿弥陀仏とお釈迦さまです。 阿弥陀仏の方便とは、十九願と二十願です。 お釈迦さまの方便とは『 大無量寿経』までの一切経です。 私たちを絶対の幸福にするには、阿弥陀仏もお釈迦さまも、善巧方便が必要だったのです。 蓮如上人もこのように教えられています。 方便を悪しということは、あるまじきなり。 方便を以て真実を顕わす廃立の義よくよく知るべし。 弥陀・釈迦・善知識の善巧方便によりて、真実の信をば獲ることなる。 (御一代記聞書) たまに、自分は善ができないことは分かったから、念仏を称えようと、 善をせず、要門を通らずにその先へ進もうとする人がありますが、「 善巧方便によりて、真実の信を獲る」と教えられています。 私たちは自惚れ強いので、「 要門」を通ってはじめて知らされるのが、 悪のやまない自分です。 それを通ってはじめて、念仏に目がつくのです。 そして一心不乱に称えずにおれない気持ちが出てきます。 一切経七千余巻のお経は、私たちに真実わからせる為に説かれたものなのです。 方便は嘘でもなければ、あってもなくてもいいものでもありません。 真実へ近づけ、体得させるに絶対必要なものなのです。 最後に、浄土真宗のお経である「 浄土三部経」についてまとめると、 「 浄土三部経」を一言でいえば、 『 大無量寿経』は「 聞けば必ず助かる」ということです。 『 観無量壽経』は「 どんな人でも」ということです。 『 阿弥陀経』は、「 間違いない、本当だ」ということです。 このように、釈迦の説かれた一切経は、浄土三部経におさまります。 だから浄土真宗のお経は浄土三部経なのです。 そして一切経も、浄土三部経の『 観無量寿経』も『 阿弥陀経』も 『 大無量寿経』をわからせる為に説かれた方便のお経なのです。 ではどうすれば『 大無量寿経』に説かれる阿弥陀如来の本願に救われて、絶対の幸福になれるのかという本質は、小冊子とメール講座にまとめておきましたので、今すぐ以下からご覧ください。

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無量寿経

浄土真宗 お経 全文

浄土真宗で読まないお経 浄土真宗でよく歌のように読まれている「 帰命無量寿如来(きみょうむりょうじゅにょらい)……」というのは、『 (しょうしんげ)』といいます。 お経とは、の説かれた教えを書き残したものをお経といいます。 『 正信偈』は親鸞聖人の書かれたものですから、お経とは言いません。 ですから『 正信偈』を書き写すのは、写経とは言いません。 書写といいます。 また、浄土真宗以外の宗派でよく読まれたり写経される『 』も、浄土真宗では読みません。 一切経七千余巻には、もっと大事なお経があるのです。 では、浄土真宗では、どんなお経を読むのでしょうか? 浄土三部経(じょうどさんぶきょう) お釈迦さまの教えを書き残されたお経は、全部まとめて一切経といいます。 お釈迦さまが、35歳で仏のさとりを開かれてから、80歳でお亡くなりになるまで45年間説かれた教えを書き残されたものですから、その数は七千余巻といわれるたくさんのお経です。 そのお経の中で、最も大事なお経が3つあります。 それは、すべての人を救うと誓われたが集中的に説かれている 『 大無量寿経(だいむりょうじゅきょう)』 『 観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』 『 阿弥陀経(あみだきょう)』 の3つです。 『 』は『 無量寿経』とも『 大経』ともいいます。 『 』は『 無量寿仏観経』とも『 観経』ともいいます。 『 』は、『 小経』ともいいます。 これらの3つのお経を「 (じょうどさんぶきょう)」といいます。 この3つの重要なお経を「 浄土三部経」と名づけられたのは、親鸞聖人の先生の上人です。 法然上人の主著『 選択本願念仏集(せんじゃくほんがんねんぶつしゅう)』にこのように教えられています。 正しく浄土を明かす教というは、いわく三経一論これなり。 「 三経」とは、 一には『 無量寿経』、 二には『 観無量寿経』、 三には『 阿弥陀経』なり。 「 一論」とは、の『 往生論』これなり。 あるいはこの三経を指して浄土の三部経と号す。 (選択本願念仏集) 『 無量寿経』とは『 大無量寿経』のことです。 ちなみに「天親の『 往生論』」とは、の2番目の、天親菩薩の主著、『 浄土論』のことです。 『 大無量寿経』、『 観無量寿経』、『 阿弥陀経』の3つを『 浄土三部経』と名づけるといわれています。 浄土三部経を説かれたのは誰? 世の中には、この浄土三部経を、お釈迦さまの説かれたお経ではないと主張する人があります。 それについては、親鸞聖人はこう教えられています。 この三経はすなわち大聖の自説なり。 (教行信証) 「大聖」とはお釈迦さまのことです。 この浄土三部経は、お釈迦さまが自ら説かれたものだ、といわれています。 これに反する主張をしているような人は、浄土真宗の人ではありません。 親鸞聖人の教えのすべてが記された『 』は、このお釈迦さまの説かれた浄土三部経について詳しく教えられたものです。 『 教行信証』6巻のうち、はじめの5巻に『 大無量寿経』について、最後の化土巻に『 観無量寿経』と『 阿弥陀経』について教えられています。 このように、一切経でも最も重要なお経が浄土三部経ですから、一切経は浄土三部経におさまります。 この釈迦の説かれた浄土三部経が、浄土真宗のお経なのです。 ではなぜ一切経は浄土三部経におさまるのでしょうか? お釈迦さまが一切経を説かれた目的は? お釈迦さまの説かれた一切経に何が教えられているのかというと、 親鸞聖人は『 正信偈』にこのように教えられています。 如来世に興出したもう所以は 唯弥陀の本願海を説かんがためなり(正信偈) 「 如来世に興出したもう所以は」とは、お釈迦さまが地球上に現れて、仏教を説かれた目的は、ということです。 お釈迦さまが一切経を説かれた目的は何であったのかというと、「 唯」ですから、2つも3つもない、ただ1つであったということです。 そのただ一つのこととは何かというと、「 弥陀の本願海」一つを説かれるためであったといわれています。 「 弥陀の本願海」とは海のように深くて広い、阿弥陀如来の本願のことです。 とは、大宇宙に数え切れないほどおられるたくさんの仏の先生の仏です。 このことを上人は、『 』にこのように教えられています。 阿弥陀如来と申すは三世十方の諸仏の本師本仏なり(御文章) 地球上で仏のさとりを開かれたのはお釈迦さまただお一人ですが、大宇宙には地球のようなものが数え切れないほどありますから、仏のさとりを開かれた方も数え切れないほどあります。 その仏方を「 十方諸仏」といいます。 「 十方」とは大宇宙のことです。 その大宇宙の仏方の本師本仏が阿弥陀如来と言われています。 「 本師」も「 本仏」も先生のことですから、大宇宙の諸仏の先生の仏が、阿弥陀如来である、ということです。 お釈迦さまも大宇宙の諸仏の一仏ですから、阿弥陀仏はお釈迦さまの先生の仏です。 その阿弥陀如来の本願に何がお約束されているのかというと、 「 すべての人を必ず絶対の幸福に助ける」 とお約束されています。 すべての人を何としても絶対の幸福の世界へ出そうとされているのが本師本仏の阿弥陀如来です。 仏教では、弟子の使命は先生の御心を伝えることですから、お釈迦さまが一切経を説かれた目的は、先生である阿弥陀如来の本願一つを説かれるためであったのです。 大無量寿経の内容 では、お釈迦さまが仏教を説かれた目的である阿弥陀如来の本願はどこに説かれているのかというと『 大無量寿経』です。 ですから親鸞聖人はこのように教えられています。 それ真実の教を顕さば、すなわち『 大無量寿経』これなり。 (教行信証) 「 真実の教」とは、釈迦がこの世に生まれた目的のお経のことです。 これを「 出世本懐経(しゅっせほんがいきょう)」といいます。 「 経」には教えが説かれているので、「 教」も「 経」も同じです。 釈迦の出世本懐のお経が『 大無量寿経』だということは、 他の一切の経は、『 大無量寿経』を説くための方便の教えである、ということです。 「 方便」とは、どうでもいいものではありません。 私たちを真実に近づけ、真実を体得させるに絶対必要なものをいいます。 阿弥陀如来は、全部で48のお約束をされています。 これを阿弥陀仏の四十八願といいます。 その 四十八願の中でも、阿弥陀仏が本心を誓われているのが18番目にお約束された十八願です。 ですから阿弥陀如来の本願とは、阿弥陀如来の十八願のことです。 その十八願の世界へすべての人を出させるために阿弥陀如来が建てられたのが十九願と、二十願です。 ですから、阿弥陀仏の方便が、十九願と二十願です。 では十九願はどんなお約束かというと、 「 善いことしなさい、そうしたら助けます」というお約束です。 この十九願を解説されたのが一切経なのです。 ですから、『 大無量寿経』以外の一切経は方便の教えです。 では、『 大無量寿経』以外の一切経には何が説かれているのでしょうか? 一切経に説かれていることは? 一切経には何が説かれているのかというと、です。 すべての人は、幸せを求めて生きているのに、みんな苦しんでいます。 お金を手に入れたら幸せになれる、やりたいことをやったら幸せになれると思って、朝から晩まで色々なことをしていますが、苦しみ悩みがやってきます。 キリスト教を信じたり、イスラム教を信じたりして幸せになろうとしている人もありますが、 結局、苦しみばかりがやってきて、人生はあっという間に終わって行きます。 どんなに科学が進歩して便利になっても、幸せになれません。 それはなぜかというと、大宇宙の真理を知らないからです。 これを知らないから苦しみの一生で終わって行くのです。 この世苦しければ、未来もまた苦しみ続けねばなりません。 すべての人は、色々なものを信じて幸せになれずに苦しんでいるので、 まず大宇宙の真理である因果の道理を教えられたのです。 因果の道理とは、このような教えです。 善因善果 悪因悪果 自因自果 これは、善いことすれば幸せが、悪いことすれば不幸や災難が現れる。 自分のまいたタネは自分が刈り取らなければならない、ということです。 これなら誰でも分かります。 世の中には、色々な宗教や価値体系、考え方を持った人がいます。 しかし、どんな考え方をしたところで、変わらない幸せになれないことに変わりはありません。 そこでお釈迦さまは、色々な考え方を持つ人々を、 一人ももらさず絶対の幸福の世界へ導くために、 まず誰でも納得できる因果の道理を教えて統合されたのです。 この軌道へ乗せないことには、その先へ進むことはありせん。 因果の道理の教えによって、であることが知らされてくると、 「 廃悪修善(はいあくしゅぜん)」の心が起きてきます。 廃悪修善とは、悪いことをやめて、善いことしようという心です。 お釈迦さまの先生の阿弥陀仏が十九願に善いことしなさいとお約束されているので、 お釈迦さまは一生涯、廃悪修善を勧められたのです。 お釈迦さまは七千余巻の一切経にたくさんの善を説かれたのですが、 『 法華経』までの教えは一応『 法華経』におさまります。 その『 法華経』を説いておられる最中に、 お釈迦さまは『 法華経』を中断されて『 観無量寿経』を説かれています。 『 法華経』よりも、『 観無量寿経』のほうが重要ということです。 『 法華経』は自力の出世本懐経ではありますが、出世本懐の中の本懐ではありません。 『 法華経』までの教えは『 観無量寿経』を説かれるためであったということです。 ですから釈迦一代の教えは『 観無量寿経』におさまります。 このことを親鸞聖人は、このように教えられています。 臨終現前の願により 釈迦は諸善をことごとく 観経一部にあらわして 定散諸機をすすめけり(浄土和讃) 「 臨終現前の願」とは、阿弥陀仏の十九願のことです。 お釈迦さまは、阿弥陀仏の十九願の「 善いことをしなさい」という修善の勧めを 一切経七千余巻に一生涯教えて行かれました。 そのあらゆる善を「 観経一部にあらわして」とは、 『 観無量寿経』一巻にダイジェストされた、要約されたということです。 このように、一切経は『 観無量寿経』におさまるのです。 では『 観無量寿経』に何が説かれているのでしょうか。 観無量寿経の内容 『 観無量寿経』に説かれていることを、親鸞聖人は、 「 定散諸機をすすめけり」といわれています。 『 観無量寿経』には、お釈迦さまがそれまで説かれたあらゆる善を、定善(じょうぜん)と散善(さんぜん)の2つの善にまとめて説かれています。 この定善と散善を「 定散二善(じょうさんにぜん)」といいます。 それをやっている人を「 定散諸機(じょうさんしょき)」といいます。 このように一切経は、阿弥陀仏の十九願を解説された『 観無量寿経』におさまることを親鸞聖人は『 一念多念証文(いちねんたねんしょうもん)』にも教えられています。 八万四千の法門はみなこれ浄土の方便の善なり。 これを「 要門」という。 これを「 仮門」と名けたり。 この要門・仮門というは、即ち『 無量寿仏観経』一部に説きたまえる定善・散善これなり。 (一念多念証文) 「 八万四千の法門」とは、一切経七千余巻に説かれた教えのことです。 一切経に説かれた教えは、すべて「 浄土の方便の善」だと教えられています。 「 浄土」とは阿弥陀仏のことです。 阿弥陀仏の方便の善とは、阿弥陀仏が十九願に誓われた善のことです。 一切経に説かれた教えは、すべて阿弥陀仏の十九願を開かれたものなのです。 それを親鸞聖人は、「 要門(ようもん)」とも「 仮門(けもん)」とも言われています。 「 要門」の門とは教えということです。 「 要」とは、重要とか肝要ということです。 ここを通らずに一歩進めませんので、要門といわれています。 「 仮門」とは方便の教えということで、真実に近づけ、体得させるに絶対必要な教えです。 その要門・仮門は『 観無量寿経』に説かれる定善、散善であると教えられています。 このように、釈迦の一切経の教えは、すべて阿弥陀仏の十九願の善であり、 それは『 観無量寿経』の定善、散善におさまるのです。 その阿弥陀仏の善の勧めを要門と教えられ、 ここを通らないと先へ進めませんから、 それが要約されている『 観無量寿経』の一切経における位置づけが いかに重要なものかわかります。 では、定善、散善とは何でしょうか。 仏教の教えの通りに進んで行くと知らされること 「 定善」とは、心をしずめて阿弥陀仏とその浄土を思い浮かべる善です。 教えの通りに実行しようとすると、一つにならない自分の心が知らされて来ます。 私たちは阿弥陀仏一仏を念ずることができると思っているので、 の時だけでも心を一つにしようとすると、心が飛び歩いているのが知らされます。 心をしずめようとする前でも、心が散り乱れているのは同じですが、 しずめようとしないからわからないだけです。 しずめようとしたから知らされるのです。 そこで、心が散り乱れたままでもいいから、善をやりなさい、 と教えられたのが「 散善」です。 親孝行ができると思っている人は、あまり親孝行をしていない人です。 親孝行をしようとしてはじめて、親不孝しかできないことが知らされます。 人間は一つの善もできない悪しかできない者だと聞いても、 「 そうですか」というだけです。 善をしてみて初めて、一つの善もできない私だったと知らされます。 こうしてお釈迦さまは『 観無量寿経』の最後にを勧められて、 『 阿弥陀経』に送ろうとされます。 お釈迦様は私たちの本当の姿を知らせて、 阿弥陀如来の本願に救われる所まで導こうとされているのです。 それが阿弥陀仏のお弟子であるお釈迦様のただ一つの使命だからです。 そして、善もできない、悪のやまらない私と知らされると、 念仏を称えずにおれなくなってきます。 信仰が進めば必ず念仏を称えずにおれなくなるのです。 では、『 阿弥陀経』には何が説かれているのでしょうか? 阿弥陀経の内容 『 阿弥陀経』には何が説かれているかというと、念仏です。 お釈迦さまの教えの通り、廃悪修善を心がけて進んで行くと、 善ができないことが知らされます。 けれども、念仏なら称えられるという心が出てきます。 そこでお釈迦さまはこう説かれています。 名号を執持すること、若しは一日・若しは二日、若しは三日・若しは四日・若しは五日・若しは六日・若しは七日、一心不乱ならん。 (阿弥陀経) これが『 阿弥陀経』の要です。 「 名号を執持」とは、念仏を称えることです。 念仏ほど尊いものはないから、もしは一日からもしは七日まで、一心不乱に称えなさいということです。 これは阿弥陀仏が二十願にお約束されていることです。 阿弥陀仏は二十願に、 「 念仏を称えなさい、そうしたら助けます」 とお約束されています。 その阿弥陀仏の二十願を、お釈迦さまは『 阿弥陀経』に解説されているのです。 若一日から若七日というのは、一週間で終わりではなく、死ぬまでのことです。 「 命のある限り、一心不乱に念仏を称えなさい、そうしたら臨終に迎えに往って、極楽へ連れて往ってもらえますよ」 と教えられています。 私たちは、善ができなくても、念仏くらいは称えられると思っていますので、 お釈迦さまは「じゃあやってごらん」と勧められているのです。 すると、念仏も称えきれない私だったと知らされます。 それを知らせる為に説かれたのが、『 阿弥陀経』なのです。 念仏も称えきれない、しか行き場のない我が身と知らされて、 一念で絶対の幸福に救われるのです。 もう1つ『 阿弥陀経』で大事なのは、大宇宙の仏方が阿弥陀仏の作られたをほめたたえられていると説かれています。 大宇宙の諸仏方が「間違いない、本当だ」と保証されているのです。 このように、お釈迦さまも、大宇宙の諸仏も、『 大無量寿経』に説かれる阿弥陀如来の救いに導こうとされているのです。 浄土三部経のまとめ このことを親鸞聖人は、このように教えられています。 釈迦弥陀はの父母 種々に善巧方便し われらが無上の信心を 発起せしめたまいけり(高僧和讃) 「 無上の信心」とは絶対の幸福のことです。 絶対の幸福になれたのは、釈迦弥陀の善巧方便あったなればこそであった、 ということです。 「 釈迦弥陀」とは、阿弥陀仏とお釈迦さまです。 阿弥陀仏の方便とは、十九願と二十願です。 お釈迦さまの方便とは『 大無量寿経』までの一切経です。 私たちを絶対の幸福にするには、阿弥陀仏もお釈迦さまも、善巧方便が必要だったのです。 蓮如上人もこのように教えられています。 方便を悪しということは、あるまじきなり。 方便を以て真実を顕わす廃立の義よくよく知るべし。 弥陀・釈迦・善知識の善巧方便によりて、真実の信をば獲ることなる。 (御一代記聞書) たまに、自分は善ができないことは分かったから、念仏を称えようと、 善をせず、要門を通らずにその先へ進もうとする人がありますが、「 善巧方便によりて、真実の信を獲る」と教えられています。 私たちは自惚れ強いので、「 要門」を通ってはじめて知らされるのが、 悪のやまない自分です。 それを通ってはじめて、念仏に目がつくのです。 そして一心不乱に称えずにおれない気持ちが出てきます。 一切経七千余巻のお経は、私たちに真実わからせる為に説かれたものなのです。 方便は嘘でもなければ、あってもなくてもいいものでもありません。 真実へ近づけ、体得させるに絶対必要なものなのです。 最後に、浄土真宗のお経である「 浄土三部経」についてまとめると、 「 浄土三部経」を一言でいえば、 『 大無量寿経』は「 聞けば必ず助かる」ということです。 『 観無量壽経』は「 どんな人でも」ということです。 『 阿弥陀経』は、「 間違いない、本当だ」ということです。 このように、釈迦の説かれた一切経は、浄土三部経におさまります。 だから浄土真宗のお経は浄土三部経なのです。 そして一切経も、浄土三部経の『 観無量寿経』も『 阿弥陀経』も 『 大無量寿経』をわからせる為に説かれた方便のお経なのです。 ではどうすれば『 大無量寿経』に説かれる阿弥陀如来の本願に救われて、絶対の幸福になれるのかという本質は、小冊子とメール講座にまとめておきましたので、今すぐ以下からご覧ください。

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