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「ピアノの詩人」ショパンについて

ショパン ピアノ

概要 [ ] 第一次世界大戦の終結を経てポーランドが一国家として独立してから9年後にあたるに第1回大会を開催。 現存する国際音楽ピアノコンクールの中では世界最古とされており、現在はポーランド国立ショパン研究所がコンクールを主催している。 のやの等と共に、1957年に発足した(ユネスコ国際音楽評議会メンバー)の設立メンバーの一員となっている。 音楽コンクールの最高峰と目されており、の、と共に「世界三大コンクール」と称されている。 コンクール略歴 [ ] ワルシャワのショパン像 のイェジ・ジュラヴレフ教授は、で荒廃した人々の心を癒し、当時フランス音楽と考えられていたショパンの音楽をポーランドに取り戻して愛国心を鼓舞しようと考え、コンクールの創設を思い立った。 1927年に第1回大会を開催。 中に中断があったが、その後5年おきにショパンのであるの前後3週間に開催されている。 旧 現在の で開催される国際コンクールが、21世紀を迎えても続いている稀な例 である。 の時代、の第5回コンクールまでの優勝者は、かの出身者によって占められていた。 しかしの第6回コンクールで出身者1名、人のが優勝し、西側諸国出身者の優勝者が出るようになったのはこれ以降の事である。 1990年の第12回と1995年の第13回では2回続いて第1位優勝者が輩出されないという状況となったが、2000年の第14回に優勝者が15年ぶりに選出された(の)。 2005年の第15回コンクール以降はで映像がリアルタイム配信されている。 2020年に開催予定だった第18回は、の影響で翌2021年10月に延期された。 ルール [ ] 課題曲は、すべてショパンの作品となっている。 コンクール出場資格は16歳以上30歳以下の年齢制限がある。 これも2005年に27歳以下であった制限が、2010年に緩和されて今に至る。 より好ましい審査のために、毎回根本的な見直しが図られている。 例えば、かつては抜粋演奏にならざるを得なかったが、このごろはこれを全曲通奏できるように変わってきた。 第一次にノクターン、第二次にワルツ、第三次にマズルカを課すルールを2005年にやめたことがあり、批判を受けて元に戻した。 近年の審査は下記の段階を踏まれる。 1と2は募集締め切り後の早期に終えられ、通過した者だけが準備を進めることとなり、3~6は開催期間中に実施される。 予備審査:書類提出(国際的に著名な教授かピアニストの推薦状と音楽歴), DVD提出• 予備予選:現地演奏(開催期間前)• 一次予選• 二次予選• 三次予選(準本選)• 本選:ピアノ協奏曲 使用コンサートフルグランドピアノ [ ] どのメーカーのモデルも、まんべんなく使われていることが特徴である。 現行公式ピアノ [ ]• (スタインウェイブランドは1927年第1回から採用。 (ヤマハブランドは1985年第11回から採用。 (カワイブランドは1985年第11回から採用。 (ファツィオリブランドは2010年第16回から採用。 ) かつての公式ピアノ [ ]• (1927年第1回から採用されていた。 21世紀以降公式ピアノから除外されている。 が1980年にを用いた。 ) 受賞者と審査員 [ ] 第1回 1927年 [ ]• 第1位 (ソ連)• 第2位 (ポーランド)• 第3位 (ポーランド)• 第4位 (ソ連)• 第1位 (ソ連)• 第2位 (ハンガリー) 同点で、コイン・トスによって順位を決めた。 第3位 (ポーランド)• 第4位 (ソ連)• 第5位 (ハンガリー)• 第6位 (ソ連)• 第7位 (ポーランド)• 第8位 (ソ連)• 第9位 (ハンガリー)• 第10位 (オーストリア)• 第11位 (ソ連)• 第12位 (ドイツ)• 第13位 (ポーランド)• 第14位 (ハンガリー)• 第15位 (ベルギー)• 第1位 (ソ連)• 第2位 (ソ連)• 第3位 (ポーランド)• 第4位 (イギリス)• 第5位 (ハンガリー)• 第6位 (ドイツ)• 第7位 (フランス)• 第8位 (ポーランド)• 第9位 (ソ連)• 第10位 (ポーランド)• 第11位 (フランス)• 第12位 (フランス)• 第13位 (ポーランド)• Polish Radio Prize for the best performance of mazurkas — ヤコフ・ザーク• 第1位 (ポーランド)、(ソ連)• 第2位 (ポーランド)• 第3位 (ポーランド)• 第4位 (ソ連)• 第5位 (ポーランド)• 第6位 (ポーランド)• 第7位 (ソ連)• 第8位 (ポーランド)• 第9位 (ソ連)• 第10位 (ソ連)• 第11位 (ポーランド)• 第12位 (ポーランド)• Distinctions - Carmen de Vitis Adnet Brazil 、Oriano de Almeida Brazil 、Carlos Rivero Mexico 、Ludmila Sosina USSR 、Imre Szendrei Hungary• 第1位 (ポーランド)• 第2位 (ソ連)• 第3位 (中国)• 第4位 (フランス)• 第5位 (ソ連)• 第6位 (ソ連)• 第7位 (ポーランド)• 第8位 (ポーランド)• 第9位 (ソ連)• 第10位 (日本)• 第1位 (イタリア)• 第2位 (ソ連)• 第3位 ()(イラン)• 第4位 (中国)• 第5位 (ソ連)• 第6位 (ソ連)• 第1位 (アルゼンチン)• 第2位 (ブラジル)• 第3位 (ポーランド)• 第4位 (日本)• 第5位 (アメリカ)• 第6位 (ポーランド)• Polish Radio Prize for the best performance of mazurkas: Martha Argerich Argentina• 第1位 (アメリカ)• 第2位 (日本)• 第3位 (ポーランド)• 第4位 (アメリカ)• 第5位 (ソ連)• 第6位 (ポーランド)• Distinctions - (アメリカ)、Alain Neveux(フランス)、(日本)、Karol Nicze(ポーランド)、Ivan Klansky(チェコスロバキア)• Polish Radio Prize for the best performance of mazurkas: Garrick Ohlsson USA• Fryderyk Chopin Society Prize for the best performance of a polonaise: Piotr Paleczny Poland 審査員 - Raif J. 第1位 (ポーランド)• 第2位 (ソ連)• 第3位 (ソ連)• 第4位 (ソ連)• 第5位 (アメリカ)• 第6位 (ブラジル)• Distinctions - Elzbieta Tarnawska(ポーランド)、Wiktor Vasilyev(ソ連)、John Hendrickson(カナダ)、Katarzyna Popowa-Zydron(ポーランド)、Neal Larrabee(アメリカ)、Alexander Urvalov(ソ連)、William Wolfram(アメリカ)、Dan Atanasiu(ルーマニア)• Polish Radio Prize for the best performance of mazurkas: Krystian Zimerman Poland• 第1位 (ベトナム)• 第2位 (ソ連)• 第3位 (ソ連)• 第4位 なし• 第5位 (日本)、(ポーランド)• 第6位 (フランス)、(ソ連)• Fryderyk Chopin Society Prize for the best performance of a polonaise: Dang Thai Son Vietnam and Tatiana Shebanova USSR• 第1位 (ソ連)• 第2位 (フランス)• 第3位 (ポーランド)• 第4位 (日本)• 第5位 (フランス)• 第6位 (ソ連)• Distinctions - (フランス)、Ivari Ilya(ソ連)、(ブルガリア)、(日本)• Fryderyk Chopin Society Prize for the best performance of a polonaise: Stanislav Bunin USSR• Webb USA , タデウシュ・ジムジンスキ 第12回 1990年 [ ]• 第1位 該当者なし• 第2位 (アメリカ• 第3位 (日本)• 第4位 (イタリア)、(ロシア)• 第5位 (ロシア)、(日本)• 第6位 (フランス)• Distinctions - (日本)、(フランス)、(日本)、(日本)• Polish Radio Prize for the best performance of mazurkas: not awarded• 第1位 該当者なし• 第2位 (フランス 、(ロシア)• 第3位 (アメリカ)• 第4位 (ロシア)• 第5位 (日本)• 第6位 (ポーランド)• Distinctions - Nelson Goerner(アルゼンチン)、(日本)、(ベラルーシ)、Katia Skanavi(ロシア)• Polish Radio Prize for the best performance of mazurkas: not awarded• Fryderyk Chopin Society Prize for the best performance of a polonaise: not awarded• 第1位 (中国)• 第2位 (アルゼンチン• 第3位 (ロシア)• 第4位 (中国)• 第5位 (イタリア)• 第6位 (日本)• Distinctions - (アメリカ)、(日本)、(ロシア)、(ポーランド)、Nicolas Stavy(フランス)、(ルーマニア)• Polish Radio Prize for the best performance of mazurkas: not awarded• Fryderyk Chopin Society and City of Warsaw Prize for the best performance of a polonaise: サ・チェン and ユンディ・リ• 第1位 (ポーランド)• 第2位 なし• 第3位 (韓国)、(韓国)• 第4位 (日本)、(日本)• 第5位 なし• 第6位 (中国)• Distinctions - Jacek Kortus Poland 、Rachel Naomi Kudo USA 、Rieko Nezu Japan 、 Japan 、 South Korea 、Andrey Yaroshinsky Russia• 第1位 (ロシア)• 第2位 (ロシア・リトアニア)、(オーストリア)• 第3位 (ロシア)• 第4位 (ブルガリア)• 第5位 (フランス)• 第6位 なし• Distinctions - (ロシア)、(ロシア)、(フランス)、(ポーランド)• Polish Radio Prize for the best performance of mazurkas: Daniil Trifonov Russia• Prize of the Vice-chancellor of the Fryderyk Chopin University of Music for the best performance of the Polonaise-Fantasy: Ingolf Wunder Austria• Warsaw Philharmonic Prize for the best performance of a concerto: Ingolf Wunder Austria• 第1位 (韓国)• 第2位 (カナダ)• 第3位 (アメリカ)• 第4位 (アメリカ)• 第5位 (カナダ)• 第6位 ロシア)• Distinctions - クロアチア 、 日本 、 ポーランド 、 ラトビア)• The Krystian Zimerman Prize for the best performance of a Sonata - シャルル・リシャール=アムラン• Prize for the best performance of mazurkas ケイト・リュウ• For the best performance of polonaise チョ・ソンジン• Prof. For the best Polish participant after stage II SZYMON NEHRING• 日本人の入賞者 [ ]• 第3回 - (公式上は Distinctionsで、日本人 初出場者の彼女は聴衆の抗議によって特別賞が授与された。 第5回 - (第10位、日本人 初入賞者、審査員のがもっと上位に来ないと怒ったことで有名。 第7回 - (第4位)• 第8回 - (第2位)、(第8位)• 第10回 - (第5位、ベーゼンドルファーを使用した 最後の邦人入賞ピアニスト。 第11回 - (第4位)• 第12回 - (第3位)、(第5位)• 第13回 - (第5位)• 第14回 - (第6位)• 第15回 - 、(ともに第4位)(ポーランド批評家賞受賞) 日本人の審査員 [ ]• 第8回 - (日本人初)• 第9回 -• 第10回 -• 第11回 -• 第12回 - 、• 第13回 - 、• 第14回 - 、• 第15回 -• 第16回 -• 第17回 - 脚注 [ ]• 2020年3月14日閲覧。 菅野恵理子 2011年5月6日. 2020年3月14日閲覧。 コンクール. 東京国際芸術協会. 2020年3月14日閲覧。 音楽部門. 2020年3月14日閲覧。 2010年10月1日. 2020年3月14日閲覧。 「 」 『Info Mart』第70号、、2014年3月10日、 2020年3月14日閲覧。 タンスマン国際音楽コンクールのように経済難で休止されることは珍しくない。 田中泰 2016年3月3日. ONLINE. 2020年3月14日閲覧。 2020年3月14日閲覧。 2020年3月14日閲覧。 online. 2020年3月14日閲覧。 参考文献 [ ]• - ショパン国際ピアノコンクールを舞台に描かれている漫画。 - ショパン国際ピアノコンクールを舞台に描かれている小説。 具体的に2010年という時代設定なので、第16回ということになる。 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 (英語) (ポーランド語) - ポーランド国立ショパン研究所Webサイトより• (英語) (ポーランド語) - 第17回大会(2015年)公式サイト• (英語) - Webサイトより.

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「ピアノの詩人」ショパンについて

ショパン ピアノ

当時のヨーロッパにおいてもとして、またとして有名だった。 その作曲のほとんどをピアノ独奏曲が占め、 ピアノの詩人 とも呼ばれるように、様々な形式・美しい旋律・半音階的和声法などによってピアノの表現様式を拡大し、ピアノ音楽の新しい地平を切り開いた。 やなど、今日でも彼の作曲したピアノ曲はクラシック音楽ファン以外にもよく知られており、ピアノの演奏会において取り上げられることが多い作曲家の一人である。 また、強いポーランドへの愛国心からフランスの作曲家としての側面が強調されることは少ないが、父の出身地で主要な活躍地だった同国の音楽史に占める重要性も無視できない。 からポーランドで発行されていた5000紙幣に肖像が使用されていた。 また、にもショパンの肖像を使用した20の記念紙幣が発行されている。 略歴 [ ]• - 0歳:中央のに生まれる。 - 6歳:の指導を受ける。 - 7歳:ジヴヌィよりピアノを習う。 現存する最初の作品『』を作曲・出版。 - 8歳:ワルシャワではじめて公開演奏。 - 12歳:より・を学ぶ。 - 16歳:父親の勧めでワルシャワ音楽院に入学。 - に2週間滞在。 - ワルシャワ音楽院を首席で卒業。 ウィーンで演奏会を開く。 - ワルシャワを去りウィーンへ向かう。 - ウィーンを去りパリへ向かう。 デルフィヌ(デルフィナ)・ポトツカ夫人と再会。 - 、パリでの初の演奏会を開く。 - で両親と最後の再会。 マリア・ヴォジンスカとも再会。 - 26歳:マリアに求婚。 と出会う。 - マリアとの婚約が破棄される。 - サンドとの交際が始まる。 に滞在。 - 冬はパリ、夏はノアンのサンドの別荘で暮らす生活が始まる。 - 冬、インフルエンザにかかる。 - 37歳:ジョルジュ・サンドとの別れ。 - 、パリでの最後の演奏会。 へ演奏旅行。 - 39歳:姉、ルトヴィカと最後の再会。 、永眠。 生涯 [ ] 幼少期 [ ] 母・ユスティナ ショパンの父親はといい、からに16歳でに移住してきたフランス人だった。 ので、彼はワルシャワの市民兵として戦いに加わり、副官へ昇格した。 元来外国人だった彼だが、時とともに完全にポーランドに馴染んだ。 フランス語が堪能だったニコラは知られる存在となり、貴族の家庭教師をするようになった。 彼女は(ポーランド貴族)の娘だったが、地位を失いスカルベク家に住み込んでをしていた。 二人の結婚式はのブロフフ の教区の聖ロフ教会で、に執り行われた。 ユスティナの兄弟には、のでのを務めることになるがいた。 フレデリック・ショパンは夫妻の2人目の子供として生まれた。 彼は当時だったワルシャワから西に46kmの地点にある村で生まれた。 に発見された教区の洗礼記録によると、彼の生年月日はとなっているが これは本人やその家族の主張するという日付より一週間早い。 、ショパンがにパリのポーランド文学協会(Polish Literary Society)の議長に宛てた書簡には、彼が「にマゾフシェ県のジェラゾヴァ・ヴォラ村で生まれた」と記されている。 ショパンはのの日曜日、両親が結婚式を挙げたのと同じブロフフの教会で洗礼を受けた。 登記簿には彼の名前はラテン語表記で Fridericus Franciscus 、ポーランド語表記で Fryderyk Franciszekと記されている。 彼のとなったフレデリック・スカルベク()は後に監獄を改修する仕事 に従事し、第二次世界大戦で悪名をとどろかせたの設計に携わった。 また彼は第二次世界大戦での特殊作戦執行部 に所属していたクリスティナ・スカルベク()の曽祖おじにあたる。 代父の息子のヨーゼフ・スカルベクは、かつてショパンと婚約関係にあったマリア・ヴォジンスカ()とに結婚する。 ショパンの洗礼記録 10月、ショパンが7か月の時、サミュエル・リンデ が父にワルシャワ学院 でを教えないかと持ちかけ、承諾した父と共に家族はワルシャワに移住した。 学院はサクソン宮殿 内にあり、ショパン一家は宮殿の庭園に住むことになった。 サクソン宮殿はにによって軍用地として徴収され、学院はカジミール宮殿 へ移動を余儀なくされた。 カジミール宮殿には新たに設立されたも入居していた。 ショパン一家は隣接する建物の二階で広々と暮らすことになった。 ショパンもワルシャワ学院にからにかけて通った。 ポーランドの精神・習慣・言葉はショパンの家庭に浸み込んでおり、ショパンはパリに出てからもフランス語を完全には自分のものにできなかった。 伝記作家のルイ・エノー はジョルジュ・サンドの言葉を借りて、ショパンは「ポーランドよりもポーランド的」と評している。 ショパンの家族は皆音楽の才能に恵まれていた。 父ニコラはとを演奏できた。 母ユスティナはに長けており、一家で切り盛りしていたの寮で寮生の少年たちに指導をしていたので、 ショパンは幼い頃から様々な音楽に親しむことができた。 ショパンと同時代の音楽家のヨゼフ・シコルスキー の著書『ショパンの想い出 Wspomnienie Chopina』によると、幼いショパンは母が弾くピアノを聴いて感極まって涙を流したという。 彼は6歳にして、耳にした旋律を再現しようとしたり、新たなメロディーを作ろうとしたりした。 しかし、ショパンに最初にピアノのを教えたのは母ではなく、姉のルドヴィカ だった。 ショパンが本格的にピアノを習ったのはから、指導者はチェコ人のだった。 若きショパンの実力はあっという間に師匠を超えてしまったが、ショパンは後年ジヴヌィを高く評価していた。 わずか7歳の「ショパン少年 Szopenek」は公開演奏を行うようになり、瞬く間にやと比較されるようになっていった。 同年、7歳のショパンはト短調と変ロ長調の2つの『』を作曲した。 前者は老イジドル・ユゼフ・チブルスキ の印刷工房で刷られ、出版された。 後者は父ニコラが清書した原稿の状態で見つかっている。 これらの小品はワルシャワの先導的作曲家たちの人気の『小ポロネーズ』のみならず、ミヒャウ・オジンスキ の有名な『大ポロネーズ』にも匹敵する作品と言われた。 この後の旋律・和声・ピアノ奏法の創意工夫は、知られている次の『』に明らかである。 この曲はにの贈り物としてジヴヌィに捧げられた。 幼少期の知的好奇心旺盛なショパンは、まるで乾いたスポンジのように何でも吸収し、それを発展させるためならば何でも利用した。 彼は早くから観察とスケッチ、鋭いウィットとユーモアの感性に能力を示し、ものまねにも才能を持っていた。 この頃、11歳のショパンは、議会(セイム)の開会のためにワルシャワに来ていたの皇帝の御前で演奏を披露した。 また、のだったの息子の遊び相手としてベルヴェデール宮殿 に時々招かれ、ピアノを弾いて怒りっぽい副王を魅了した。 ユリアン・ニームチェヴィツ は、劇的『我らの交わり Nasze Verkehry』()の中で、8歳のショパン少年を対話の題材に据えて、その人気の高さについて証言している。 、ワルシャワ学院とワルシャワ音楽院に通っていたショパンは、休暇の度にワルシャワから離れて過ごすようになった。 とにはシャファルニャ 、にはバート・ライネルツ(現:) 、には、にはサンニキ を訪れた。 休暇で訪れたシャファルニャ村やその他の町では、ショパンは民謡に触れた。 この経験は後になって彼の作品へと形を変える。 シャファルニャから彼の家に送られた長い手紙 は、時代を反映した活き活きとしたポーランド語で綴られており、ワルシャワの新聞のパロディ として仕立てられたその手紙は大いに家族を楽しませた。 以降 ショパンは13歳になるまで家庭でジヴヌィから指導を受けており、のワルシャワ学院入学後もその関係は続いた。 には演奏会での曲を弾くとともにで聴衆を魅了し、「ワルシャワで最高のピアニスト」と絶賛された。 ショパンはに出身の作曲家(エルスナーなどと表記されることもある)の指導の下、ワルシャワ音楽院で3年の教育課程に入った。 実はショパンが最初にエルスネルに会ったのはであり、にも非公式にアドバイスを受けていたのは間違いない [ ]。 そしてに本格的な師弟関係が始まり、ショパンはエルスネルに付いて・・の勉強を開始した。 エルスネルはショパンの通知表に「顕著な才能」そして「音楽の天才」と記している。 ジヴヌィもそうだったように、エルスネルもまたショパンの才能が開花するのに対して手を施すことはなく、ただ見守るだけだった。 エルスネルはショパンを指導するにあたって「偏狭で、権威的、時代遅れな」規則で「押さえつける」ことを嫌い、若い才能を「彼自身の決めたやり方の通りに」成長させていくことにした。 クラジンスキ宮殿。 ショパンは南館(左側)に住んだ。 に一家はワルシャワ大学と通りを挟んで丁度向かいにあたる、クラコフスキ区 のクラシンスキ宮殿 南館に移り住んだ。 この場所でもショパンの両親はエリート男子学生のための寄宿塾の経営を続けた。 ショパンはにワルシャワを後にするまで、ここに住んだ。 からには詩人のツィプリアン・カミル・ノルヴィト が芸術アカデミーで絵画を専攻する間、ここに住んだ。 彼は後にでロシア兵がショパンのピアノを投げ捨てたことに関して、『ショパンのピアノ Fortepian Szopena』という詩を詠んだ。 ショパンが通った床屋は現在博物館として公開されている。 ショパンはその店で幼少期の作品の多くを初演した。 ショパン ミエロシェフスキ作 、ポーランドの肖像画家のアンブロツィ・ミエロシェフスキ がショパンの両親、姉のルドヴィカ、妹のイザベラとショパン本人の肖像画を描いた。 一番下の妹のエミリアはに亡くなっていた。 これらの肖像画の原本は第二次世界大戦で消失しており、現在はの写真が残る。 にフランスの音楽学者・ショパンの伝記作家のエドゥアール・ガンシュ はこう記した。 「(この肖像画からは)この若者がに罹っていることがわかる。 彼の肌は極端に白く、が見られ、頬は落ち窪んでいる。 また耳も結核に典型的な消耗を呈している」。 ショパンの妹のエミリアの14歳での死因も結核であり、また父もに同じ病に倒れることになる。 ポーランドの音楽学者・ショパンの伝記作家のズジスワフ・ヤヒメツキ によれば、若いショパンはそれまでのどの作曲家と比べることも困難だという。 なぜならショパンが人生の前半に作曲した作品には既に高い独創性が見られるからだ。 や、ですら、同じような年頃には初心者の域を脱しなかったのに対し、ショパンは貴族や聴衆から既に来るべき時代の行方を示す大家として受け入れられていたのである。 ショパンは自作に自ら表題を与えることはせず、単純に曲のジャンルと番号によって個々を区別していた。 しかし、彼の作品は感情的・感覚的な人生体験に触発されることもしばしばあった。 そのような霊感を与えた最初の人物は、ワルシャワ音楽院の声楽科学生で後にワルシャワ・オペラの歌手となった美しいコンスタンツヤ・グワトコフスカ である。 親友のティトゥス・ヴォイチェホフスキに宛てた手紙の中で、彼のどの作品のどのパッセージが彼女への恋心から生まれたものであるかを綴っている。 彼はティトゥスにだけ自分の気持ちを吐露していた。 彼の芸術家としての精神はマウリツィ・モツナツキ 、ユゼフ・ザレスキ 、ユリアン・フォンタナとの交友で豊かになっていった。 青年期 [ ] の邸宅での演奏会 、ショパンはより広い世界に活躍の場を広げていく。 家族的な付き合いのあったフェリクス・ヤロツキ が 学会に出席するので同行して、に赴く。 ベルリンでは、の指揮する馴染みのないを鑑賞し、演奏会を聴きに行き、また やなどの著名人らと出会い、ショパンは楽しんで過ごす。 また、彼はその2週間ほどの滞在中にの『』、の『』、の『』を聴いた。 その帰途ではの総督だったに客人として招かれた。 ラジヴィウ公自身は作曲をたしなみ、チェロを巧みに弾きこなすことができ、またその娘のワンダ(Wanda)もピアノの腕に覚えがあった。 そこでショパンは『』を二人のために作曲した。 、ワルシャワに戻ったショパンはの演奏を聴き、ドイツのピアニスト・作曲家のと出会った。 同年8月には、ワルシャワ音楽院での3年間の修行を終えて、で華やかなデビューを果たす。 彼は2回の演奏会を行い、多くの好意的な評価を得た。 一方、彼のピアノからは小さな音しか出なかったという批判もあった。 続くコンサートは12月、ワルシャワの商人たちの会合で、彼はここで『』を初演した。 またにはワルシャワの国立劇場で『』を初演した。 この頃には『』の作曲に着手していた。 攻め込むロシア軍 演奏家・作曲家として成功したショパンは、西ヨーロッパへと活躍の場を広げていく。 、指にはコンスタンツィア・グワドコフスカからの指輪、また祖国の土が入った銀の杯を携えショパンは旅立った。 ヤヒメツキ はこう記している。 「広い世界に出ていく。 こうでなくてはならないと決まりきった目的は、これからもない 」。 ショパンはに向かったが、その次には行きを希望していた。 その後、が起こる。 ショパンの友人であり、将来的には・芸術家のとなる旅の仲間のティトゥス・ヴォイチェホフスキは戦いに加わるためにポーランドに引き返した。 ショパンは一人で音楽活動をするが活躍できなかった。 ヤヒメツキはこう記す。 「望郷の念に苦しみ、演奏会を開いたり曲を出版したりする当てがはずれたことで、成長し、精神的な深みを増した。 彼はロマン派の詩人だったのが、祖国の過去、現在、未来を感じることができる霊感豊かな国民学派的詩人へと成長したのである。 この時、この場所からでこそ、彼はポーランド全体を適切な見通しを持って眺めることができたのであり、祖国の偉大さと真の美しさ、そして悲劇と栄光の移り変わりを理解することができたのである 」。 この蜂起を受けてウィーンでは反ポーランドの風潮が高まり、また十分な演奏の機会も得られなかったため、ショパンは行きを決断した。 9月、ウィーンからパリに赴く途上、ショパンは蜂起が失敗に終わったことを知る。 彼はので「コンラッド(Konrad) の最後の即興詩のような、冒涜に冒涜を重ねた言葉」を小さな雑誌に書き込んで、終生それを隠した。 彼は家族と市民の安全が脅かすことや、女性がロシア兵に乱暴されることを懸念していた。 また「親切だったソヴィンスキ大将 」の死を悲しみ(ショパンは大将の妻に作品を献呈したことがあった)、ポーランドの援護に動かなかったフランスを呪った。 そして神がロシア軍にポーランドの反乱を鎮圧することを許したことに幻滅した。 「それともあなた(神)はロシア人だったのですか 」。 こうした心の痛みによる叫びは『』『』などを作曲した。 パリ時代 [ ] 『ショパンのポロネーズ』 テオフィル・クヴィアトコフスキ 作。 ショパンは9月の暮れにに到着したが、このときはまだこの地に居を構えるか迷っていた。 最初は、現在のポワソニエール大通り 27番地に住み 、翌に現在のシテ・ベルジェール 、に同38番地へ転居したように 、実のところ彼は二度とポーランドに帰国することはなかったので、多くの「ポーランドの大移民 」の一人となったことになる。 2月に開いた演奏会では、誰もがショパンを賞賛した。 大きな影響力を持っていた音楽学者・批評家のは「ルヴュ・ミュジカル誌 Revue musicale」にこう記した。 「ここにいる若者は、完全なるピアノ音楽の刷新ではないとしても、とにかく長きに渡って希求されつつも果たされなかったこと、つまり史上かつてないような途方もない独創的発想を、誰かを範とすることなく成し遂げたのである 」。 その3ヶ月前の12月には、がショパンの『 Op. 2』を評して「一般音楽新聞 Allgemeine musikalische Zeitung」にこう記している。 「諸君、脱帽したまえ、天才だ 」 パリでショパンは芸術家や他の著名人と出会い、才能を磨き名士として認められ、ヨーロッパ中から集まる多くの弟子にピアノを教えることで、相当の収入を得た。 彼は、、、、、、、、、らと交友関係を築いた。 ショパンは熱烈なポーランド愛国主義者だったが 、フランスではフランス式の名前を名乗っていた。 フランスので旅行していたが、これはロシア帝国発行の書類に頼るのを避ける必要があったためではないかと思われる。 このフランスの旅券が発行されたのはであり、これを境にショパンはフランスの市民となった。 ショパンがパリで公開演奏会を行うことはほとんどなかった。 後年、彼は300席を擁するサル・プレイエルで毎年1回コンサートを行うようになるが、それよりも彼が頻繁に演奏を行ったのはだった。 サロンは貴族や芸術・文学のの集まる場だったが、彼はパリの自宅で友人との小さな集まりを開いて演奏するのをより好んでいた。 彼の健康状態は思わしくなく、そのためとしてあちこち外遊することはできなかった。 一度で演奏した他には、首都を出て旅をすることはほとんどなかったという。 彼は教育・作曲によって高収入を得ていたため、もともと好きではなかった演奏会を開かなければならないという重圧から逃れることができた。 アーサー・ヘドレイ はこう見ていた。 「生涯を通じてわずか30回を少し超えるくらいという、できるだけ公の場に出なかったショパンが、ピアニストとして最大級の名声を獲得していたことは特殊なことである 」 、ショパンはに行き、そこで生涯最後となる両親との再会を果たした。 5年前にポーランドで顔見知りだった娘のマリア(Maria)はその時16歳になっていた。 その若い彼女の知的で、芸術の才にも優れた魅力的な様子に、彼は恋に落ちてしまう。 翌の9月にはヴォジンスキ一家とでの休暇を取り、ドレスデンに戻るとすぐにショパンは彼女にプロポーズする。 彼女は求婚を受け入れ、その母のヴォジンスカ夫人も一応認めたものの、マリアがまだ若かったこととショパンの健康状態の悪さ によって結婚は無期限の延期を余儀なくされる。 この婚約は世に知らされることはなく、結局ヴォジンスキ家がショパンの健康状態への懸念から破棄したことにより 、結婚はついに現実のものとはならなかった。 ショパンはマリアからもらったバラの花、そしてマリアとその母からの手紙を1つの大きな紙包みにまとめ、その上に「我が哀しみ Moja bieda」と書いた。 ショパンのマリアに対する想いは、9月のドレスデンを去る朝に書かれた「別れのワルツ」として知られる『』に残されている。 パリに戻ったショパンはすぐに作品25の『』の第2曲ヘ短調を作曲し、これを「マリアの魂の肖像」と述べた。 これと同時に、彼はマリアに7つの歌曲を贈った。 それらはポーランドロマン派 の詩人たち、ステファン・ヴィトフィツキ 、ヨゼフ・ザレスキ 、の詩に曲をつけたものだった。 婚約破談後は、ポーランド人のがショパンにとって創作上の、また女性として興味を注ぐ対象となった。 彼は伯爵夫人に有名なワルツ作品64-1『』を献呈している。 パリにいる間、ショパンはわずかな数の公開演奏会に参加した。 そのような掲載の参加者目録を見ると、この時期のパリがいかに芸術的に豊かな場所だったかがわかる。 例えば、の演奏会ではショパン、、がの『』を演奏し、にはショパン、その弟子アドルフ・グートマン(Adolphe Gutman)、とその師の の4人で、アルカンのピアノ8手用編曲での『』を演奏している。 また、ショパンはリストのの主題による『』の作曲に参加し、最後の第6変奏を担当した。 ジョルジュ・サンドとの生活 [ ] ショパン 、友人であり仲間だった作曲家のの愛人だったのホームパーティーの場で、ショパンはとして知られるフランスの文筆家・男女同権運動家のアマンディーヌ=オーロール=リュシール・デュパン(Amandine-Aurore-Lucile Dupin)、デュドヴァン男爵夫人(Baronne Dudevant)と出会った。 ショパンは当初、サンドに嫌悪感を抱いていた。 彼はにこう宣言している。 「なんて不快な女なんだ、サンドというやつは!いや、彼女は本当に女性なんだろうか。 疑いたくなってしまうよ 」。 その手紙の中で、彼女は自分がショパンとの関係を始めるために現在の恋人を捨てるべきか思案しており、またショパンとマリア・ヴォジンスカの以前の関係がいかなるものだったかを知ろうとしていると述べている。 マリアとの関係については、万一まだ続いているのであれば彼女は邪魔したくないと考えていた。 の夏、ショパンとサンドの関係は公然の秘密となった。 彼らが2人でいた時期の特筆すべきエピソードには、大荒れで悲惨だったでの冬( - )が挙げられる。 彼らとサンドの2人の子供は、ショパンの悪化する健康状態が改善するよう願ってその地へ赴いた。 しかし宿泊施設を見つけられず、4人は景色は良いながらも荒れ果てて寒々とした、ヴァルデモッサ のかつてのだった建物の軒を借りざるを得なくなった。 ショパンもまた自分ののピアノを輸送するのに問題を抱えていた。 ピアノはにパリから到着していたが、で止められてしまったのだ。 ショパンはにこう記している。 「私のピアノが税関に引っかかって8日目になる。 彼らがピアノを渡すために要求している金額は、信じられないほど高額なのだ」。 その間、ショパンはガタガタのピアノを借りて、それで練習をし、作曲を行った。 、ショパンは体調の悪さとマヨルカ島の医師が無能なことに不満を呈している。 「この2週間の間、私は犬のように病にかかっている。 3人の医者が往診に来た。 1人目は私が死ぬと言い、2人目は今吸っている息が最後になると言い、3人目は私がすでに死んでいると言った」 にジョルジュ・サンドが300(要求額の半分だった)を払うことを承諾し、プレイエルのピアノは税関を通過することができた。 それが届いたのはだった。 その後ショパンは待ちわびた楽器をほぼ5週間にわたって使えるようになり、その十分な時間でいくつかの作品を完成させた。 『』の数曲、『』の改定稿、Op. 40の『2つのポロネーズ(と)』、『』、『』のホ短調、 そしておそらく手を入れたであろう『』である [ ]。 このマヨルカ島でのひと冬は、ショパンの生涯の中でも最も創造的な期間の1つと考えられている。 冬の間の悪天候はショパンの健康に深刻な影響を及ぼし、慢性的な肺の疾患から彼の生命を救うために一行は島を去らざるを得なくなる。 愛用のフランス製のピアノは急な帰国の邪魔になった。 そのような状況だったが、サンドはなんとかピアノをフランス人夫婦に売却した。 4人の一行はまずへ、次にへと向かい、そこで数か月滞在して回復を待った。 5月、彼らはサンドの別荘で夏を過ごすためにノアン を目指した。 彼らは秋にはパリへ戻り、最初は離れて暮らした。 ショパンはすぐに現在のトロンシェ通り()5番地のアパートを離れ、現在のピガル通り()16番地のサンドの家へ移り住んだ。 4人はその住所での10月からの11月まで一緒に暮らしたが、まで夏季のほとんどはノアンで過ごした。 彼らはに現在のパリ9区スクワール・ドルレアン()があるテブー通り()80番地に移り、隣同士の建物で暮らした。 サンドの住居の銘板 この時期にショパンがピアノ以外の楽器を演奏したという証拠がある。 で急逝した歌手のアドルフ・ヌリ の遺体が埋葬のためにパリへ戻った際、その葬式でショパンはの『天体 Die Gestirne』の編曲を演奏した。 ノアンでの夏、特にからにかけてはショパンにとって静かながらも創造的な日々となり、そこで多くの作品を生み出した。 ショパン作品の中でも有名な『』もそうした作品である。 サンドはショパンの騒々しい創作の過程について記している。 ショパンは情熱に溢れ、涙を流し、不平を口にしつつ、時には着想そのものまで覆してしまうほど多くの構想の見直しを行った。 友人のと過ごしていた、ノアンでのある午後のことである。 ショパンはピアノに向かっており、誰もがあからさまに耳を傾けている。 彼は気ままなを始めたが、止めてしまった。 ドラクロワが声を上げた。 「続けて、続けて!まだ終わってないよ!」「始まってもいないよ。 何も思い浮かばないんだ……ただ反射と影、形の定まらないものだけしか出てこない。 ちゃんとした色を見つけようとしてるんだけど、形すら決まらないんじゃ……」ドラクロワはこう声をかける。 「どっちか片方だけ見つかるっていうことはないだろうさ。 二つは一緒に現れるものだから。 」「もし月明かりしか見つからなかったらどう?」「ということは反射の反射を見つけたということだろう」。 この言葉がショパンの腑に落ちたらしい。 彼は再び演奏をはじめ、今度は形に不安そうな様子は見せなかった。 次第に静かな色が姿を現し、それに伴ってまろやかな音の抑揚が我々の耳に届いてくる。 突如青色の音が歌い始めたかと思うと、夜が我々をすっぽり包む。 それは真っ青に透き通った夜だ。 明るい雲が素敵な形となって空を覆う。 雲は月と一体となり、大きな朧げな円を描く。 そして眠っていた色が目を覚ますのだ。 我々は夏の夜を思い描きつつ、そこに座ってが歌うのを待つのである……。 ショパンの病が進行するにつれて、サンドは彼の恋人というより看護師となっていった。 サンドはショパンを自分の「3番目の子ども」と呼んでおり、その後の数年間は彼女はショパンとの交友関係を維持しつつも、しばしば第三者に宛てた手紙の中で彼に対する苛立ちを吐露していた。 そうした手紙の中では、彼のことを「子ども」「小さな天使」「受難者」「愛しい小さな死人」などと記していた。 、ショパンの病状が悪化を続ける中、彼とサンドの間に深刻な問題が生じた。 には彼女の娘のソランジュ(Solange)と若い彫刻家のとの関係などの諸問題によって、2人の関係はますます険悪になった。 サンドはに小説『ルクレツィア・フロリアーニ Lucrezia Floriani』を出版した。 主人公の裕福な女優と身体の弱い王子は、サンドとショパンのことを指すと解釈できる。 サンドのゲラ刷りの校正を手伝ったショパンが、彼にとって失礼なこの話の内容を見逃すはずはなかった。 、彼はノアンを訪れなかった。 共通の友人たちは2人を和解させようと試みたものの、ショパンが応じることはなかった。 そのような友人の1人にのがいる。 サンドはにヴィアルドをモデルに小説『コンシュエロ Consuelo』を執筆しており、三人はノアンで多くの時間を共に過ごした。 ヴィアルドは著名なオペラ歌手だったが、元来ピアノで身を立てることを希望しておりとに師事する優れたピアニストでもあった。 彼女はショパンと互いに尊敬しあい、また気が合ったことから友人として付き合っていた。 2人はしばしば共演することもあった。 ショパンは彼女にピアノの技術的な助言を与え、彼女がショパンの『』の旋律をもとに歌曲を作曲するのを手伝った。 彼はお返しとして、ヴィアルドから ()を直接知ることができた。 、サンドとショパンの10年に及ぶ関係は静かに終わりを迎えた。 なれそめから2人の恋路を見届けたヴォイチェフ・グジマワ伯爵はこう述べている。 「もし(ショパンが)G. (ジョルジュ・サンド)に出会うという不幸に見舞われず、彼女にその生命を毒されなかったとしたら、彼はの歳まで生きていただろうに 」• 頃 ドゥヴェリア 作 ショパンのとしての一般からの人気は翳りを見せ、それに伴って弟子の数も減少した。 に彼はパリでの最後の演奏会を開く。 パリではが進行中だった4月 、彼はへと旅立ちいくつかのコンサートを行って大規模な会場で大きな喝采を受けた。 この演奏旅行は彼のスコットランド人の弟子で、時に秘書もこなしたとその姉のカセリン・エースキン(Katherine Erskine)の発案によるものだった。 また、スターリングは必要な準備をすべて整え、必要経費を提供した。 彼女はサンドとの別離の後、脱出できない鬱状態に陥ったショパンの支えとなった。 夏も終わりかけた頃、ショパンはスターリングに招かれて、スターリング家の者が所有する近郊のカルダー邸(Calder House)と居城(に程近いのジョンストン にあった)に滞在した。 そうしているとスターリング嬢とショパンが間もなく婚約を発表するという噂が国を超えて広がったが、ショパンが彼女に恋愛感情を抱いていないことは明らかだった。 ショパンはあまりにも弱っており、階段の上り下りでは医師またはその召使が彼を抱えなければならなかった。 ショパンはエディンバラでは1度だけ演奏会を開いている。 それはクイーン通りのホープトーン・ルームズ(Hopetoun Rooms 現エースキン邸)においてだった。 10月の暮れ、ウィシュツジニスキ医師の家で 、ショパンは最後の遺言をしたためた。 「万一私がどこかで急死するようなことになったら、将来私の原稿は処分等がなされるように」と友人のヴォイチェフ・グジマワに宛てて書き送っている。 スコットランドの寒い午後、スターリング嬢の城の中でショパンは母や姉と共にいる空想にふけり、祖国の地で民謡を題材とした自作曲を演奏する自分の姿を眼前に思い浮かべていた。 、彼はロンドンのギルドホール の演奏段上で最後の公開演奏を行った。 それはポーランドの避難民の慈善演奏会だったが、彼の最後の愛国的行動となった。 この時の彼の出演は善意からの失敗となってしまった。 ほとんどの参加者はショパンのピアノ芸術よりもダンスや気晴らしを目的としており、ショパンはそれによって多大な労力を割いて身体的不快感を負ってしまったのである。 11月の終わりにショパンはパリへ戻った。 イギリス旅行はロンドンでのの御前演奏など成功したものだったが、日程の厳しさから彼は体調を更に悪化させていた。 冬の間、彼は絶え間なく病に苦しんでいたが、それでも友人に会うことを続け、病床のを見舞ってピアノ演奏で彼の神経を和らげた。 ショパンにはレッスンを行う体力はもはやなかったが、作曲への熱意は冷めていなかった。 生活必要経費の大半と医師の診察代を払う金も不足するようになり、彼は価値のある家具や所有物を売り払わなければならなくなった。 、ワルシャワのフレデリック・ショパン博物館が長く行方不明だったショパンの手紙を発見した。 それらの手紙の日付はからとされており、彼の日常生活と『』に関する記述がなされている。 手紙は博物館でまで展示されていた。 最期 [ ] 『死の床にあるショパン』 テオフィル・クヴィアトコフスキ 作 ショパンは家族と共に居たいという思いを募らせた。 6月、姉のルドヴィカにパリへ出てきてもらう約束を取り付けた。 同年9月にはの陽の当たるきれいなアパートに移り住んだ。 それは以前はロシア大使館が入居していた物件で、7部屋を有する2階の賃料はショパンに払えるものではなかったが、ジェーン・スターリングが彼のためにそれを肩代わりした。 になるとショパンの病状は一層深刻となり、彼を訪ねてくる多くの者は会うことを許されず、一握りの近しい友人のみが病床に寄り添った。 この最期の2日間で彼らは2回ほどショパンが事切れたものと思ったが、彼は再び息を吹き返すことができた。 ポトツカ夫人が見舞いに訪れており、病床の彼のために歌を歌っている。 また、彼はポトツカ夫人にソナタを弾いてくれるよう頼み、神に大きな声で祈りをささげた。 もっとも、その数日前には自分は神の存在を信じないからと、信仰告白を拒んでいたのだが。 彼はジョルジュ・サンドが自分に「私の腕の中で息を引き取らせあげる」と約束したのに、と不平を口にした。 彼は紙片を要求し、そこにこう記した。 (土に押しつぶされるから埋葬しないで欲しい。 生き埋めになりたくないんだ。 ) 」。 の深夜12時過ぎ、医師がショパンの身体に乗りかかってひどく苦しいかと尋ねた。 「もう何も感じない」とショパンは答えた。 そして午前2時を回る少し前、ショパンは息を引き取った。 ショパンの 作 写真: ショパンの病とその死因は明らかになっておらず、そのため医学的な議論の的となってきた。 死亡診断書では死因はとされている。 一方でショパンの病気は他の疾患(たとえばのなど)とする説もある。 しかし、現代の呼吸器治療と医療的支えのないにおいて、嚢胞性線維症を抱えながら39歳まで生き延びることは事実上不可能という検討もさらになされ得る。 ショパンが長く苦しんだ病についての総説がに出版されている。 文脈から事実を読み解くと、ショパンを苦しめた疾病は肺結核の可能性が高い。 ショパンの最期を看取ることができなかった多くの人が、後になって「ショパンの最後に居合わせた」と主張するようになったと、タッド・シュルツ(? Tad Schulz)は記している。 彼らは「歴史の証人になりたがっているようだ 」。 夜が明けてから、クレサンジェはショパンのを作り、また彼が傑作を生み出した左手の型を取った。 彼の遺言に従い、葬儀の前に取り出された心臓は姉のルドヴィカによって祖国に持ち帰られ、クラコフスキ区 の聖十字架教会 のレオナルド・マルコーニ 作のの下の柱に、と思しきアルコールに浸けられて収められた。 そこには6:21「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」が刻まれている。 ショパンの心臓は第二次世界大戦中に避難のため持ち出された時を除き、その教会で眠っている。 現在の教会はので大きく破壊されて再建されたものである。 教会はショパンが最後に住んだポーランドの家であるクラコフスキ区5のクラジンスキ宮殿 からすぐ近くのところにある。 ショパンの墓 パリので行われることになっていた葬儀は、準備が非常に凝ったものとなったため、ほぼ2週間も遅れてに行われることになった。 予定が遅れたため通常なら出席不可能であるような人びとが大勢ロンドン、ベルリン、ウィーンから集まることができた。 招待された参列者には多くのフランスの文学・貴族の名士らが名を連ねたが、音楽上の同胞たちは慎重に外された。 の『』が歌われることが、急遽決められた。 これはショパンの遺言とも言われたが、友人のグートマンはショパンがそのようなことを頼んだことはなく、報道の自由から生まれた夢物語であるとしている。 ショパンの死から葬儀の間までにパリでは彼にまつわる膨大な出版物が出回っており、その中のいくつかの創作が後に事実のように本に記載されていったようである。 『レクイエム』は大部分がによって歌われるが、マドレーヌ寺院は合唱隊に女性歌手が入ることを許可していなかった。 しかし、教会は女性歌手を黒いのカーテンの奥に置くこととして、好意的に協力した。 『レクイエム』のは、がジャナネ・カステラン(? Jeanne-Anais Castellan) 、がショパンとサンドの友人だった 、がアレクシス・デュポン 、がや、の葬儀でも歌ったルイージ・ラブラーケ である。 また、ショパンの『』から第4番 ホ短調と第6番 ロ短調が演奏された。 葬儀には3,000人近くが参列したが、その中にジョルジュ・サンドの姿はなかった。 葬送の行進は町の中央のの隣にある教会から始まり、ショパンが埋葬を希望していた街の東の端のまでの非常に長い距離にわたった。 葬列を先導したのはポーランドの大移民の長だった年老いたであり、芸術家たち(やの、ピアニストのカミーユ・プレイエル(Camille Pleyel)など)が交代で担いだ棺のすぐ後ろには、姉のルドヴィカがいた。 埋葬の際には、その横でナポレオン・アンリ・ルベール のによるショパンの『』が演奏された。 このことについて、参列していたは後年、自分が編曲者として選ばれなかったことに失望したと述べている。 ショパンの墓石はオーギュスト・クレサンジェが設計・製作したもので、音楽ののが壊れたの上で涙を流す姿をかたどったものである。 葬儀と碑の製作にかかった費用は合計5,000だったが、姉のルドヴィカがワルシャワへ戻る渡航費用も含めて、全てはが負担した。 スターリングはその後長い間、黒衣に身を包み喪に服していた(生涯そうしていたとする文献もある [ ])。 ショパンの墓には多くの人が訪れ、冬場でも捧げられる多くの花が絶えることはない。 人物 [ ] 生涯を通じてに悩まされた病弱の芸術家として有名であり、残された肖像画などからも、赤みがかった頬などその徴表が見られる。 しかしそうした繊細なイメージとマッチした作風の曲ばかりでなく、自らの中の閉塞感を打破しようとする想いや、大国に蹂躙される故国ポーランドへの想いからか、情熱的な作風の曲も多く見られる。 幼少の頃からいろいろな面で才能を発揮し、ユーモアにあふれ、ものまねと漫画を描くのも得意で学校ではクラスの人気者だったという。 後半生は大部分をフランスで過ごしたが、望郷の思いは終生已まず、死後遺言により心臓がポーランドに持ち帰られ、ワルシャワの聖十字架教会に埋葬された。 故郷を支配する列強への反発心は若い頃から強く、「美しい花畑の中に大砲が隠されている音楽」()と評されることもある。 女性との愛の遍歴も伝説を交えて語られることがあるが、特に女流作家との9年におよぶ交際の間には『24の前奏曲集』『幻想曲』『バラード第4番』『英雄ポロネーズ』『舟歌』『幻想ポロネーズ』など多くの傑作が生まれた。 ピアノの技術革新の時代に生きたショパンは新しい演奏技術の開拓に果敢に挑み、自身の練習の意味も込めて『練習曲集』(『3つの新練習曲』を除く12曲)を2つ編んだ。 一方で古典の作曲家への敬意は強く(実際ショパンは自身がロマン派に属するという考えを否定した)、特にとは彼の作品に影響を及ぼした。 例えば『24の前奏曲集』は5度循環で24の全長短調を経る小品集だが、これはバッハの『・24の前奏曲とフーガ』を意識したものである。 また心を落ち着けるためにバッハの平均律をしばしば好んで弾いた。 『前奏曲作品28』を作曲したマヨルカ島に持っていった印刷された楽譜は、バッハの平均律クラヴィーア曲集のみだったという。 同時代の有名な作曲家で評論家でもあったシューマンとは違い、批評活動は全く行わず、音楽作品と文筆作品(ことに詩)との融合にもあまり積極的ではなかったという。 性格が激しく、それ故にしばしば欲求不満に陥ることもあったらしい(例えばにに来た時の、一般の音楽的嗜好が浅薄なものだったことに対して )。 は2枚残されており 、の写真は損傷が激しい。 もう1枚は、死の直前にルイ=オーギュスト・ビソンによって撮られたものである。 フレデリック・ショパン博物館(オストログスキ家宮殿)。 ポーランド、ワルシャワ ショパンの書簡に関する問題 [ ] ショパンの書簡については、作品同様に戦乱によってその大部分が消失していること、ティトゥス・ヴォイチェホフスキら一部の友人及びら後世のポーランドの伝記作家がな動機から改竄を加えたことなどから、友人による写しなどソースが怪しいものが多く、それらにもとづく虚実不明のエピソードが現在に至るまで流布している。 代表的な事例として、第二次大戦直後にポーランドの音楽研究家パウリーナ・チェルニツカが、ショパンが伯爵夫人に書いたという大量の書簡を公表した、というケースがある。 これらにはショパンの私生活に対する言及や彼の音楽思想、他の音楽家に対する批評が多く含まれていたため議論を巻き起こした。 彼女は原本の公開を拒否したまま謎の自殺を遂げたが、現在では(一部に議論はあるが)少なくとも大部分が彼女による偽作とされている。 -に書かれた伝記などにはこれらの書簡を引用したものが多い。 ちなみに、ショパンがポトツカ伯爵夫人に書いた本物の手紙は一点のみ現存している。 作品 [ ] 詳細は「」を参照 ショパンは、多くのピアノ作品を残したが、その中には未知の作品や、原稿消失作品が複数あることが確認されている。 出版されている作品についても、戦乱により自筆譜が失われているものが多い。 ショパンの作品にはいろいろと逸話のあるものが多く、それらの中にはきちんと確証の持てないものも多い。 サブタイトルは、ショパンが曲にタイトルを付けることを好まなかったため、ほとんどはショパン自身によるものではない。 ショパンは、遺言で自分の未出版作品の破棄を希望していたが、その希望は受け入れられず、友人でもあったをはじめとするショパン研究者によって出版された。 主な遺作には、『』『』などがある。 フォンタナは、ショパンの原稿に手を加え、また作曲年代に関係なく作品番号を付けて出版した。 遺作にあたる作品66から74は、フォンタナによって付けられた作品番号である。 なおショパンの作品の分類番号は2つある。 KK(クリスティナ・コビラィンスカによる作品番号のついていない作品)とBI(モーリス・ブラウンによる作品分類番号)の2つである。 編曲 [ ] オーケストラ曲 [ ] 有名なものとして、いくつかの楽曲にを施してまとめた数種のバレエ音楽がある。 (Les Sylphides) - 初演のバレエ曲目。 バレエ演目としてのショパンの編曲では最も有名なもの。 編曲者は多数にわたるが、次項のグラズノフを含む。 (La Sylphide) - 初演のバレエ曲目と混同される事があるが、こちらはショパンとは関係ない。 (Chopiniana) - 編曲によるもの。 バレエ音楽としての『レ・シルフィード』そのものを指す場合と、『レ・シルフィード』からグラズノフの編曲によるものをさらに抜粋した演奏会用組曲を指す場合がある。 英雄ポロネーズや軍隊ポロネーズ、ノクターンやマズルカなどにオーケストレーションが施されている。 ピアノ曲 [ ]• 『ポーランド歌曲集』 - ショパンの歌曲集作品74をピアノ独奏用に編曲。 『エレジーと葬送行進曲 作品71』 - 前奏曲作品28-4と作品28-6の編曲。 『ショパンの2つの前奏曲の主題による即興曲』 - 前奏曲作品28-11と作品28-14の合体編曲。 『ピアノのための5つの特別練習曲』 - 第1番 作品64-1の編曲 ・第2番 作品42 ・第3番 作品29 ・第4番 作品25-6 ・第5番 作品64-2。 歌曲 [ ]• 『6つのマズルカ』 - ルイ・ポメ Louis Pomey のフランス語の詞による歌曲への編曲。 ショパンの面前でも演奏された。 第1集(出版)作品6-1・作品7-1・作品24-1・作品33-3・作品50-2・作品68-2の編曲。 第2集(頃出版)作品6-4・作品7-3・作品24-2・作品33-3・作品50-1・作品67-1の編曲。 楽譜 [ ] ポーランド音楽出版社(パデレフスキ版およびエキエル版)ややペータース社などの楽譜では、ショパン自筆の楽譜と、フォンタナやその他の編集者による楽譜が掲載されており、比較することができる。 通称 「パデレフスキ版」または「クラクフ版」 全27巻の中から1曲または数曲を収めたピース版と作品選集も刊行されている。 通称「エキエル版」または「ナショナル・エディション」 (補遺作品集以外は、2010年に完結) に装丁デザインが変更された。 要約及び校訂報告がポーランド語版だけでなく英語版も出版された。 一部の楽譜ではフランス語版とドイツ語版も出版されている。 版 ブロニスラウ・フォン・ポツニアク (ブロニスワフ・プズニャク)とヘルマン・ショルツ編集 ショパン全集・新校訂による原典版 (ロンドン・ペータース社から現在刊行中) ウィーン原典版 ヤン・エキエル編集。 但し、エチュード集が編集で24の前奏曲作品28がコンラート・ハンゼン編集。 ヘンレ社原典版 (通称「ヘンレ版」) 旧ショパン集・Ewald Zimmermann校訂による旧原典版 1980年代の校訂。 版(による校訂。 通称 「コルトー版」) 版(およびによる校訂) 版 版(による校訂) 版 エチュードのみ山崎孝校訂による原典版もある。 メディア [ ]。 Paul Pitmanによる演奏。 うまく聞けない場合は、をご覧ください。 フレデリック・ショパンを扱った作品 [ ] 題名及び歌詞に出てくる楽曲 [ ]• 『』作品9 -• 第11曲の「キアリーナ」 や(第16曲の途中にある間奏曲)と共に第12曲のタイトルとして現れている。 『』作品21 -• 第1部第5曲が『ショパンのワルツ』と題されている。 『とのいる自画像、背景にショパンもいる』 -• 繰り返しを基調とするリゲティ自身の1970年代以降の音楽について、アメリカ発のとの共通性を題名で告白しているが、同時にその源流をショパンにも見いだしている。 18の小品『15. ショパン風に』Op. 72-15 -• 『気分』第5曲 練習曲「ショパンへのオマージュ」Op. 73-5 -• 『ショパンの主題による変奏曲』- (ショパンの『24の前奏曲』第7番イ長調による。 第10変奏には幻想即興曲のメロディも使われている)• - にの男性歌手が発表した楽曲。 英語で歌われており、原題は『』。 日本でも with C-POINTのほか日本語カバーが複数存在する。 映画 [ ]• - 公開のドイツ映画。 ショパンの伝記映画であり、『12の練習曲 作品10』の第3番が「」と呼ばれる所以となった作品。 - ショパンの伝記映画。 公開のアメリカ映画。 - ショパンとサンドの恋愛を描いた公開のポーランド映画。 - 公開。 ショパンを扱った作品ではないが、ショパンのピアノ曲が多数演奏される。 小説・漫画 [ ]• - ショパンを主人公としたの長篇小説。 - ポーランド時代のショパンが登場するの漫画。 - ショパンとリストの友情を描いたの漫画。 - ショパンの精霊が現代の日本で現れるの漫画。 ゲーム [ ]• - が開発し、バンダイナムコゲームス(現・)より発売された。 - 株式会社内のスタジオ「エックスフラッグ」から配信されている・用。 使用キャラクターとしてショパンが登場する。 ラヴヘブン - 株式会社アンビションから配信されている・用。 使用キャラクターとしてショパンが登場する。 アニメ [ ]• - 制作のアニメーション。 登場人物としてショパンが登場する。 - で放送されたのテレビスペシャルシリーズ。 過去の登場人物としてショパンが登場する。 脚注 [ ] 注釈• 『ショパンの生涯と手紙』の第2章冒頭で述べられている説である。 (1877年出版)、(1882年出版)、(訳、1923年)• ポーランドの画家。 ショパンの肖像画で知られる。 ポーランド中央東寄り、、ソハチェフ群の村。 ワルシャワより52kmの位置にある。 特に姉のルドヴィカ( - )とは仲がよく、読み書きやピアノを彼女から教わった。 2人は終生仲睦まじく書簡を交わし、ショパンは彼女が『』を練習するために『』を作曲した。 ルドヴィカはショパンの臨終に立ち会い 、遺言に従い彼の心臓をパリからポーランドに持ち帰った。 監獄を改修し、より刑罰に適した環境に造り変える仕事。 戦時経済担当大臣()のヒュー・ダルトン()によって組織された部隊。 、、の偵察、各地の抵抗運動への協力を行っていた。 ポーランド国立ショパン博物館分館。 ブロフフ村。 ここでショパンの両親が結婚し、またショパンがとを受けた。 「この聖域において、村で誕生のフレデリック・ショパンがに洗礼を受けた」• 写真はショパンがを受けたときにも使われた。 ポーランドの言語学者・司書・辞書編集者。 ワルシャワ学院の校長だった。 開校のワルシャワの。 のの後、に閉鎖された。 ので破壊され、さらにドイツ軍の計画破壊()でのみ残して消滅した。 サクソン宮殿同様の経緯でに破壊されたが、にの基金などによって再建された。 フランスのジャーナリスト・小説家。 、、イジニ・シュール・メール()生まれ。 生まれ。 音楽活動・音楽評論活動などを行った。 ポーランドの作曲家・外交官・政治家。 に仕え、為政を支えた。 以降、パヴロヴィチの住居になっていたが、彼はで追放される。 生まれのポーランドの詩人・劇作家・政治家。 中級貴族の御曹司であり、の側近として仕えた。 ポーランド中央北寄りの村()。 ショパンは級友のドミニク家に招かれここを訪れた。 現在のポーランド南西部、との国境に位置する、初頭にこの地方で栄えたの町。 当時は。 若きショパンも温泉を目指して訪れた。 には2度のを開催し、チケット売り上げの全額を孤児支援基金に寄付した。 現在では世界最大のショパン祭りが毎年開かれている。 ポーランド中央、の村。 ワルシャワから西に約79km。 これらは「シャファルニャ通信」と題された、新聞形式の手紙である。 少なくとも6通が作成されたことがわかっており、うち4通は自筆原本が残っている。 ショパンが想定していたのはクリエル・ヴァウシャフスキ紙であり、その書体・体裁を模して書かれている。 ・にショパンが滞在した。 写真はシャファルニャの。 ショパンはに訪れた。 ショパンがワルシャワに移って最初に住んだ家。 の構内だった。 現在はワルシャワ大学東洋学部日本学科が入っている。 ( ポーランド語発音: )• ポーランドでも優れたの一つと考えられている。 ( IPA: )• この場所は現在、ワルシャワ芸術アカデミー()になっている。 生まれ。 ポーランドの詩人・劇作家・画家・彫刻家。 ポーランド王の血筋に当たる。 ( ポーランド語発音: )• ショパンがポーランドを離れる直前まで住んだワルシャワの家。 チャプスキ家宮殿(チャプスキ家が購入する前のオーナーの名前を取りクラシンスキ家宮殿とも呼ばれる)。 生まれ。 ・芸術家の。 生まれ。 生まれ。 ショパン研究家。 にはらと共にパリにショパン協会()を設立している。 ポーランドの音楽史家・作曲家。 やの教授を務めた。 ヤヒメツキのようなポーランド人作家の記した伝記には、多分にポーランド人としてのショパン、加えてそのナショナリズムを強調する傾向が見られるという指摘がある。 本文にはこの後もヤヒメツキの引用がある。 参考にする際は注意。 生まれ。 ポーランドの歌手。 にポーランドを後にするショパンの送別会で歌っている。 2年後に結婚し、5人の子をもうける。 に失明。 にで死去。 生まれ。 ポーランドの文学・演劇・音楽批評家。 また、出版者・記者・ピアニストなどとしても活躍した。 ポーランドの詩人。 の友人だった。 ウクライナ詩作学校()の創設に関わる。 生まれ。 ポーランドの動物学者・昆虫学者。 40年以上にわたってワルシャワ大学の動物学科を組織した。 生まれ。 ドイツの作曲家・指揮者・教育者。 メンデルスゾーン姉弟やなどを教えた。 初演時期などには異説がある。 各曲へのリンクなども参照。 ポーランドのワルシャワに位置する。 写真は王宮のオランジュリー。 ショパンがよく演奏会を行った。 初夏から初秋にかけて同ショパン像のもとでは、毎週日曜日の午後に無料ピアノリサイタルが開かれ、ショパンの曲目が演奏されている。 ポーランド西部、 [ ]にある、狩猟用の宮殿・邸宅。 は大貴族()であり、その当主のに招かれてショパンが頻繁に滞在し演奏会を催した。 現在はここでショパン祭りが毎年開催される。 このあたりのエピソードに関しては、作り話という指摘もある。 生まれ。 ポーランドの砲兵隊大将。 にはロシア軍の侵攻からワルシャワを防衛するが、降伏後にで殺害されたという。 ポーランドの画家。 の後は抑圧を逃れてフランスへ移住した。 ショパンに関する絵画作品を残している。 パリの大邸宅であり、ここに集まったポーランドの政治家たちのあだ名ともなった。 ( 発音: )• パリ、所有のオテル・ランベール での舞踏会の様子を描いたもの• からの間に、ポーランドから国外へ移住した知的階層を指す。 これは当時ポーランドが・・の3国に分割されていたことに起因する。 生まれ。 の音楽学者。 ショパンの伝記を著した。 からにかけての冬には彼の病状は非常に悪く、ワルシャワではショパンは死んだという噂が囁かれたほどだった• 頃からのポーランドの知的・芸術的文化の栄えた時期をいう。 のに伴う抑圧により終了した。 生まれ。 ポーランドの詩人。 ショパンは彼に『』を献呈し、また10編の詩に曲をつけている。 生まれ。 フランスのピアニスト・作曲家・音楽教師。 作曲に関しては、、、らの師だった。 グノーは彼の娘と結婚している。 生まれ。 フランスの小説家。 にの会員に選ばれている。 生まれ。 フランスの小説家・劇作家。 リストの未完のオペラ『 ()』の台本を書いた。 マヨルカ島内の村。 彼らが泊まった修道院()は()の建築。 カヌ夫妻 Canutである。 カヌ夫妻の子孫は、マヨルカ島のショパンの遺産とショパンが使用したファルデモッサの一人部屋の博物館の管理人をしている。 フランス中央部、の。 から南東へ約36キロ。 生まれ。 フランスの歌手・台本作家・作曲家。 歌手としては特にの作品を得意とした。 ショパンは39歳で生涯を閉じたが、その友人のケルビーニは1842年にパリで81歳で亡くなっている。 両者の墓はで4メートルの距離に位置している。 当初はジョルジュ・サンドと二人で一枚に書かれた絵だったが、彼らの交際の破局から二枚に分割され、ショパンの部分はに、サンドの部分はに所蔵されている。 生まれ。 フランスの画家・作家。 多くの作家・芸術家の肖像画を描いた。 より3、グラスゴー中心街からは12マイル西に位置し、スコットランドでも最大のの一角をなす。 ロンドンで数百年にわたり市民ホールと使用されてきた建物。 現在はとその地方公共団体()の行政の中心となっている。 スターリングの委嘱で描かれた作品。 ショパンがベッドで起き上がっており、左からアレクサンダー・イェオヴィツキ、姉のルドヴィカ、チャルトリスカ公爵夫人、ヴォイチェフ・グジマワ、クヴィアトコフスキ本人の姿が描かれている。 生まれ。 ポーランドの貴族・ピアニスト。 ツェルニーに学んだあとショパン門下となる。 、、などとともにヨーロッパを演奏旅行するなど、ピアニストとして成功した。 のキャンパス正面にあるで、ワルシャワにおいて名高いの建築。 生まれ。 ポーランド及びの彫刻家。 ポーランド、ワルシャワのポヴォンズキ墓地。 が壊れたの上で涙を流す姿がモチーフ。 4つ左隣にはが眠る。 もしくは生まれ。 フランスの歌手。 やなどで歌っていた。 生まれ。 フランスとの血を引く歌手。 『』のレポレッロは適役だった。 生まれ。 フランスの作曲家。 ・・4曲のなどを遺している。 がより建築、のちにが購入してワルシャワでのとして使用し、その後は学生寮、陸軍病院、音楽大学として使われ、第二次世界大戦後にフレデリック・ショパン協会に渡って本部事務局および博物館となった。 撮影はのものだが、その後全面改装しに再開館している。 427. 小坂 p7. , "Chopin, Fryderyk Franciszek," , vol. III, 1937, p. 420. Michael Robert Patterson. Arlingtoncemetery. net. 2010年2月14日閲覧。 Nr 17," , 12 June 2008. 小坂 p10. The Fryderyk Chopin Institute. 2011年6月8日閲覧。 , "Chopin, Fryderyk Franciszek", , vol. III, 1937, p. 424. 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Google Books. 248. 2010年2月14日閲覧。 「両親の寮の下宿生のうち4人が、彼の親友となった。 ティトゥス・ヴォイチェホフスキ、ヤン・ビャウォブウォツキ、ヤン・マトゥシンスキとである。 彼は(後に)後者2人とはパリでの生活を共にすることになる」, Chopin in Paris, pp. 41—42. 263. , 1829 2009年9月3日, at the.. chopin. nifc. 2011年10月24日閲覧。 4, 2010, p. 421. Jan Zygmunt Jakubowski, ed. 514—15. 小坂 p27-28. , "Chopin in Paris," pp. 41-42. 2012年11月6日閲覧。 , p. 421. , , p. 264:「彼は生涯を通じて、叙述的な表題や『筋書き』を下敷きにするのを嫌悪するのと同様に、(美的な感覚に)重きを置いていた」。 彼の作品には内容を表すかのような表題が付つけられているものがあるが、それは出版社などの他人が、彼の意に反して付けたものである。 小坂 p28. , pp. 421—22. 422. コンラッドはショパンの友人のの詩に登場するポーランド愛国の英雄。 ショパンは後にミツキエヴィチの詩のいくつかに作曲を行う。 「このショパンの志の形になったもの(文章はにが最初に出版したもの)は、今日(現在)ワルシャワのポーランド国立図書館のショパン記念品類の中にある(もともと雑誌は、ショパンの弟子だった王女が保管していたもの)」, "Chopin, Fryderyk Franciszek," , vol. III, 1937, p. 422. ショパンの言葉に関する解釈はワルシャワ、のショパン博物館で聞くことができる。 p61 フランス語• Marie-Paule Rambeau 「 Chopin : l'enchanteur autoritaire」 L'Harmattan,collection. p269, p307 フランス語• , pp. 422—23. Sheppard, Linda. Canada: Longbow Publishing Ltd, 2006. 423. , Chopin in Paris, p. 12, 404. David Ewen, p. 164. ショパンのフランスの。 はこう記している。 「(略)フランスが彼にパリでの無期限の滞在資格を与えたのは『彼の芸術を完成させるため』である。 4年後、フレデリックはフランス国民となり、付けでフランスのパスポートが交付された。 彼が国籍を変更することに関して、父を含め誰かに相談したという事実は知られていない。 彼が国籍を変更したのは、ロシア大使館に赴いてロシアのパスポートを更新するのを愛国的な理由から避けたいがためだったのか、それとも単に日常の利便性の問題だったのか、定かではない」Tad Szulc Chopin in Paris, p. Tad Szulc 30 December 1999. Da Capo Press. 2010年5月7日閲覧。 , , p. 264. 彼女は「ショパンがピアノを弾き、喋っている間に彼の頭部をスケッチし、次に彼を肘掛け椅子に座らせてで肖像を描いた。 これは現存する中でドラクロワの作品に次いでよく出来た肖像画である。 ショパンはリラックスし、哀愁を帯び、平和そうに見える」, Chopin in Paris, p. 137. ヴォジンスカの肖像画が正確だったことは、彼女のの自画像とを比べることで想像がつく。 , p 423. , Chopin in Paris, pp. 160, 165, 194—95. , Chopin in Paris, p. 146. by Gerard Hopkins, Penguin, 1980 c 1953 , pp. 317—20. 付け記事 英語• 333, 337—8. 424. Krzysztof Rottermund, "Chopin and Hesse: New Facts About Their Artistic Acquaintance," translation in The American Organist, March 2008. , Impressions et souvenirs, chapter V, p. 338—9. 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Cecilia Jorgensen and Jens Jorgensen, Chopin and the Swedish Nightingale, Brussels, Icons of Europe, 2003,. 関連項目 [ ]• - ショパンと親交があったことで知られる同年代の作曲家。 - ショパンの肖像画を手がけた画家。 - ショパンの弟子。 - ショパンの弟子。 - ショパンの弟子。 () - ショパンの弟子。 () - ショパンの弟子。 () - ショパンに師事した神童。 () - 小惑星番号3784の。 - ショパンにちなみ命名された。 - ワルシャワのピアノ製作者。 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 として無料で入手可能。 現存するショパンの手紙を検証し、一般的に流布している逸話などに批判を加えているサイト。

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