ふれる 社会 学。 blog.grandprixlegends.com:カスタマーレビュー: ふれる社会学

『ふれる/ふれられることの心理学:社会性の基盤を探るタッチ研究』(串崎 真志 著)

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ご予約頂いた皆様、誠に申し訳ございません。 ご容赦下さいませ。 非常に残念です。 感染症と結びつく問題状況や差別、メディア環境への批判的視点を磨きつつ事態の収束を待ち、次回こそ…! 中止ではなく、延期だと考えております…😭 ああ、本当にかなしい。。 大事なことを! ジュンク堂書店福岡店さん、『 ふれる社会学』ミニフェアを開催してくださってます!!ぜひチェックを!! 僕も帰りに本屋に寄ります。。 ひさびさに読書タイムをがっつり取りたいと思います。。 ご予約頂いた皆様、誠に申し訳ございません。 ご容赦下さいませ。 非常に残念です。 感染症と結びつく問題状況や差別、メディア環境への批判的視点を磨きつつ事態の収束を待ち、次回こそ…! ふれる社会学 中止ではなく、延期だと考えております…😭 ああ、本当にかなしい。。。 大事なことを! 蔦屋書店湘南さん、『 ふれる社会学』フェアをどどーんと開催してくださってます!!ぜひチェックを!! 僕も帰りに本屋に寄ります。。 ひさびさに読書タイムをがっつり取りたいと思います。。

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『ふれる社会学』刊行イベント #ふれしゃかフェス 全日程公開!|ケイン樹里安|note

ふれる 社会 学

「社会学ってなに?『社会を学ぶ』って、ざっくりしすぎてない?」くらいの認識だった私が、社会学の入門書「」の刊行イベント(通称:ふれしゃかフェス)に行ってきました。 実は最近までメキシコにいたため、本はまだ未読。 しかも社会学についての知識ゼロ。 それでもイベントはめちゃくちゃ面白く、 「私が生活の中で日々感じているモヤモヤを研究するのが社会学なんだ!」とがぜん興味が出てきました。 そんな目からウロコがぽろぽろ落ちたイベント内容をレポートします! 会場はジュンク堂書店・難波店 この本を知ったきっかけは、以前「よい移民」トークイベントでを語っていたケイン樹里安さん。 「ふれる社会学」は、社会学を研究されているケインさんが編者の1人となり 「誰にでもわかりやすい社会学の入門書を」と作られました。 今回のイベント登壇者は編者のケインさん、上原健太郎さん、そして「よい移民」の翻訳者であり今回の執筆者でもある栢木(かやのき)清吾さんと、同じく執筆者の八木寛之さんです。 左から八木さん、ケインさん、上原さん、栢木さん トークは、ジュンク堂書店難波店の店長・福嶋さんの 「一体どこまでが社会学の範囲なのでしょう」という、私も感じていた疑問からスタート。 以下、私が特に印象に残った部分を抜粋してレポートします。 ケインさん:夢中になっているもの、毎日やらないといけないこと、スマホなど、身近なことを『社会』と呼ぶことができる。 身の回りにあるものが社会に晒されている。 自分たちを取り巻いているものに触れてみるのが社会学なのかなと思う。 上原さん:「ふれる社会学」は、大学生向けの教科書という体裁を取っているが、もっと広い層に向けた社会学の入門書として作った。 冒頭は「スマホ」「就活」「観光」などわかりやすく身近なテーマを扱い、読み進めるうちに社会学の理論的な話に誘っていくよう工夫している。 後半は「LGBT」「外国につながる子ども」「ハーフ」「差別感情」といったテーマから、最後に100年前の社会学に関する話を入れた。 本来は教科書の最初に来る話を最後に持ってきた。 ケインさん:高校の図書室に置いてもらったり、企業の人にも読んでもらいたい。 このイベントも、販売促進のために数か月やって終わりではなく、「ふれしゃかフェス」と称して長く続けていくつもり。 イベントを通して、色んな社会的立場の人と対話することが大事だと思っている。 誰もが社会の仕組みに巻き込まれている 栢木さん:今回、僕は「差別感情にふれる」という章を書いた。 書く時に気をつけたのは、できるだけ「概念を使わず書く」こと。 実際に学生に教える時に使う平易な言葉と、自分の筋立てだけでどれだけ読者を説得できるか。 専門家にわかる言葉で書けば業界では通じるけれど、自分の話として感じられるかどうかが大事なので、社会学について何も知らない人に向けて書いた。 あと、「差別はやめましょう」といった説教臭い話になると、読んだ人が距離を置いてしまうのでそこも意識した。 大学で教えている実体験として、留学から帰国した学生から「海外で『ニーハオ』と言われて嫌だった」とよく聞く。 でもなぜそれが嫌だったのか、そういう感情はどこから湧いてくるのか。 「中国人と一緒にされて嫌だった」なら、それこそが差別。 自己反省を強いているわけではないが、 外国人と違うことで自己肯定感を得てしまう部分は多くの人の中にある。 それは差別に遭っている人だけの問題ではなく、社会の全員が、程度の差こそあれ共有している構造の問題。 本には「自身の差別感情に1回触れ直してみよう」ということを書いた。 ケインさん:人は普段、わかった振りをして生きている。 「差別はダメだよね~」とか。 しかし、そう言っている自分はどうか?といったん考える必要がある。 「差別はダメだけど、自分とは関係のないもの」と境界線を引いてしまっている。 「私は差別主義者ではない」と安全圏に行き、関係ない人達が差別をしてるよね、と。 栢木さんの文体は説教臭くない。 自分たちも差別をしてしまっている瞬間があり、それは思い込みや偏見などの仕組みであると。 誰もが社会の仕組みに巻き込まれているのに、「ほかの誰かの話だ」と境界線を引いている。 栢木さん:今日のイベントテーマは「境界にふれる」。 スポットライトの当たらない、忘れ去られた空間の向こうにもまた違う世界がある。 見る角度によってそこが中心になったり端になったりしていく。 ある視点からは見えていなかった、色んな層の文化の重なり合いがあることがテーマかなと。 ケインさん:僕は日本生まれだが、大阪にやって来たのは小学生の頃。 その時、自分もテレビなどで見た「ザ・大阪」のイメージを持っていた。 八木さんに観光の話を書いてもらったのはその経験から。 地域のイメージはどういう風に作られているのか興味があった。 最近、雑誌で「ディープな大阪特集」をよく見るが一体誰が「ディープな場所」を決めてるのか、とか。 実際、大阪に住む人々も「大阪には作られたイメージがあり、そうじゃない大阪があることも知ってるけど、まあそんなもんだよね」と境界を引いている。 みんな生活の中で何かしらの境界を引きながら、それに常に触れ続けている状態。 「ふれる社会学」やふれしゃかフェスを通して色んな立場の人と対話し、自分も社会に触れていけたらと思っている。 いつから「社会人」になるのか 栢木さん:大学で働いていて、「社会人になったら~」という言葉をよく聞く。 果たして、就職したらその日から「社会人」というものになるのか。 就職する前から、アルバイトしていたらすでに「労働」という仕組みに組み込まれている。 しかし本人が社会に組み込まれてない感じがしているなら、それが罠だと思う。 すでに消費税も払っていて、重要な社会の構成員になっているのに。 上原さん:僕は「ふれる社会学」の中で就活や労働について書いている。 3月末に学生生活が終わるといきなり「社会人」として扱われることには違和感がある。 栢木さんが言ったように、卒業前からすでに社会人かもしれないし、本当はいつから就職してもいいはず。 僕は沖縄出身で、沖縄は新卒採用の仕組みがまだ定着していない。 色んな理由はあるが、若い人たちは新卒にあまり強く縛られてない。 僕も20代は色々な仕事を経験し、30過ぎて落ち着いていくのが当たり前だと思っていた。 それもひとつの生き方。 色んな生き方のチャンネルがあっていいはずなのに、それが少ないという問題意識がある。 学生たちは就活の時期を迎えると、髪も服も靴も真っ黒になっていく。 就活が楽しい人もいれば、プレッシャーに耐えきれない人、うつや自殺の問題もある。 ゲームがいったん走り出すと、あなたは誰?と必ず問われアピールしなければならない。 「お前は何者だ?」という圧力が大学生にものすごくかかる。 そこから自分探しが始まるが、本当の自分探しをしているあなたも本当の自分でしょ、と。 就活の仕組みは学生生活をものすごく拘束している。 だが、自分も仕組みに疑問を持ちつつも大学教員として組み込まれている。 学生の内定が決まったら否定できないし、嬉しいと思う。 一方で、その仕組みからはじき出された人のことも考えたいと思い書いた。 栢木さん:「外国につながる子どもにふれる」の章に書かれているが、日本の学校教育システムは「一斉共同体主義」を前提にして大学まで出来ている。 だが本当は新卒採用のゲームに乗らなくても、他のゲームもあるし、別の角度から参加する選択もある。 「社会への参画の仕方はひとつではない」という考えも提供したい。 「あなたのせいではない」と伝えたい ケインさん:よく「文系の学問は役に立たない」と言われるが、 人文社会科学の役割のひとつが、「それはあなたのせいではない」とメッセージを放つことだと思っている。 今の世の中は自己責任の考え方が強い。 でも、今日着ている服は本当に自分で選んだのか?ファッション業界が決めたトレンドの服を、自分で選んだつもりで着せられているのかもしれない。 大学院に行く前に1度就活したことがあるが、大学ではよさこいしかやってなかったからその話しかできなかった。 ある人事の人に「何でみんなよさこいやってるの?」と言われた。 よさこいアピールする学生がすごく多いと。 自分が教えている大学の1年生は、ラクロスサークルに入っている理由を「マイナースポーツなので就活に有利と聞いたから」と話していた。 自分の趣味、留学、ボランティアですら就活の資源として見ている。 それはどうなのか。 そうやって自己分析して就活に落ちていく。 しかし、自分のプレゼンをさせたのは誰なのか。 本当に望んで就活をしているのか。 他の道もあったはず。 自分がいま落ち込んでいるのは、本当に自分のせいなのかと考えてみてほしい。 八木さん:何でも自分のせいと考えてしまいがち。 今は自分探しのブームが落ち着いてきたように見えるが、本当は自分探しが当たり前になって、あえて語られなくなっただけではないか。 栢木さん:加えて「社会が悪い」と言いづらい空気になっている。 本当は「社会が悪い」をスタートにして具体的に何が悪いかを考え、改善していかなければならない。 「社会が悪い」と言えないと、現状肯定しかできなくなる。 ヨーロッパではよく「移民にとって生きやすい社会は市民にとって生きやすい社会」と言う。 誰か特定の立場の人の問題に見えて、実は社会全体の問題だと。 そういうことを言うきっかけになったことが、人文社会科学の有用性かなと思う。 しんどくなったら社会学を思い出して 上原さん:一方で、今ある社会を楽しんでいる人、例えばよく話題になる「女らしさ」や「男らしさ」を楽しんでいる人が僕たちの言葉を聞くと、中には「否定された」と捉える人もいると思う。 授業をしていても、学生からそういう意見がよく出る。 ケインさん:僕は自分の授業でよく言うのが、 「しんどくなったら思い出して」。 「男らしさ」や「女らしさ」、就活でいう「勝ち組」を楽しんでられるうちはいいのかもしれない。 だが、それが実感のないまま自分の首を閉めていることがある。 仕事が忙しくてしんどいけれど、「休まないことが男らしさ」と思って働き続けているうちに過労死してしまったり。 八木さん:今、多くの地域で「アニメで町おこしをしよう」という動きがある。 アニメの舞台となったところに人が来て、商工会の人が町おこしに動いている。 過去の町おこしは税金を投入してやってきたが、自分たちの知恵でやっていこうという流れに変わった。 いい話でもあるが、自己責任に通じる部分もある。 そうじゃない町づくりはどういうのがあるかと、社会学で考えたりしている。 (中略)新自由主義に基づく諸政策を実行した主な政治家にはロナルド・レーガン、マーガレット・サッチャー、中曽根康弘、小泉純一郎などがいる。 (より引用) 栢木さん:多くのことは、ポジティブな側面だけやネガティブな側面だけではない。 表裏一体だと思う。 家庭内で起こるDVも、両者に愛があるから問題。 他人同士の暴力事件より事態が長続きしてしまうのは、そこにポジティブな関係もあるから。 簡単に区分けできない。 男女の家事分担も、愛情だけの話で白黒つけられない。 両方の観点を持ってないと、思っていた展開にならなかった場合に対応できなくなる。 例えば、一家の父親が突然「実は女性になりたい」と言ったとする。 その時、妻や子どもが唯一の家族像しか持っていなかったら、父親は言い出せないし更に苦しめることになる。 違う観点を持つことは、大事な人を守るためのセフティネットとしてもいいのかなと思う。 ケインさん:何かに無我夢中になっているときにも、社会学にふれて欲しい。 自分がのめり込んで「こうだ」と思い込んでると色んなことに対応できない。 でも、実際はそういうことばっかり起こる。 「~らしさ」と自分自身がそぐわなくなったとき、身近な人であればあるほど「~らしくないよね」などと言って苦しめてしまう。 社会的に作り込まれてきた見えない「らしさ」の罠がある。 当たり前すぎて気づかない。 でも、「そこには実はこういう仕組みがありますよ」と知らせるのが社会学。 半歩ずらした位置から見る。 1歩じゃなくて半歩。 その距離ぐらいしか自分たちは動けない。 その半歩が大事。 半歩ずれた社会がすぐそばに転がっていることをいったん知っておくことが大切なんです。 栢木さん:例えば、人は実際に恋愛する前に、ドラマや漫画で恋愛を学んでいく。 何を見て育ったかによって、世代などでも恋愛観が変わる。 そんな風に「自分の中に埋め込まれている社会的なものと相手のものが違う」と気づくと、自分と相手が人としてずれているのではなく、お互いの背景がずれているのだと気づくことができる。 ケインさん:その人が選んでずれているのではなく、年代や地域など色んな要素で「ずらされている」。 僕は社会学の授業をするとき、この本の冒頭と同じくスマホをテーマに始める。 学生にスマホを使って同じキーワードで検索してもらうと、出てくる結果がみんな違う。 個人の好みに検索結果がカスタマイズされているから、同じ景色を見てるようで一人ひとり違う景色を見ている。 色眼鏡って色がついてないから怖い。 テレビは消すことができるが、スマホは大事な個人情報が入っているから捨てられない、だから怖い。 その捨てられないメディアに入ってる情報が、自分の色眼鏡にフィットしたものになっている。 だからこそふれしゃかフェスを続けて、お互いの半歩ずれぐあいを確認することが重要だと思っている。 「自分はずれてるから中立にならなきゃ!」ではなく、ずれてることを確認し合うことが必要。 栢木さん:メディア論は、最初は人々を同期していくことを論点としていた。 新聞などの活字でみんな同じ情報を共有するようになり、同じ言語で同じものを見ている人達と連携する。 だが一方で、今はメディアがどう個別化していくかのモードにも変わってきている。 その中で、音楽に合わせて質問に「イエス・ノー」で答えていくことで自己紹介するっていう企画がある。 見ていると、目鼻立ちの整っている投稿者が「ハーフですか」という質問に自分で「イエス・ノー」と答えているものがたくさんある。 若い人に偏見が少ないかというとそうでもない。 ハーフと聞いた時に思い浮かべるのが欧米の顔、という偏見がテレビで共有され、若者にも引き継がれている。 「ティックトック」という楽しいツールでも差別や偏見が差し込まれ、繰り返されていく。 その中で感じるモヤモヤにどう名前をつけていくか。 「レイシズム」ほど強い言葉でなくても、名前をつけることが大事だなと。 そういうことを、カジュアルに伝えていく手立てがもう少し増えればなあと思う。 ふれしゃかフェスを終えて サイン会の様子。 八木さんの鋭い視線にシビれる 登壇者のみなさんの熱いトークは2時間におよび、気づけば立ち見が出る大盛況でした。 質疑応答のコーナーでは「私はケインさんと同じ『ハーフ』の当事者だが、たまに半歩どころか大きくずれた偏見を持つ人に出会い、しんどくなる。 どうすればいいか」という質問や、「私は20歳を超えているが、大学の先生には子ども扱いもされる。 大人と子どもの境界をあえてつけるならどこか。 こう聞くと大人は『あなたが大人と思ったら大人』と言うがそれは逃げだと思う」など、考えさせられる質問が飛び交いました。 私も今回のトークを聞きながら、自分が社会に組み込まれていると自覚した瞬間や、今まさに感じている違和感の原因など色んな考えがかけめぐり、「こういうことを考える作業が、まさに社会学にふれることなんだ」と実感しました。 今後も全国で続いていく「ふれしゃかフェス」。 12月は東京と鳥取での開催が、そして年明けには再び大阪での開催が決まっているそうです。 今後の詳しいスケジュールはケインさんのもしくはをチェックしてください! そして熱い登壇者のみなさんが執筆した社会学の入門書「」、ぜひ目次だけでも見てみてください。 それぞれの章が分かりやすい言葉で簡潔にまとめられているので、興味あるテーマから少しずつ読んでいくのもアリだと思います。 「」も「」も、今後も関連イベントが続くそうですので、私も出来る限り参加してふれていこうと思います! 関連記事.

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ふれる社会学 / ケイン樹里安 〔本〕 :10220331:HMV&BOOKS online Yahoo!店

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『よい移民』翻訳者でもあり、『ふれる社会学』「差別感情にふれる」の執筆者の栢木清吾先生と、「『魂』にふれる」の稲津秀樹先生、編者のケイン樹里安先生により、満員御礼の中、熱いトークが繰り広げられました! そして、フロアからはお話の流れの中で積極的な発言や問題提起を頂き、対話形式も交えつつ話題も広がっていきました。 気づけばなんと3時間超えのイベントに! これまでの最長イベントとなりました。 なお、実際のフェス中はみなさん「ですます調」で話されておられましたが、「レポート」の性質上、細かな言い回しはカットしたり、内容も圧縮させて頂いたりしております。 身のまわりのことを考えられる社会学のテキストをつくろうと思った。 カバーデザインにある英語trace the outline of societyのように社会の輪郭をなぞり返すようなテキストを目指した。 書き手はすべて、Black(黒人)、Asian(アジア系)、Minority Ethnic(エスニック・マイノリティ)の頭文字をとってBAMEと呼ばれる人びと。 言い換えると「有色系」の移民の子孫たち。 小説家、ジャーナリスト、詩人、俳優などとしてイギリスで暮らしているなかで直面する人種差別や、投げかけられる偏見やステレオタイプなどについて、批判的かつユーモラスに書いている。 『よい移民』はイギリスで8万部のヒットだった。 『ふれる社会学』は、その行為の意味について考えさせられるテキストだ。 日々の暮らしの中で、ふれたくないものにもふれてしまう瞬間、あるいは、ふれているのに言語化するのに困ってしまう瞬間がある。 その顕著な例が、差別ではないだろうか。 社会運動や政治運動が是正を目指すような、大きな構造的差別が、この世の中にはある。 他方、法律の世界では、近年、外国人や障害者、ひいては被差別部落の差別解消法が(罰則のない理念法に留まるが)制定されるなど、一見、差別は是正されているような印象もある。 ここで話してみたいのは、そうした大きなところで展開する「差別の話」を横目にみつつも、私たちが身近なところで日頃から経験している差別(ともつかない差別)についてだ。 例えば、ネットを何気なく見ているだけで飛び込んでくる(ふれさせられる)外国人をめぐるデマ、性的なイメージ、特定地域への偏見、一見、「正論」のように思える政治家やタレントの言動、ニュースのネットコメント欄で行われる「論破」に感じる得も言われぬ違和感。 そんな身近でカジュアルな、ほっとする(はずの)領域に忍び込む現代的な差別のことを考えたい。 自分は学生の時、スーパーでバイトをしていた。 その時、自分は荷出し、女性はレジだった。 女性のバイトの人がいない時、レジを担当したことがあったが、「むさくるしいスーパーだなぁ」と言われた。 また問題があった時、男性社員が、女性がいないところで「男と女とでは考え方が違うからな」などと言いながら、女性を悪く言うことで男性同士の仲間確認をされることもあった。 まどろっこしい話にこそ、光を当ててみたかった。 ふれてきたのに、ふれていないと思おうとしてきた。 そういうことにこそ、問題がギュッとつまっているのではないか。 一人だとしんどいけれど、みんなで考えたら新しい一歩になるかも、という思いで本書を編んだ。 身近な飲み会の席でも「奥さん」という表現をする方がいて、その表現には批判があることを指摘すると、「自身は差別する意図で言ったのではない」と返され、違和感を抱くことがある。 当人は無意識で人を傷つけている場合も多い。 差別的な言葉が社会のなかで流通していて、個々人が使用できる状態にあることが問題である。 同時に、ある言葉を発することができる、ということには社会的な格差がある。 たとえば男性が女性の容姿について公の場でコメントしているとき、肯定的に言うか、否定的に言うか以前に、そういう話題を当人に投げかけていい立場に自分はいると無意識に思えていることが問題。 何か評価するようなことを言うのは、優越意識、特権意識があるということ。 個人を責めるだけではなく、社会構造の問題としてひらいていくことが大切。 無意識に行ってしまうものが厄介。 そして、誰かにとってそこにしんどいものがある時、無意識でいられる人がマジョリティの特権である。 誰もがやりがちで、絡めとられる仕組みがあるということに気づくことが大事である。 それらはあらゆるところに存在するし、テーマと事例が違えば誰でも差別をしてしまう可能性がある。 その授業でほぼ毎年『イラン式料理本』というドキュメンタリー映画を見せる。 その映画は女性が家庭で料理をする様子を淡々と撮影したものだが、ずっと見ていると、イランにおける男尊女卑、家事労働をめぐるジェンダー格差が描かれていることがわかる。 だが、学生たちに「何の問題を扱っているか」と質問すると、多くはジェンダーの問題だと理解するが、全くそういう問題に気がついていない学生が一定数いる。 一方、そうした問題に気づいている学生に、「では、あなたは料理ができるか?」と聞くと、否定的な回答しかない。 「しなくていい」という特権をもっている人間は、問題に気がついてもその特権を手放そうとしない。 大坂選手自身も、今までは応援は家族や周りの身近な人々のみであったのに、勝ち続けると応援に日の丸が増えていった、と話していた。 とはいえ、大坂選手が政治家になりたい、と言ったらどうなるか・・・。 歓迎するのだろうか・・・。 つまり大坂なおみをジャッジする人がいる、ということである。 彼はジャマイカで生まれ、10代でカナダに移民している。 最初新聞等では「ジャマイカ人」という記載された。 成績が良くなるに従って「ジャマイカ系カナダ人」と呼ばれだし、金メダルを獲った直後は単に「カナダ人」と呼ばれた。 だが、メダルが剥奪されると再び「ジャマイカ系カナダ人」という表現に戻った。 そこでは「日系ペルー人」から「ペルー人」へとメディアでの名指され方が変わっていった。 日系人の受け入れは「日本人」との(フィクショナルな)連続性の下に行われたことだが、犯罪を起こすと、日本人との連続性ではなく、その外国人性が強調されることで、「日本人」との断絶が表象されるようになっていた。 質疑応答という形ではなく、ここから参加者の方々が体験を語ってくださったり、問題提起を行ってくださったりしました。 子どもの頃、身体的にハンディキャップをもった障害児がクラスにやってきた。 フォークダンスの時、みんなが嫌がったので自分が一緒に踊った。 それに対し先生が褒めたので、みんなも関わろうとするようになった。 一時みんなから積極的な関わりがあったものの、子どもたちはすぐに飽きてしまい、障害児はまたすぐに一人ぼっちになってしまった。 まもなくその子は農業用水に落ちて亡くなってしまった。 自分は、その子がたくさん人が集まってきて関わってくれたのに、やがてさーっと引いてしまったことに絶望してしまい、そのことが死に関わっていたのではないかと感じた。 辛くなって先生に相談すると、「忘れなさい」と言われた。 子どもの頃のこの事件が心に引っかかっており、未だ処理できない。 自分は差別の外にいる、と思わないことが大切。 差別感情をどう捨てていくか。 それはある意味自分の心の一部になってしまっているので、捨てるのはしんどいし、完全に捨てることはできない。 例えばジョージ・オーウェルは、労働者の生活を知りたいと思い、一緒に働いたのだが、彼らとの差異を感じてしまい、たとえば労働者を臭いと思ってしまい、そう思ってしまう自分に絶望した、という話がある。 自分が培ってきたものを否定することになるのはしんどいことである。 しかし、差別を受けている人たちのしんどさはその比ではない。 また、誰の中にも醜悪な差別がある、と思わないといけない。 差別を受けている人たちも、別なことでは差別をしているかもしれない。 だが、だからと言って助けなくてよい、ということではない。 世界は勧善懲悪ではないし、犠牲者を聖人のように扱ってはならない。 学校は安全なスペースであるはずなのに、手を差し伸べるあなたはえらい、ということにより、上下の構造をつくってしまった。 障害児、外国ルーツの子どものしんどさは、その子がダメだから、と思うことである。 それは罠なのである。 また、言い方を少し変えることの積み重ねでしんどさが軽減されるのではないか。 常々、障害者と性の問題が十分に議論されていないのではないかと思っていたので、点字でのアダルト小説の翻訳はどうなっているのか、と質問したところ、怪訝な顔をされてしまった。 調べた範囲では、アダルト小説等の利用度は点字翻訳での上位だったこともあり、障害者を聖人化しているところがあるのではないかと思った。 これについてどう思うか。 いつのころからか、ハリウッド映画でベテラン刑事、大統領、なにかのチームのリーダーに黒人を配役することが流行になった。 もちろん過去の差別的な描写に対する是正の意味もあろうが、過剰に知性や良心の象徴に「黒さ」を使うのも、差別と一続きの問題ではないか。 それはLGBT、意味にも当てはまる。 例えばメディアに登場する、「明るいゲイ」。 コミュ力があり、良いことを言う、教えてくれる存在を求められる。 また、大坂なおみもいつも無理やり日本語でコメントを求められ片言の日本語で話しているが、それも彼女の片言の日本語に少女性を過剰に見出そうとしているのではないか。 すごいアスリートなのに片言の日本語を話させ、飼いならそうとしているのではないだろうか。 誰かを助けようとする時、上から目線を取ってしまう。 それを指摘したところ、本人たちは気づいていなかった。 それは医者と患者の関係にも見られることでもある。 患者にいつも従順さを期待することは権力意識のあらわれ。 障害者の方が優れた能力をもっている、という人もいる。 例えば、都市部の匿名性に対して、地方は「その人」が浮かびあがる地域だから、すばらしいとか(あとは、「地方の人は暖かいから差別をしない」とか)。 地方語りをめぐる顕名性をはじめとする様々な表現も、こうした文脈の下に考えなおす必要があるだろう。 人は人とのかかわりの中で出来上がっていくもの、その人がどのように生きてきたか、その人の向こうに時代や環境がみえる。 また、『ガキ使』(ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!)で浜田がエディ・マーフィーに扮したのを見てとても嫌だった。 でも、友達が炎上したけど面白かった、と言っていたのに対し、不快に思ったものの、友人関係を考えると面白くなかったと言うことができなかった。 このように、身近な人にこそ傷つけられがちである。 また自分自身にも気づけていなかったことがある。 それはフィリピン人のハーフの人が語った話。 いつも職務質問をされ、靴に麻薬を仕込んでいないか、靴を脱がされ調べられ、とてもしんどい思いをしている。 こういったことは新聞やテレビではなかなか取り上げられない。 Hafu Talkは自分と似ている経験、違う経験を見てほしい、と思って運営している。 『ふれる社会学』をつくったのも同じ目的。 そしてイベントやメディアに出ているのも、お土産をどれだけ手渡せるか、しんどい思いをしている人たちの資源になれば、と思っている。 自分も変わっていきたい。 また、この土地は子どもの時からずっと同じ人間関係で過ごしていらっしゃる方が多い。 そのため、子どもの時から関係性が固まっているところもある。 そのため、海水と淡水がまじりあうような、そういった関係が揺らぐ、いろいろなものが混じりあう場所になればと思い名前も汽水空港とした。 『よい移民』で書かれていたテンプレ、自分もやってきたのではないかと思い、ドキドキした。 浅黒い肌をした移民の子どもたちも白人の主人公を書いてしまう。 今までの物語に有色の主人公がでてくる物語を読んだことがないから、多様な主人公を書こうといってもなかなかできない。 自分たちと同じ容姿をもつ人々を描いてよいと思っていない。 だが時間をかけて「そのように描いていいのだ」と教えていくうちに、自分たちに似たキャラクターをポジティブに語れるようになる。 日本でも移民が増えているにもかかわらず、多様な絵本や書物がない。 早く取り組まなくてはならない問題である。 私も含めた上の世代の教員は、在日コリアンの児童生徒の教育について考えるときも、「日本名をもち、日本語を普通に話せるので問題ない」という学校教育現場のスタンスにショックを受けて、在日朝鮮人教育の活動に取り組んできた。 朝鮮学校の美術展の開催に一市民として携わっているが、生徒さんの絵が素晴らしい。 なぜ良い絵が描けるのかといえば、「ああしろ、こうしろ」といった指示が教員からなされないからだ。 どうしてこういう絵を描いたの?と問うと、そこには物語が紡がれている。 日本社会での差別と被差別の関係を考えるにあたって、当事者の自尊感情をはぐくむことに力点を置いてきた。 それはそれで正しいことではあるのだが、自尊感情の押し付けがテンプレになっているのではないかと思うし、その意味で、マジョリティが思い描くマイノリティのこうあるべき姿、というのは壊していくべきなのかもしれない。 大型書店で多く並んでいるのは、自己啓発本、ヘイト本である。 自己啓発本では、例えば大好きなことを仕事にするには、続けることが大切だという。 だが、失敗したら自分のせい、自己責任なのか? 原因は家庭環境やいかなる属性をもっているかも大いに関わってくる。 自己肯定感が大切なのはよくわかるが、もて、というのではなく、それをもてる環境を整備しなくてはならない。 そして社会のしくみの問題を名づけていく(人種化やジェンダーといったように)。 主体的であれ、というおまじないはもういらない。 しんどくなった時の処方箋、手立てが必要なのだ。 マイノリティの問題はマジョリティの問題でもある。 例えば、移民と言わず、外国人人材というのも「人材」とモノとして扱っている、都合の良いものとして扱っている証左でもある。 例えば白人系ハーフはマジョリティである。 『ふれる社会学』では中国人ハーフ女性の経験が描かれているが、自分の経験と全く違うものだった。 マイノリティがさらにマイノリティ(例:黒人シングルマザー等)を飼いならそうとする、という現象は起こるので気を付けなくてはならない。 『ジョーカー』はマジョリティが自分を棚上げして、あんなにかわいそうだったら仕方ないよね、マジョリティでもマイノリティ理解できる、という態度が怖い。 『ライフ・イズ・ビューティフル』のほうが観ていてしんどかった、喜劇にしていいのか、との疑問を持ったというコメントが多くて驚いた。 一方、『戦場のピアニスト』はリアルでよかったという感想。 では、悲劇にしてよいのか?、という質問を投げかけるときょとんとされた。 笑いにするのが不謹慎だというが、美化することにも問題はないのか?悲劇も喜劇もあるドラマ形式に落とし込む、つまり、理解しやすく処理する方法。 他方、『ジョーカー』は架空の街の話という設定にしてあるので、観客にとって近すぎないから、適度に現実逃避しながら見られるところがよくできている。 あまりにも身近だと、観ていてしんどい。 『よい移民』も、日本の読者にとっては遠い国の話に思えるかもしれない。 翻訳書の利点は、いったん遠くへ逃がれて、フラットな気持ちで問題を再発見できるところで、そしてその地点から自分の問題を眺め直す機会が得られるところではないか。 差別は安易に乗り越えられるものではないが、新たなかかわりが可能性を生むのではないだろうか。 以上、第5回ふれしゃかレポートでした! レポートもいつもより長くなりましたが、実際はさらに熱気あるイベントとなりました。 イベント後も、個々に登壇者の先生方にお声をかけられる参加者の方々の姿が印象的でした。 本日のキーワードは「無意識の中の差別」「マジョリティの特権」「マジョリティとは、気付かずにいられる人」でした! ご参加の皆様に少しずつでも個々の「お土産」をもって帰って頂けていますように・・・。

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