真夜中 の 御徒 町。 幕府主要役職

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转乘站 [ ] 此站的闸外通道连通以下3站,与此站视为同一站。 东京地铁 -• (JR东日本) - 、 其中,与银座线、日比谷线的转乘适用转乘优惠。 2009年(21年)3月16日,连接上野御徒町站与的地下通道开通(因此仲御徒町、上野广小路站可通往JR、地铁) ,但京成、JR、地铁上野站未有转乘措施。 另外,附近的在计划时有规划与12号线(大江户线)转乘,但目前尚未实施。 历史 [ ]• 2000年(12年)12月12日:本站开业。 同日开始接受与上野广小路站、仲御徒町站及御徒町站换乘。 2012年(平成24年):启用。 2015年(平成27年)4月1日:上野御徒町站务区管理的大江户线藏前站移交给新桥站务管理所浅草桥站务区。 2016年(平成28年)4月1日:上野御徒町站务管理所废止,移交给巢鸭站务管区管理。 同时上野御徒町站务区范围从春日站 - 两国站改为牛込神乐坂站 - 新御徒町站。 车站构造 [ ] 1面2线之地下车站。 月台与付费区大厅之间设有电梯与电扶梯。 往上野广小路、仲御徒町两站的连络通道与A6出口设有电扶梯,A1、A6出口设有电梯。 厕所在付费区内。 月台配置 [ ] 月台 路线 目的地 1 大江户线 、、方向 2 、、方向• 取消副站名前的车站月台(2008年) 使用情况 [ ] 2017年度1日平均上下车人次为 58,303人(上车人次:29,296人、下车人次:29,007人)。 开业以来的1日平均上下车、上车人次变化如下表。 各年度1日平均上下车、上车人次 年度 1日平均 上下车人次 1日平均 上车人次 来源 2000年(平成12年) 33,236 16,635 2001年(平成13年) 41,355 21,037 2002年(平成14年) 46,497 23,734 2003年(平成15年) 47,496 24,180 2004年(平成16年) 48,354 24,527 2005年(平成17年) 48,789 24,677 2006年(平成18年) 49,503 24,806 2007年(平成19年) 50,899 25,427 2008年(平成20年) 51,728 25,898 2009年(平成21年) 51,581 25,911 2010年(平成22年) 51,081 25,623 2011年(平成23年) 50,264 25,189 2012年(平成24年) 52,296 26,229 2013年(平成25年) 53,160 26,656 2014年(平成26年) 54,021 27,072 2015年(平成27年) 55,060 27,620 2016年(平成28年) 55,856 28,010 2017年(平成29年) 58,303 29,296 车站周边 [ ].

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转乘站 [ ] 此站的闸外通道连通以下3站,与此站视为同一站。 东京地铁 -• (JR东日本) - 、 其中,与银座线、日比谷线的转乘适用转乘优惠。 2009年(21年)3月16日,连接上野御徒町站与的地下通道开通(因此仲御徒町、上野广小路站可通往JR、地铁) ,但京成、JR、地铁上野站未有转乘措施。 另外,附近的在计划时有规划与12号线(大江户线)转乘,但目前尚未实施。 历史 [ ]• 2000年(12年)12月12日:本站开业。 同日开始接受与上野广小路站、仲御徒町站及御徒町站换乘。 2012年(平成24年):启用。 2015年(平成27年)4月1日:上野御徒町站务区管理的大江户线藏前站移交给新桥站务管理所浅草桥站务区。 2016年(平成28年)4月1日:上野御徒町站务管理所废止,移交给巢鸭站务管区管理。 同时上野御徒町站务区范围从春日站 - 两国站改为牛込神乐坂站 - 新御徒町站。 车站构造 [ ] 1面2线之地下车站。 月台与付费区大厅之间设有电梯与电扶梯。 往上野广小路、仲御徒町两站的连络通道与A6出口设有电扶梯,A1、A6出口设有电梯。 厕所在付费区内。 月台配置 [ ] 月台 路线 目的地 1 大江户线 、、方向 2 、、方向• 取消副站名前的车站月台(2008年) 使用情况 [ ] 2017年度1日平均上下车人次为 58,303人(上车人次:29,296人、下车人次:29,007人)。 开业以来的1日平均上下车、上车人次变化如下表。 各年度1日平均上下车、上车人次 年度 1日平均 上下车人次 1日平均 上车人次 来源 2000年(平成12年) 33,236 16,635 2001年(平成13年) 41,355 21,037 2002年(平成14年) 46,497 23,734 2003年(平成15年) 47,496 24,180 2004年(平成16年) 48,354 24,527 2005年(平成17年) 48,789 24,677 2006年(平成18年) 49,503 24,806 2007年(平成19年) 50,899 25,427 2008年(平成20年) 51,728 25,898 2009年(平成21年) 51,581 25,911 2010年(平成22年) 51,081 25,623 2011年(平成23年) 50,264 25,189 2012年(平成24年) 52,296 26,229 2013年(平成25年) 53,160 26,656 2014年(平成26年) 54,021 27,072 2015年(平成27年) 55,060 27,620 2016年(平成28年) 55,856 28,010 2017年(平成29年) 58,303 29,296 车站周边 [ ].

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町奉行所の分掌の一つに定中役という掛役がありました。 定中役とはどんなお役目だったのか。 三田村鳶魚は『江戸雑話』のなかで定中役について、「同心十人、臨時触当により諸般の出役に従事す」と書いています。 いわゆる総務系の何でも屋だったようですが、番方同心との違いがよく分かりません。 定中役の触当を行う定触役という掛役もあり、こちらは「同心三人」となっています。 番方世話役と同じようなものでしょうか。 どうやら彼らは様々な臨時出役に駆り出される若手の同心たちで、役所内でも比較的軽く扱われ、便利使いされる存在だったものと思われます。 しかし、わざわざ番方同心とは別に敢えて「掛役」として設ける必要があったのでしょうか。 まだ役目(掛役)もつかない、駆け出しの時代に、若手の若同心や見習同心がやらされるという番方同心との違いはどこにあったのでしょうか。 じつは当番方の最大の特徴はその勤務形態にあります。 宿直ありで、二十四時間以上の連続勤務となる当番方は、思いのほか大変な仕事で、与力の場合にはもっともキャリアが浅く、掛役が無いとみなされる若手の与力たちがひっぱりだされ、ロウ・ティーンの当番与力が真夜中にいい年をしたおじちゃん・おばちゃんたちの駆け込み訴えを聴いたり、彼らにお説教したり、喧嘩の仲裁までしていたといいます。 ちょっと不安な気持ちにもなりますが、そこはよくできたもので、同じ番組から、物書同心以上の係長・主任クラスのベテランが当番同心として、当番与力を補佐していました。 お守役といったところですね。 当番与力と当番同心は、壱番から五番までの番組から順番で出て、それなりに責任ある役目を務めますが、主に雑用や力仕事をやらされる駆け出しの同心たちは番組とは別に三番編成となっていて、交替で出勤していました。 それが番方同心です。 番方同心はそうした特殊な勤務形態のため、他の掛役との兼帯や交替の調整なども面倒だったろうと思います。 そこで、日中は常に組屋敷などで待機し、いつでも出役できる定中役のような存在は使い勝手もよかったろうと思います。 また、無役の番方から日勤の掛役へとステップアップしていく過程ではワン・クッションにもなり、敢えて掛役として置く意味もあったのでしょう。 町方与力の給与は地方(じかた。 土地=知行所・給知による給与方式)ではありましたが、誰某に何処といったような銘々の知行分はなく、一人二百石宛五十人で一万石の給知を上総下総両国のうちに、大繩(一括)で与えられていました。 享保四(1719)年、中町奉行の坪内能登守が御役御免になると、後任は置かれず、町奉行は従前の二人制に復し、与力の定員も南北各組二十五騎(両組あわせて五十騎)となって幕末まで続きます。 文政十一(1828)年の『北組与力同心姓名書』(旧幕府引継書)から、北組与力二十五騎の給知高五千石の内訳を見てみましょう。 『北組与力同心姓名書』(旧幕府引継書。 つまり組与力の数は表向きは二十五人でも、実際には二十三人だったわけです。 次に支配五人役料とは、五人の同心支配役(支配与力、筆頭与力ともいいます)の役料で、一人三十石宛五人で百五十石が支給されていました。 与力の高は一人二百石宛の建前ですが、実際には均等ではなく、町奉行の裁量で百五十石〜二百石のあいだで差がつけられていました。 この差額から、支配与力五人の役料も出ていたのです。 用人目安方収納高の四百石は上述した内与力の給料分で、公用人三人が百石宛、目安方二人が五十石宛で五人あわせて四百石の計算となります。 最後に残知七十石の行方ですが、恐らくは知行所の管理や収税等、領主として必要な業務に係る諸経費に充てられていたのではないかと思われます。 さて、文政十一年に、役高二百石をもらっていた北組与力は十四人、高百九十石以下の与力は九人いました(最低は高百六十石の三人)。 この年の七月に新規抱入となったばかりの米倉作次郎・三十八歳や、同じく二月抱入の高橋金五郎・十七歳は最高の高二百石でした。 その一方で、寛政十一(1799)年抱入の五番組支配与力松浦伴右衛門・五十五歳や、文化二(1805)年抱入の壱番組支配与力谷村猪十郎・四十八歳は最低の高百六十石でした(ただし、二人とも支配与力であったため、本俸とは別に役料三十石をもらっていました)。 寛政二(1790)年抱入の最高齢・最古参与力で、年番も勤める弐番組支配与力・嶋喜太郎・六十五歳は高百七十石でした。 新米与力の作次郎や金五郎が二百石なのは、先代の米倉緒右衛門や高橋八郎右衛門が二百石であったからに他なりません。 抱席の与力に家禄はありませんでしたが、町方与力の職とともに役高も親から子へと実質的に世襲されていたのです。 ついでに、同じ文政十一年の南組与力についても、『南姓名書』(旧幕府引継書)で見ておきましょう。 高二百石をもらっていたのは十三人、高百九十石以下が十人いました(最低は高百五十石の一人)。 高二百石には前年抱入の佐野伴蔵・三十二歳や、文政六(1823)年抱入の稲沢弥一兵衛・二十一歳、吉田忠兵衛・二十四歳がいる一方で、最低の高百五十石は文化五(1808)年抱入の中田与一右衛門・四十歳でした。 与一右衛門は弐番組の次席与力で、奉行所の花形ともうべき吟味方に勤めていました。 寛政六(1794)年抱入で年番を勤め、吟味方の筆頭でもあった三番組支配与力仁杉八右衛門・六十歳はこの時、高百七十石でした。 翌文政十二年、八右衛門から忰五郎八郎(後の八右衛門)に番代しますが、後に二代目八右衛門は数度の加増を重ね、嘉永七(1854)年には高二百石になっています。 駆け出しの与力だからといって、禄が少ないということはなく、要職にあるベテラン与力だからといって、禄が多いとも限りませんでした。 五人の支配与力に昇りつめれば、役料三十石がつくものの、上述の例のように役料込でも新米与力の高に及ばないこともありました。 給地高五千石の総枠がある中で、基本的には番代をしても役高が下がらないのですから、加増しようにもできるわけがありません。 それでも。 仁杉八右衛門のように多年の精勤を賞されて、加増されることが稀にありました。 不正やしくじりなどで処分を受け、改易となったり、小普請入りや先手組等への左遷となるケースが稀にあり、その明跡へ小普請その他から入人(転属)となったり、与力の部屋住みが分家を興して、新規抱入(後述)となる場合がありました。 この時に町奉行の裁量で役高を新たに定めることになっており、百五十石程度になることが多かったといいます。 この時の前任者と新任者の役高の差(減)額分が加増の原資となっていたわけです。 滅多に昇給(加増)がないのもやむをえなかったというべきでしょう。 それにしても、加増は本人の働きが認められた結果とはいえ、処分を受けた者が多い組ほど、昇給のチャンスも多かったというのは皮肉というほかありませんね。 終わりに、与力の部屋住みが分家を興して、新規抱入となった事例を一つ紹介しておきたいと思います。 天保十五(1844)年二月二十五日、南町奉行鳥居甲斐守と北町奉行鍋島内匠頭の進達により、内与力が廃止され、その代わりに与力の部屋住みから南北各組二人宛両組計四人を高百五十石で新規抱入とすることになりました。 このとき、分家を立てて新規抱入となったのが北組は五番組支配与力谷村源左衛門の忰栄五郎・三十一歳、四番組支配与力東條八太夫の忰八太郎・二十四歳、南組は三番組支配与力佐久間彦太夫の忰健三郎・三十六歳、壱番組支配与力中村八郎左衛門の忰次郎八・二十八歳の四人でした。 内与力の給与四百石(両組で八百石)が削減され、分家を興した与力たちには三百石(同六百石)が与えられたわけですから、各組で百石宛が浮いた計算になります。 しかし、この七ヵ月後には絶大な権勢を奮っていた鳥居甲斐守が失脚し、一度は大目付に棚上げされていた鳥居の政敵・遠山左衛門尉(遠山の金さん)が後任の南町奉行として返り咲きます。 その結果、内与力も再び復活することになりますが、一度増やした与力を容易く切ることもできず、関係者はさぞや頭を痛めたことでしょう。 このとき、新たに分家を興した与力の一人・佐久間健三郎は、鳥居甲斐守の失脚から約一年後の弘化二(1845)年十月三日、鳥居の不正(でっち上げによる冤罪事件)に関わったとして罷免されています。 健三郎は、このブログにもしばしば名前の出てくる佐久間長敬の実父です。 長敬は、まだ弥太吉と名乗っていた嘉永三年、分家を興した実父にかわって、南町奉行所の無足見習(無給の見習与力)となりました。 二年後の嘉永五年七月二十二日、弥太吉の祖父彦太夫(七十四歳。 三番組支配与力、年番)が病気のため、与力を辞めると、弥太吉は祖父の暇跡に抱入となります。 当然ながら、高も祖父と同じ二百石でした。 もし健三郎が罷免されず、本家分家が並び立っていれば、四十四歳の父が高百五十石の分家当主、十七歳(実年齢は十四歳)の忰が高二百石の本家当主となっているはずでした。 なお、南氏の記事ではこれを嘉永三年四月としていますが、旧幕府引継書の『與力同心前録』はこれを同年正月二十八日としています。 (2018年7月11日加筆訂正) どのような役所や企業にも、大きな権限をもち、組織内で権勢を振るう、有力な部署があります。 現代の役所なら大臣官房や財務省の主計局、企業なら社長室や経営企画室、人事部といったところがそうでしょうか。 江戸の町奉行所にも、そんな有力な分課が三つありました。 用部屋 用部屋には組与力は配置されず、かわりに奉行の家来である内与力(公用人・目安方)が万事を取り仕切っていました。 また奉行の政策を推進する中心的な役割も担っていたものと思われます。 寛政八(1796)年三月、当時の南町奉行坂部能登守の進達により、内与力の制度が廃止され、かわりに旗本役の町奉行支配留役(翌四月、町奉行吟味物調役に改称)が置かれました。 しかし、坂部自身が半年後には西丸留守居へ役替えとなり、内与力廃止の件もうやむやとなってしまったようです。 それでも、この制度は文化八(1811)年八月、町奉行吟味物調役が廃止となり、改めて内与力が再置されるまで十五年間もつづきます。 従来、十人ほどいた用部屋手附同心を公用方と調方の二つに分けて再配置していたことがわかります。 内与力の廃止とはいっても、公用人・目安方の仕事(町奉行の秘書的業務)はそのまま残っており、彼らが解雇されたわけではありませんでした。 ただ公用人のうち、二人の名前を組与力として書き出し、組与力二騎分の俸禄を町奉行が受け取って、公用人たちに再分配するという運用が一時的に廃止されたわけです。 坂部の役替え後はこれもうやむやとなって、結局元の運用に戻ってしまったようですが、吟味物調役が新たに配置された以上は、建前として内与力は廃止ということにしておく必要があったのでしょう。 吟味物調役といえば、仙谷騒動で名を馳せた川路聖謨(後に勘定奉行などの要職を歴任)の寺社奉行吟味物調役が有名ですが、専門の職員をもたない、大名役の寺社奉行と違って、町奉行所には代々その職を受け継ぐ組与力同心たちがいます。 しかし、内与力のかわりにやってきた吟味物調役は、評定所留役や徒目付出身の旗本で、叩き上げの実務家でした。 その上、内与力だけでなく、吟味方与力とも職分が重なっていたわけですから、町方与力たちにとっては、内与力以上にうるさく、やりづらい相手であったに違いありません。 そんなことも後々の町奉行吟味物調役廃止・内与力復活につながっていったのではないでしょうか。 年番方 総務(奉行所の営繕等)、人事(同心の任免等)、給与(組与力の采地や組屋敷の管理等)、経理などを掌る、いわば奉行所の心臓部ともいうべき部署でした。 町方の組与力同心は五番編成で、それぞれの番組の筆頭与力を同心支配役と称し、番組内を統括していましたが、その五人が一年ごとに持ち回りで勤めたことから、年番と呼ばれるようになったといわれています。 年番与力は、町奉行に次ぐナンバー2のポジジョンで、与力の中でも最も重要なポストとされていました。 年番与力は、町方組与力の出世の最終到達点であったといえます。 寛政三(1791)年の町鑑では南北どちらも年番が二人となっていることが確認できます。 また、年番は原則支配与力が任じられていましたが、持ち回りでなくなって以降は、支配与力以外から任命されるケースも見られます。 幕末には年番が三人に増えたといいます。 天保の終わりごろ、北の松浦栄之助が年番手伝、南の仁杉八右衛門が年番助として、弘化二年には南の中村八郎左衛門が当分役として、三人目の年番に任じられたこともありますが、これは一時的な人事運用だったようです。 安政二(1855)年の町鑑では北、文久元(1861)年の町鑑では南北ともに三人の年番が記載されています。 ペリーの来航以降、世情騒然となる中で町奉行所の所管業務もいよいよ複雑多岐にわたり、業務の錯綜も甚だしくなって、組与力同心たちの司令塔ともいうべき年番を増員せざるをえなかったということでしょうか。 職務柄、大名家や有力商人たちからの付届も多く、大半の中堅・若手与力たちにとっては、憧れの的でもあり、吟味方に配属されることが一つの目標でもあったことでしょう。 吟味方にも下役同心とは別に書物役の同心がおり、年番方同様、若手の若同心・見習同心が勤めていました。 与力の分掌には、本所見廻りや養生所見廻り、牢屋見廻りなど、他にも多数あるのに、いささか乱暴な気がしないでもありません。 組与力同心の約半数を擁する当番方に対し、吟味方は町奉行本来の任務ともいうべき公事吟味を担当する分課で、吟味方をサポートする例繰方や赦帳撰要方も、吟味方を中心とする一つのグループ(部門)とみられていたのではないでしょうか(吟味方は人数も多く、その半数は熟練の実力者で占められているのに対し、例繰方や赦帳撰要方には比較的若手の与力が配属されています) 町奉行所の役所部分は中央部に公用人の指揮する用部屋があり、それより奥(西側)には町奉行が政務を行う表居間や、主要な会議室(内寄合座敷、内座之間)などがあり、表(東側)の北部分には当番方の各詰所(与力番所、同心番所、年番部屋、若同心詰所など)、南側には吟味方の主導する公事吟味に関する施設(裁許所や詮議所と白洲、例繰方詰所、赦帳撰要方詰所、仮牢、公事人溜りなど)で占められていました。 吟味方は、単なる町奉行所の一分課ではなく、町奉行所の機能を二分する中核部門として位置づけられていたからこそ、山口の発言があったのではないでしょうか。 坂部能登守や天保改革期の町奉行鳥居甲斐守と鍋島内匠頭は、これを奉行の不正と断じて、幕閣に進達し、内与力を廃止しましたが、いずれも当人たちが辞めると、旧に復したといわれています。 有給の見習与力七人を含む与力三十人のうち、年番与力二人(幕末には三人)、宿直与力が十人以上(五つの番組から役掛のない若手の与力が二人ずつ交代で当番与力を勤める)。 (2019年7月30日加筆修正) みなさんは「物書同心」というと、どんなイメージを思い浮かべますか。 奉行所の片隅にある一室で、机の上に高く積み上げられた書類を横目に、一日中、黙々と書物をしている。 「物書」同心という呼称がそんな姿を連想させるためか、地味で軽いお役目、閑職、あるいは窓際族といった文脈で語られていることが多いように思います。 けれども「」をご覧いただければ分かるように、「物書同心」は「年寄役同心」に次ぐ町方同心の階級で、分掌・業務分担のようなものとは異なります。 物書同心は、若同心たちを指導・牽引し、奉行所の中核をなす存在だったのです。 なお「物書同心」に似た名称のものとして「年番書物方」や「吟味方書物(役)」などというものもありました。 こちらは実際の書記・記録係で、ほとんどが若手の若同心・見習同心たちでした(「」参照) 文政から嘉永ごろの町方与力同心の勤務歴を見ていると、本当に年功序列が徹底していることに改めて驚かされます。 一年目でいきなり筆頭与力になったわけです。 それもそのはず、鉄次郎はこのとき五十九歳。 安永四(1775)年に十九歳で見習与力となってから、じつに四十年の歳月が流れていました。 当時、鉄次郎より年長だったのは、壱番組支配与力の都筑兵右衛門・七十四歳と四番組支配与力の松浦弥二郎・六十八歳の二人だけでした。 他の二人の支配与力・嶋喜太郎(弐番組)と中島三右衛門(三番組)はいずれも五十二歳で、見習勤めに出たのも鉄次郎より後でした。 五番組次席与力の松原伴右衛門は四十五歳で鉄次郎より一回り以上も年下でしたから、長年老齢の父を補佐し、組内の世話役を事実上務めてきたであろう鉄次郎の支配役就任は当然のことだったのでしょう。 それにしても、親から子へ筆頭与力の座が直接受け継がれるケースはさすがに珍しかったと思います。 通常、親が与力を引退して、番代をすると、新米与力ですから、序列も下からのスタートとなるからです。 三田村鳶魚翁の最後の弟子といわれる故小川恭一氏によれば、旗本の事例ではありますが、嫡男が部屋住みのまま老衰死したケースもあるそうです。 体が動くうちは隠居をしたがらない武家の当主の姿が目に浮かびます。 老人が大切にされた時代。 親がいつまでも元気なのは喜ばしいことには違いありませんが、町方与力の場合、いつまでも親が現役にしがみついていると、子は見習から脱することができず、さぞかし悩ましかったことでしょう。 同心支配役を筆頭与力、支配与力とも称しました。 なお、組与力同心の「組」とは、南組北組というときの「組」と同じです。 北町奉行が遠山の金さんならば、北「組」の「頭(かしら)」は金さんで、ふつうは町奉行遠山左衛門尉組と称します。 その組与力同心を更に五つに分けたのが壱番から五番までの番組で、番組トップが支配(筆頭)与力ということになります。 どちらも「組」といいますから、注意が必要です。 (2018年2月9日加筆修正).

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