カウンター カルチャー と は。 ヒッピーとカウンターカルチャー j

カウンター・カルチャーが台頭した70年代に「プカプカ」を歌い継いだのは役者やダンサーが多かった|TAP the SONG|TAP the POP

カウンター カルチャー と は

いわゆるオタクと規制の問題は、繰り返し話題になり、しかもネタにしやすいので、またかと思われるかもしれないが今回もこのネタで書くことにする。 これから、今のオタク系のマンガやアニメなどは、世間から非難されるのが当然なのだという話をする。 それはなぜかというと、これらがカウンターカルチャーだからだ。 アニメやマンガがサブカルチャーだった時代はもう終わった。 これらが既にメインとして取り込まれてしまい、残りの部分が先鋭化してカウンターカルチャーとなっている。 サブカルチャーとカウンターカルチャーの違いは、漢字で「非」と「反」の違いだと言えばわかるだろうか。 一般人の価値観というものがもしあるとして、そこから外れているのがサブカルチャーで、それを否定するのがカウンターカルチャーである。 サブカルチャーが否定するのはあくまで、メインカルチャーが自分自身しか見ていないことに対してだ。 メインカルチャーもいいが、サブカルチャーもいいと主張する。 それに対してカウンターカルチャーは、メインカルチャー自体を劣った存在だとして、自分たちの方がそれより上だと主張する。 たとえば、テレビが主な情報源となっている一般の人を「情弱」「スイーツ」などと揶揄する人には、「自分たちはメインカルチャーより上だ」という意識がある。 ではなぜ自分の方が上なのか。 彼らが「テレビ以外見ないから」と答えるのがサブカルチャー的な意識で、「テレビなんかを見ているから」と答えるのがカウンターカルチャー的な意識だ。 前者はテレビを見ること自体は否定していないのに対して、後者はテレビを見ること自体を否定している。 サブカルチャーは、メインカルチャー自体を否定しているわけではないので、だんだんメインカルチャーに取り込まれていく。 今のドラマやハリウッド映画の多くがマンガ原作なのがいい例だ。 それに対して、カウンターカルチャーはメインとは相反するから、そこに取り込まれることはない。 さて、今のオタク系はサブカルチャーなのかカウンターカルチャーなのか。 これについてはメインカルチャーが持っているタブーを必要としているかどうかで見分けるといい。 サブカルチャーは、自分のやりたいことをやろうとするとたまたまタブーに引っかかる。 それに対して、カウンターカルチャーは最初からタブーに引っかかることを目的として活動する。 たとえば、ボーイズラブ系では、男同士の恋愛というのが「禁じられた関係」であること自体が背徳的でドキドキするというのであれば、それはカウンターカルチャー的要素を含む。 男性向けなら、「パンツを見せてはいけない」という暗黙の了解をわざと破ることに意味があるのであれば、それはカウンターカルチャーである。 それに対してサブカルチャーは、メインカルチャーのタブーそのものがない世界を作る。 たとえば中世ファンタジーもので女主人公が水浴びをするとき、ビキニやスクール水着できわどいポーズを連発するのはカウンターカルチャーで、当たり前のように全裸なのがサブカルチャーだ。 端的に言うと、カウンターカルチャーでは、本当に性描写を見たいわけではなく、単に放送コードに引っかかって自粛になりそうな表現を敢えてやる制作者を見たいだけなのだ。 だから、当たり前のように裸全開だとかえって萎えてしまって、「見えそうで見えないのがいい」などと言い出す。 エロものの二次創作や、ロリコンまがいのアニメ絵、レイプ描写や虐待描写なども、それが「いけないこと」だからこそ彼らにとっての意味が出てくる。 いいことだからやっているのではなく、いけないことだからやっているという、価値観の倒錯が起きている。 そう考えると、オタクが叩かれるのは当然のことだと言える。 オタクだから叩かれるのではなく、わざと叩かれるようなことをするのがオタクなのだ。 もし現状が叩かれなくなったら、彼らは叩かれるようになるまで過激な表現を目指すだろう。 彼らにとって、叩かれることこそがアイデンティティなのであり、叩かれないような場所ではつまらないのだ。 だから、「過激な性描写は子供に見えないところでやればいい」という意見は、正論だが問題の解決にはなっていない。 いや、より詳しく言うと、これが問題の解決になっていないということそのものが問題なのだ。 彼らにとっては、少年誌でそういうことをやるということに本当の意味があるのであり、そういう迷惑な人たちであるということが本当の問題なのだ。 サブカルチャーとカウンターカルチャーは、出始めの頃は外から見てもなかなか区別がつかない。 特に、メインカルチャーの価値観に凝り固まった人には。 そして、面白いことに、カウンターカルチャー側の人が一番メインカルチャーの価値観に凝り固まっている。 サブカルチャーもカウンターカルチャーも、出始めは同じように嫌悪され叩かれる。 しかし、前者は今の価値観を捨てて見れば「案外いけるかもな」と思えるのに対して、後者は「どう見てもこれはアカンやろ」としか思えない。 茶髪とガングロがいい例だ。 どちらも当初は「まともな人間のすることではない」と言われたが、前者はいつの間にか受容され、後者はすたれた。 カウンターカルチャー側の人は、メインカルチャーの価値観に凝り固まっているので、茶髪を「案外いけるかも」と思うことができない。 同じように「大人がダメだと言うことをやっている」としか見ることができないので、なんであっちが受容されてこっちはダメなのかが理解できない。 彼らは、「大人がダメだと言う=ダメ」という価値観しか持っていなくて、そこから抜け出そうともがいている最中なのだ。 サブカルチャーの構成員は、開放的で好奇心旺盛だ。 「来る者は拒まず」的な雰囲気があるが、反面気まぐれでまとまりがなく、すぐ別の面白いものに行ってしまって帰ってこなくなる。 それに対してカウンターカルチャーは閉鎖的、守旧的で規律正しく、そこから出ることは心理的 あるいは物理的 に簡単ではない。 これは、典型的なカウンターカルチャーであるヤンキー 不良少年 の集団を見ればわかるだろう。 彼らは案外まじめでまっすぐな人間だ、と評価されることがよくある。 まじめでまっすぐだからこそ、いい加減な世の中に反抗するのである。 サブカルチャーというのは、面白いものを体験するための手段である。 別にサブカルチャーではなくても面白いものはたくさんあるけれど、サブカルチャーにハマる人はたいてい気まぐれで、辛抱強くなく、一つのことにじっくり腰を落ちつけて取り組むのが苦手だ。 数か月の間は特定のことに普通の人より没頭しているように見えるが、数年のスパンで見ると、いつの間にか全然違うことをやっていたりする。 いろんなことに目移りしてしまうからだ。 だから、周囲の人がみな数十年レベルで取り組んでいる課題にはなじめず、まだ誰もやったことがなくて全員がスタートラインに並んでいるような課題を探し歩いている。 それに対してカウンターカルチャーは、それ自体が目的となっている。 その内容よりは、カウンターカルチャーのグループに属しているということ自体が重要なのだ。 一人でメインカルチャーに反抗していると、「もしかしたら間違っているのは自分自身なのではないか」という不安に直面する。 その不安を払しょくするために、仲間を必要とする。 「仲間を集めて世間に反抗する」というのが本当の目的で、カウンターカルチャーの内容はその旗印に過ぎない。 カウンターカルチャーの場合、内容は旗印に過ぎないから、記号化・儀式化されてしまう。 仲間内にだけわかる共通体験や共通の言葉をつくり、それを使うことで仲間を再確認することが目的なので、体験や言葉の意味はどうでもいい。 イベントも、それをイベントとして認識して集まるということが重要なのであって、そこで何をするかというのは重要ではない。 極端な話、イベントで集まって何もしないで即解散でもいいのだ。 サブカルチャーの人は、メインカルチャーから出ることを何とも思っていない。 それに対してカウンターカルチャーの人は、メインカルチャーを重要視しているが故に、そこから出たいけれども出るのが怖い。 そのため、仲間を集めて一緒に出ようとしている。 カウンターカルチャーはメインカルチャーと「戦う」存在だ。 彼らはメインカルチャーを攻撃し批判すると同時に、尊敬し大きな存在だと考えている。 逆に言うと、彼らはメインカルチャーを大きな存在だと思っているからこそ、それと戦う価値を見出すのだ。 ただ、一つ問題なのは、彼らが「メインカルチャー」だと思っているものは本当の意味でのメインカルチャーではないということだ。 彼らは、自分が戦っている相手を「テレビ」だと思っている。 もっと詳しく言うと、、80年代から90年代にかけてテレビがつくり上げた、バラエティ番組とトレンディドラマの世界だ。 実はこれが間違いで、テレビはメインカルチャーではなく、サブカルチャーなのだ。 テレビが80年代にのし上がった経緯を見れば、テレビこそがサブカルチャーであって、メインカルチャーと戦った存在であるということがわかる。 ドリフターズもたけしもさんまもタモリもとんねるずも紳助も、当時のメインカルチャーの批判の対象だった。 彼らはあくまで「娯楽の王様」を名乗るだけで、「教養の王様」であるとは自分自身思っていない。 テレビの本質は、一億総白痴化と呼ばれていた頃から変わっていない。 本当のメインカルチャーは、自分たちを「偉い」と思っている。 毎朝新聞を見て、テレビはNHKスペシャルとN響アワーくらいしか見ず、岩波文庫を愛読するようなのがメインカルチャーなのだ。 自分を「偉い」と思っているから、他のカルチャーを低俗だとかバカだとか批判できるわけである。 最近では、ネット系がメインカルチャーの座を目指している。 その内容の巧拙は問題ではなく、自ら「新しい知」を標榜したり「知の何とか」を論ずるということが、メインカルチャーを目指しているということなのだ。 サブカルチャー全盛の時代になって、メインカルチャーですらサブカルチャーの一つと位置づけられるようになってしまった。 自他ともに認める「格が違うカルチャー」がなくなって、どれが偉いとかどれが下らないとかいう評価がされなくなってしまった。 あえて言えば、下らないのも含めていろんなカルチャーに幅広く接することが重要だと思われるようになった。 「メインカルチャーがなくなった」という理解そのものがメインカルチャーになったのである。 テレビは下品で低俗で幼稚な代物で、そんなものに勝ったとしてもまったく威張れるようなものじゃないということは、テレビ番組の作り手も含めて皆よくわかっている。 そんなものを仮想敵にしているのだから、「こんなテレビにまじになっちゃってどうするの」と思われてしまう。 サブカルチャー全盛になる前を知っている人たちは、「低俗でもいいじゃないか」と言う。 しかし、本当の意味でのメインカルチャーを知らない人、「高尚」なカルチャーを知らない人は、そもそも「低俗」という概念を理解できないので、「低俗でもいいじゃないか」の本当の意味を理解できない。 さて、そろそろまとめよう。 オタク系カウンターカルチャーは、世間から非難されるような表現を目指す。 だから、その内容が世間から非難されるのは必然だ。 彼らは、世間から非難されるということ自体を一種の旗印として、そこに集まってくる。 しかし、世間が他人を「非難」しないようになってしまった。 以前は、大学生にもなってマンガを読んでいるだけであれこれ言われたものだ。 昔は、いい大人がアニメを見るということ自体が「反抗」だった。 ガンダムガンダムと言っているだけで反抗だったのだ。 それが、今ではちょっとやそっとじゃ反抗にならなくなってしまっている。 それで、他人が「こりゃダメだろ」と言いたくなるような表現を求めて暴走を始めた。 彼らは過激な性描写を求めるが、実は内容なんてどうでもいい。 エロい単語を言って親が困惑するのを見たいだけなのだ。 批判に対して「ははは、わかってないなぁ」と言いたいだけなのだ。 だから逆に、親が困惑したり批判したりしないと成り立たないのである。 と、ここまで話をすると、カウンターカルチャーとしてのアニメには、実は自分自身のために規制が必要なのではないかと思い当たる。 実際、セルDVDという規制の緩い場所が既にあるのに、そっちはあまり流行らない。 サブカルチャーの人は自分たちだけで細々とやっていれば満足するのだが、カウンターカルチャーの人はメインカルチャー たとえばテレビ を巻き込まないと気が済まない。 最近、地方自治体が萌えアニメに乗っかっていろいろやろうとしている。 何せ、萌えキャラさえつけておけば中身は何にもなくても人が集まるのだから、これほど楽なことはない。 しかし、彼らもバカじゃない。 自治体が大々的にやればやるほど、かえって白けてしまってブームはしぼむだろう。 彼らは、自分たちの仲間が主催するイベントには集まるが、仲間でない奴が金儲けのために開くイベントには行かないのだ。 今はまだ「公的機関ですら僕らの仲間だ」と勘違いしているが、本当は自分たちは金儲けのネタでしかないということに気付いたとき、そいつらと決別して自分たちでイベントを開く力が残っていなかったら、そこでもうおしまいだ。 イベントの主催を人任せにしていると、自分たちではできなくなってしまう。 カウンターカルチャーに対して公的な支援をするのは、彼らの存在意義を潰す愚行だ。 カウンターカルチャーの旗手である誰かさんはそれをよく知っていて、暴走し瓦解しかけている現状をうまくまとめる策を考えたのではないかと深読みしてしまう。 公的な立場で考えれば、自分たちのイベントが失敗しても、その裏で彼ら自身が興したイベントが大成功すれば、その方が良かったのだと言える。 さて、今までの話の真偽はともかく、カウンターカルチャーに対して言えることがある。 カウンターカルチャーは、大人なんかに頼らず、自分たちでつくり運営する必要がある。 お前らを利用し食い物にしようと狙っている大人がいるから気を付けて、その手に乗らないようにしろ。 それから、大人になってもまだそこに居座っているのはただのバカだ。 早く卒業して、叩く側に回ってやれ。

次の

カウンターカルチャーとは?わかりやすく意味と例をまとめたよ│アメリカ info

カウンター カルチャー と は

大きな圧力に屈することなく、反抗する。 なんだか物騒な言葉ですが。 これまでの歴史を振り返ってみると、「世界が変わった」といえる出来事はいつでも、このような人の勇気ある行動が背景にあるような気がします。 この意識が風潮した時代があります。 それは、主にアメリカの1960年代。 既存の文化や体制を力強く否定し、独自の文化を生み出していく姿勢を指します。 その代名詞となったのが、ヒッピーたちです。 彼らは、時代と比例して進行していく消費社会や、利益を裏腹に展開される戦争に対して、自ら服を脱ぎ、平和を謳い、ライフスタイルをもってそれを体現したのです。 このアメリカが持つ1960年代は、のちの半世紀を築き上げる礎となったといわれることもあります。 今でこそ、若者を中心とした群衆が集まり、一つのことに対して、時に暴力的に抗うようなことは滅多にありませんが。 この時代は、ほぼ日中で運動が盛んであったということです。 第二次世界大戦後になお、行われることになったベトナム戦争や、人種差別。 この時代背景に、人たちはあらゆるやり方で動いたのです。 畑違いと思われるIT業界にも、このカルチャーは影響を与えました。 スティーブジョブズや、GOOGLE元会長であるエリックシュミットも、この激動の時代を青春し、自らの製品のヒントを得たということです。 カウンターカルチャーとは、いったいなんなのか。 その象徴となった事件を幾つか、ご紹介します。 【1】ヒッピーの神様、ティモシーリアリーがリード大学で吠える 「TURN ON, TUNE IN, DROP OUT. (スイッチを点けて、波長を合わせろ。 そうしたら、全てを変えてしまえ。 あらゆる方法で、その一生涯を脳の覚醒を追求することに費やしたティモシーリアリー。 彼は、最高学位であるハーバード大学で教鞭を取る一方で、好奇心に従い、薬物を使ってまで研究に夢中になり、やがて国から追われるようになってしまいます。 そんな彼が、リード大学の食堂で胡座を掻きながら、放ったこの言葉は、多くの人たちにその解釈と共に語り継がれていくこととなります。 ちなみに、このポートランドに所在するリード大学は、あのスティーブジョブズが半年で退学したことでも有名です。 【2】「私には夢がある。 」キング牧師が人種差別を終結宣言 1963年にワシントン大行進で、キング牧師が演説した一言一句は人類の歴史に、かけがえなのない存在感を残しています。 人種差別はさまざまな側面は持つものの、この時代は本当に酷かったといいます。 バスで席を譲らないだけで逮捕されてしまったり、リンチされるなんてことはしょっちゅうでした。 彼の宣言は、世界中の人たちに希望を与えました。 彼は、この演説から6年後に暗殺されてしまいます。 【3】ジミヘンドリックは、ベトナム戦争をギター一本で表現した ジャニス・ジョプリン、スライ&ザ・ファミリーストーン、サンタナ、グレイトフルデッド。 ピンと来ない人の方が多いかもしれませんが、音楽が平和の象徴となっていた時代としては、ヒーロー勢揃いの舞台といえば、ウッドストックフェスティバル。 3日間行われたこのフェスは、カウンターカルチャーを象徴する歴史的なイベントとして語り継がれることになりました。 その中でも、ギターの名手として名高い、ジミヘンドリックスが自身の体験を基に、ベトナム戦争の悲鳴や銃声をギターで表現したアメリカ国歌は、音楽界だけでなく、世界を震界させることになりました。 【4】アメリカ大陸を駆け巡る危険なバス、メリープランクスターズ号の旅 1962年に大ヒットした小説「カッコーの巣の上で」の作者でもあるケンキージーが、翌々年にヒッピーコミューン「メリープランクスターズ」を引き連れて、サイケデリックな塗装のバス「FUTUR」号に乗り込み、全米の若者を覚醒させる旅に出ました。 特殊なスピーカーで音を発し、強力な照明商材を詰め込み。 危険なバスとして、さまざまな方面で話題になりました。 ビートルズの楽曲「マジカル・ミステリー・ツアー」のモデルともなりました。 【5】「希望がなければ。 」サンフランシスコ初のゲイ公職、ハーヴェイミルクの当選 サンフランシスコには、同性愛者が何の躊躇いもなく、オープンに自分をさらけ出すことができる。 カストロ地区があります。 ハーヴェイミルクは、この地区のヒーローです。 彼は、アメリカで初めて自身がゲイであることを公言した上で当選を果たした、初めての公職者でした。 彼は議員に就任して、1年も満たないうちに暗殺されてしまいます。 彼の遺言ともされている、誰もがマイノリティのことを考えて、希望を与えながら生きていかなければならないといったスピーチの内容は、20世紀後半に乗り越えた人類の歴史を物語っているようで、感動的です。 【6】20世紀最大の政治スキャンダル、ウォーターゲート事件 ワシントンD. の民主党本部で起きた盗聴侵入事件を契機に始まり、ニクソン大統領の不正をメディアや民衆が弾劾することによって、辞任するに至ったアメリカの政治史に残る事件となりました。 これは、ニクソン政権が民主党の動きを察知するために、盗聴をしたことに始まり、この事件を調査する機関を設けるものの、政権自らが解任を命じるといった。 明らかに権力で動く政治に対して、世論の猛反発を喰らい、辞任まで追い込まれてしまいました。 【7】アラスカで発見された若すぎる青年の死、最後のカウンターカルチャー 1992年に、アラスカで一人の青年が餓死している状態で発見されました。 彼の名は、クリス・マッキャンドレス。 映画「イントゥ・ザ・ワイルド」の主人公であり、実在する人物です。 彼は、豊かな家庭に生まれて、将来を約束された人生を過ごします。 しかし、あまりに金や物ばかりに執着してしまう両親の姿に嫌気が指し、全てを投げ捨てて、放浪の旅に出ます。 彼は、死ぬまで、この旅を続けることになってしまのですが、道中多くの人たちに出会います。 彼の死後、一人のジャーナリストが、聞き込みの末に書き上げた本。 そして、それを映画化した作品は、社会に抗った一人の青年のメッセージとして、多くの人たちの心を動かすことになりました。 なんでもかんでも反対するというわけではないのですが、アメリカ人が直接ものを言うというイメージが強いのは、こうした思ったことを言わないと、のちのちとんでもないことになりかねないという歴史が悟っているからなのかもしれません。 カウンターカルチャーは、時に暴力的で、やり過ぎている面もあります。 しかし、こうした勇気を持った人がメッセージを投げつけることができるのがアメリカです。 そして、どんな人であっても、努力をすれば夢を叶えることができる。 それが、カウンターカルチャーが生んだアメリカンドリームなのです。 テクノロジーやスタートアップを軸に、ライター業務に従事。 同時に、シリコンバレーの起業家へインタビューするYoutubeチャンネル「シリコンバレーのFREERIDER」を運営。

次の

【社会解説】カウンター・カルチャー1960s

カウンター カルチャー と は

あくまでカウンターカルチャーが終焉したという前提ですが(まだ終焉していないという意見もありますので)大衆文化に取り込まれてもはや古典に対する対抗という意義がなくなった為でしょう。 ロックを例に出すと50年代位に「反抗の音楽」としてロックンロールが出て来た訳ですが60年代から70年代半ばまでは独特の深み、或いは混乱を経てロックカルチャーと言っても良いものを作り出しました。 これは当時のロックカルチャーと若者の生き方みたいなものが密接な関係にあったということです。 ラブ&ピース、ドラック、精神の深層の探求など良くも悪くもそれは彼らの信条と成り得たのです。 ところがやがてそれは内部崩壊していくのです。 それは混乱や陶酔を常態として生きることは人間には酷だからです。 例えるならウッドストックなどが「愛と平和の祭典」であったとしてもその会場に一か月も居れば精神が疲弊します。 それと同じようなことがロックカルチャーでも起こりました。 実際多くのヒッピー達は元居た教会に帰りましたし、残った者達ももはやヒッピーであり続けることは困難でした。 ここにトドメを刺したのがパンクムーブメントです。 パンクロッカー達は楽器は上手く弾けなかったが日々の不満を投げつける様に歌いました。 これが60年代のロックカルチャーの終焉でした。 端的に言えば幻想が終わったということです。

次の