鳴かぬなら殺してしまえホトトギス。 なぜ “ホトトギス” ? 漢字多すぎ ! 「鳴かぬなら〜ホトトギスの句」がおもしろい

乗らぬなら乗せに行こうぜホトトギス

鳴かぬなら殺してしまえホトトギス

ネット検索にて放送された番組を調査。 フジテレビ「さまぁ~ずの神ギ問」2017. 11 19時~(一部地域を除く)で「誰しもが聞いたことがある信長・秀吉・家康のホトトギスの句、誰が考えた?」というテーマで放送されていたことがわかった。 同番組公式 Twitter にて確認したが、タイトルのみで内容は書かれておらず不明。 ただし視聴者と思われる複数の人のブログ等に今までは「甲子夜話」と言われていたが「耳嚢」の方が最初であると放送されたと記されていた。 そこでまず国史大辞典で「ホトトギス」「織田信長」「豊臣秀吉」「徳川家康」の各項を引いたが記載なし。 さらに川柳の辞典を調査。 573 「織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三将に思ひ思ひの句に詠まれたと云う時鳥。 信長は「鳴かずんば殺してしまへホトトギス」と詠み、秀吉は「鳴かずんば鳴かせて見せうホトトギス」と詠み家康は「鳴かずんば鳴くまで待たうホトトギス」と詠んだと傳へられる。 」 出典等の記載なし。 仮名遣いの差異大きいが、現代に伝わるものと同じ表現している。 浜田義一郎編.江戸川柳辞典 1968 東京堂出版 「ほととぎす」の項 p. 426 「三将で思ひ思ひの時鳥」の鑑賞の項で「信長、秀吉、家康の三将の性格気質を、時鳥の句であらわした「鳴かぬなら殺してしまへホトトギス」「鳴かぬなら鳴かせてみせうホトトギス」「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」を題材としたもの」とあるだけで出典等の記載なし。 やはり仮名遣いに若干の差異があるが、ほぼ川柳大辞典と同じ表現となっている。 731 「織田信長、豊臣秀吉、徳川家康らの三将に思い思いの句に詠まれた時鳥。 信長は「鳴かずんば殺してしまへホトトギス」、秀吉は「鳴かずんば鳴かせて見せうホトトギス」、家康は「鳴かずんば鳴くまで待たうホトトギス」と詠んだと伝られる。 勿論この逸話は虚説である。 」 ぼぼ大曲編「川柳大辞典」の表現を写したような酷似した表記であり、句の仮名遣い表記も変わらない。 同じく句の出典等の記載なし。 さらに原典をあたる。 耳嚢 八之巻 (日本庶民生活史料集成16 奇談・紀聞 1970 三一書房)p541-542 (底本・日本芸林叢書所収本) 連歌其心自然に顯はるゝ事 (前略)いまだ郭公を聞ずとの物語出けるに、信長、 鳴ずんば殺して仕まへ時鳥 と、ありしに秀吉、 啼かずとも啼せて聞ふ時鳥 と、有りしに、 なかぬなら啼時聞ふ時鳥 とあそばされしは神君の由。 (後略) 耳袋 八の巻 (東洋文庫208 耳袋2 1972 平凡社)p198-199 (底本・日本庶民生活史料集成16) 連歌その心自然に顕はるゝ事 (前略)いまだ郭公を聞かずとの物語いでけるに、信長、 鳴ずんば殺してしまえ時鳥 と、ありしに秀吉、 なかずともなかせて聞こう時鳥 と、有りしに、 なかぬならなく時聞こう時鳥 と遊はされしは神君の由。 (後略) 耳嚢 八之巻 (岩波文庫 耳嚢 下 1991 岩波書店)p134-135 (底本・カリフォルニア大学バークレー校東アジア図書館旧三井文庫本所蔵本) 連歌其心自然に顕はるゝ事 古物語にあるや、また人の作る事や知らざれど、信長、秀吉、乍恐神君御参会之時、卯月の頃、未だ郭公を不聞との物語出けるに、信長、 鳴ずんば殺して仕まへ郭公 と、ありしに、秀吉、 鳴かずとも啼せて聞ふほとゝぎす と、有りしに、 鳴ぬなら鳴時きかふ時鳥 と遊はされしは神詠のよし。 自然と其御徳化の温純なる、また残忍・広量なる所、其自然を顕はしたるか。 (後略) 甲子夜話 三十五巻八 (東洋文庫333 甲子夜話四 1978 平凡社)p. 57-58 夜話のとき或人の云けるは、人の仮托に出る者ならんが、其人の情実に能く協へりとなん。 郭公を贈り参せし人あり。 されども鳴かざりければ、 なかぬなら殺してしまへ時鳥 織田右府 鳴かずともなかして見せふ杜鵑 豊太閤 なかぬなら鳴くまで待よ郭公 大権現様 (後略) 日本庶民生活史料集成16の底本は転写本でした。 「耳嚢」自体公刊されたものではなく、著者の根岸鎮衛の自筆本は見つかっていません。 残されたものは写本、転写本でありいずれも複数存在し、写されることが原因と思われる文章表現、漢字表記の振れが発生じています。 また岩波文庫の「耳嚢」該当の項に註があり、「甲子夜話」「百草露」にも三句が載っているとしています。 「三将で思ひ思ひの時鳥」の句は誹風柳多留53篇に掲載され、これが編まれたのが1808 文化8 年で、耳嚢に書かれた頃のやや後になります。 甲子夜話の著者松浦静山が、耳嚢を読んだという記録は見つかりませんでした。 誹風柳多留の川柳が作られた世相などから推定すると、その三句は巷間にもそれなりに流布していたと思われます。 松浦静山が参照していなくても、それを別途耳にしていた可能性はあると思われます。 「耳嚢」は「古物語」の引用として、三句の作者はそれぞれ織田信長、豊臣秀吉、徳川家康としていますが、そうではないことが有力の様です。 新編川柳大辞典では三将が詠んだとするのは誤りと指摘していますが、根拠の記載はありません。 ネット上では松浦静山の作としているものもありますが、それは明らかに間違いです。 参考 百草露 巻九 (日本随筆大成第3期11 1977 吉川弘文館)p. 243 (前略) 河内ノ国上ノ太子南林寺の什物後水尾院瓢箪の御自画御賛、 世の中は兎にも角にもなるひさごかるき身のこそ楽みはあれ なかぬならころしてしまへほとゝぎす 鳴ぬならなかして見せふ時鳥 なかぬなら鳴まで待ふほとゝぎす 右信長、秀吉、神君、三将の人となりを深く考へ弁ふべし。 事前調査事項 Preliminary research.

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ホトトギス3つの俳句『鳴かぬなら~』個性がおもしろい!戦国三武将の業績や性格の象徴!

鳴かぬなら殺してしまえホトトギス

なぜこのように詠われたのか、解説します。 織田信長の性格とエピソード 織田信長の業績 織田信長は 既存の概念に捉われず、新しい物好き です。 斬新な発想を、信長の独断で行動を起こし、 行政から軍事まで革新的な改革をしています。 能力があれば身分は関係ない。 織田信長は、 肩書き等、関係なく戦に強い、戦略がずば抜けているなど、能力が高ければ重臣に採用もします。 明智光秀や豊臣秀吉も織田信長と血縁も関係なよその者ですが、能力が高かった為、地位を与えられています。 経済改革に取り組む 織田信長は、 街道を整備して、一定の間隔で茶屋や休憩所を設置しました。 それにより、戦で長い距離を移動しやすくなるので兵力が落ちません。 また商人達も移動しやすく 商業も活性化します。 貨幣を統一し、更に城下内で、自由取引する場所 【楽市楽座】を実施したおかげで商業が発展します。 そして 通行税も廃止したので物品の流れが良くなり、税収入が大幅に増え、織田信長は 財政が豊かになります。 徴兵制度を改める 織田信長の軍隊が数が多くなり強くなり、天下統一まであと少しの所まできました。 その理由は、 【兵農分離】を行い、戦力が上がった為です。 兵農分離は農民は税を納める為、農作物や米を作ることに専念し、軍兵は戦にだけ集中するという政策を行います。 そうすることにより、 経済は安定し、戦にかかる費用や鉄砲などの新しい武器や防具の調達できます。 軍兵も戦が無い時には武力を学びレベルが上がります。 このように、織田信長は 概念に捉われない発想と行動力で、経済政策や軍事制度を改革 していきました。 こうして兵力を拡大し強くしていったので天下統一まで少しのところまできました。 織田信長の性格が残忍と言われた理由 比叡山の焼き討ち 織田信長は、 自分に逆らう物、裏切る者は徹底的に攻め、殺してしまいます。 残忍なエピソードで有名なのが 比叡山の焼き討ちです。 比叡山は、信長と対立していた浅井・朝倉連合軍をかくまりかばい続けたことがきっかけで比叡山の焼き討ちが起こります。 そして、織田信長は寺や霊社等全てを焼き払って比叡山が1日で灰になったと言われています。 浅井・朝倉の軍や僧侶以外の老若男女問わず全員を惨殺していきます。 「悪い僧侶だけを殺して私は助けてくれ」とお願いした高僧らの声も無視し、高僧らの首を討ち落としたとあります。 「比叡山の山麓には数千の屍があふれ、この世のものとは思えない光景で哀れだ」といった言葉があり、 これは比叡山の焼き討ちがいかに残忍で悲惨だったかが表わしています。 その他にも残忍な戦いがいくつもある 織田軍はとにかく、兵の数もおおく、武力も備わっています。 長島一向一揆攻めも、長島一向一揆勢は降伏をしましたが、やはり織田信長は許さずに、1000人を切り殺し、2000人を焼き殺すという悲惨な殺し方をします。 越前一揆勢は山に逃げ込みますが、誰一人男女問わず殺戮せよと命じ、隅から隅まで全員みつけて殺害します。 天正伊賀の乱や荒木一党惨殺も、信長の指示に背いたり逆らった者のいる場所の子供から老人、男女問わず全ての人々を殺戮します。 こうして、 信長の命令に背いたり、逆らった者はどんなに降伏しても許さず、敵の勢力は子供でも誰でも残忍に殺していきます。 なぜこのように詠われたのか解説します。 豊臣秀吉の性格とエピソード 豊臣秀吉の政策 豊臣秀吉は、 織田信長が政策はほぼ受け継ぎます。 豊臣秀吉が行ったのは、 【太閤検地】という 全国の検地で尺の統一を行います。 そして全国の税制を 石高に統一しました。 豊臣秀吉の時代の年貢は農民にとって過酷な二公一民(収穫の3分の2が年貢)とされていた為、農民が一揆を起こさないように 【刀狩り】をしました。 豊臣秀吉の性格や戦い方 豊臣秀吉は 「人たらし」 と言われ、 人を惹き付ける魅力があり、織田信長にも気に入られ、 農民の身分から天下統一する武将にまで昇っていきました。 農民から這い上がった豊臣秀吉の戦い方は 「戦わないで勝つのが最善」 という考えです。 兵の中には多くの農民が戦に出て亡くなってしまいます。 秀吉自身も戦により、貧困になったり命が危うくなったこともあった為、人が死なないように、無駄な戦いをしないように努めます。 また秀吉は 「斬るのが嫌い」 と刀で斬るのを嫌っていた為、敵を人質を取ったり、敵軍と政略結婚をさせたりと戦を回避するようにしたり、戦では、兵糧断ち作戦や秀吉の条件通りに降伏をさせていました。 なぜ、このように詠われたのかを解説します。 徳川家康の性格とエピソード 徳川家康の政策や戦い方 徳川家康は、豊臣秀吉の天下統一した 財はそのまま受け継ぎます。 そして、 政策も織田信長と豊臣秀吉の良い政策だけ引継ぎ、同じ失敗を犯さないようにします。 まず、徳川家康は 信頼を置いている家臣を居城である江戸城の近くの土地を渡し住まわせていきます。 逆に従わない者、信頼出来ない者は地方に飛ばし領地を与えます。 そしてこの 各諸大名が力を増す事がないように、土木工事などの普請をさせます。 裏切り行為がないようにと 秀吉の政策を真似て諸大名の妻子を江戸城下町に住まわせます。 家康は重臣の妻子までも住まわせ、下剋上対策をします。 豊臣秀頼が率いる巨大勢力は、いつ害が及ぶか解らないので、家康が70歳過ぎて力が残っているうちに 大阪の陣 で滅ぼします。 これにより、不安材料が無くなり江戸幕府が260年も続いたと言われています。 徳川家康は 農本思想です。 農本思想というのは、 食糧の確保は重要であり農業の保護を重視する政治のことです。 このことにより、農民から一揆が起こることもなく、諸大名達からの下剋上も無くします。 これにより 徳川家康が天下統一すると、戦いが亡くなり、戦国時代が終わった のです。 徳川家康が天下を取るまで 織田信長が亡くなった後、 豊臣秀吉が先に明智軍を倒した為、豊臣秀吉が天下統一を成し遂げました。 徳川家康は野戦においては、1敗した以外全て勝利していますので、とても強い武将です。 豊臣秀吉が天下人になっている間に攻めても勝っていたかもしれませんが、家康は天下とる為といっても、 攻めることはしませんでした。 とにかく、 天下を取れる時期がくるのを待ちつづけ、豊臣秀吉が亡くなったら、そこから戦わずして天下統一を成し遂げます。 その様子から.

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『甲子夜話』「鳴かぬなら殺してしまえ ホトトギス」の出典

鳴かぬなら殺してしまえホトトギス

鳴くまで待とうホトトギス 格言解説 「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」徳川家康 「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」織田信長 「鳴かぬなら 鳴かせてみせよう ホトトギス」豊臣秀吉 これは戦国武将の性格を表現した歌で皆さんもよくご存知だと思います。 「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」は機が熟するまで辛抱強く待つと云う意味で、家康の忍耐力の強さを巧く表現していますね。 株式投資でも待つと云う忍耐力は、重要な要素の一つと言えるでしょう。 ただ、短期投資のつもりで買った株が値下がりし、損切りもできずに、これは長期投資だと開き直ると云う意味ではありません。 短期の時間軸で買った場合、逆に動いたら「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」を徹底しなければ理屈に合いません。 「鳴かぬなら 鳴かせてみせよう ホトトギス」はどうなんでしょうね。 村上ファンドぐらいの資金力があればそれも可能でしょうが、個人でマーケットを鳴かせる程の資金を持っている人は稀でしょう。 逆に泣かされるのがおちです。 ちなみに松下幸之助は「鳴かぬなら それもまたよし ホトトギス」と答えたそうです。 なかなか奥が深いですね。 類似格言 反対格言 TOPに戻る.

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