仁義 なき 戦い 広島 死闘 篇。 “仁義”のその後の潮流を生みだした孤高の伝説キャラ “大友勝利”!|仁義なき戦い 広島死闘篇

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仁義 なき 戦い 広島 死闘 篇

この記事を読むのに必要な時間は約 15 分です。 はい、今日はこちら。 出典:goo. 監督 深作欣二 脚本 笠原和夫 主演 菅原文太 北王子欣也 千葉真一 日本映画史上燦然と輝く名作です。 仁義なき戦いシリーズは、映画好きの人に評価が高いですが、 この広島死闘篇が最も名作だと言う人も多いのです。 まだ、この映画を見た事がない人に、面白そう! これは見たい! と思っていただける様にあらすじを解説したいと思います。 というか、かなりの部分書いていますので、 ネタバレはあります。 そして、この映画の有名なラストシーンを解説します。 まだ、見ていない人は、 当然ラストを知らずに見た方が面白いに決まっているので、 ラストの解説を読む前に、本編を見る様にしてくださいね。 仁義なき戦い広島死闘篇あらすじとラスト 広島死闘篇あらすじ まずこの広島死闘篇の予告を見ていただきましょう。 この映画は主演が菅原文太ですが、菅原文太は余り出てきません(笑) この映画の本当の主役は北王子欣也と千葉真一です。 この映画は本編の仁義なき戦いの外伝的な作品になります。 本編は広島の呉市で起こった抗争を描いているんですが、 この映画は広島の中心地、広島市で起こった抗争の話なのです。 なので、菅原文太はちょっとだけ出てくるのですが、 広島市の抗争事件と関係ないので、殆ど出番がありません。 山中正治と大友勝利 戦後広島に2組の暴力団組織が広島の闇市を仕切っていた。 村岡常夫を頂点とする村岡組と、大友長次を頂点とする大友連合会。 大友連合会会長、大友長次 出典:goo. そんな村岡組と大友組の縄張りのマーケットに1人の男が現れます。 戦後すぐ、傷害事件を起こし服役していて、 出所したばかりの山中正治です。 出典:goo. 出典:goo. 千葉真一が演じる大友勝利 出典:goo. 必死に止める靖子だったが、やられてそのまま黙っている山中ではない。 「殺さんかい!おおっ!おどれらの顔はよー覚えちょるけん!ワシを生かしちょったら、後で1匹ずつぶち殺しちゃるんどー!」 出典:goo. 山中が勝利に殺されると思ったその時、 勝利の父親の大友長次と、村岡組の若い者が駆けつけた。 出典:goo. ボロボロになった山中を靖子は自分の家に連れて帰って看病した。 靖子の夫は戦争で亡くなった軍人だった。 夫との間には1人の小さな女の子がいた。 山中はそんな靖子の家に居候していた。 怪我人とは言え、戦争で死んだ人は神様という考え方がその当時はあり、 そんな人の未亡人の家に若い男を置いておくわけにはいかず、 村岡組の者達は山中を引き取った。 山中、村岡組の組員になる 傷が癒えた山中は村岡組で極道になりたいと申し出る。 あの日、山中をボコボコにした勝利達を全員殺してやりたいと村岡に言う。 村岡は、そんな勝手な喧嘩は許さないが、その心意気は良しという事で、 喧嘩で壊された山中の時計の代わりに、 自分がはめていた高級な腕時計を山中に渡した。 「えぇ男になれよ」 出典:goo. 出典:goo. すっかり村岡組の一員となった山中だったが、 やがて靖子と再会し、山中は靖子と恋仲になってしまいます。 しかし、これを聞いた村岡が激怒した。 靖子の家に山中が上がり込んでいる事を知った村岡が怒り狂い、 山中を殺すと言って日本刀を持ち出して探しているというのです。 山中は松永の手引きで旅に出た。 山中旅で実績を作る 旅とは、事件などのほとぼりが冷めるまで、 他府県に身体をかわす事です。 他の県にある村岡組の友好団体に身を寄せる事になるのです。 迎え入れる組は、山中の面倒を見ます。 食事や寝る場所を提供し、小遣いも渡さないといけません。 しかし、世話になる者も、その組に喧嘩などがあった場合、 助っ人として戦わなければいけないのです。 これを一宿一飯の恩義と言い、ヤクザの世界の決まりごとです。 山中は世話になった組で見事な働きをして、 その事が業界内で噂になりました。 出典:goo. やがて山中は広島へ帰参が許され、 正式に村岡の盃を貰い、村岡組の一員となったのです。 村岡組VS大友組 村岡組は競輪場の警備を担当して、とても潤っていた。 それに不満を持ったのが大友勝利です。 村岡組は博徒で、博打が本業。 大友連合会は的屋が本業。 的屋とは縁日や夜店の屋台で商いをする稼業人の事です。 競輪は博打なので、大友連合会とは関係ないという考え方が、 大友長次にあった為、競輪場の利権を村岡組が全て取っていた。 しかし、勝利はそんな父親に反旗をひるがえす。 出典:goo. しかし、勝利は全く気にしない。 勝利は村岡の舎弟の時守勘一(博徒)を抱き込み、 時守の跡目を継いで博徒大友組を結成し、 村岡組と対決する為に、村岡の命を狙う。 村岡組対大友組の殺し合いが始まったのです。 勝利は村岡組に殴りこみをかけるが、村岡の暗殺には失敗した。 山中幸せの絶頂から地獄へ その頃、山中は村岡から靖子との交際を認められて、 この世の春を謳歌していた。 あれだけ反対していた、山中と靖子の交際を村岡は認めたのです。 「お互い好きおうてるんじゃったら」 とうい事で、それまで一切会ってなかった靖子に山中を引き合わせたのです。 2人は一緒に暮らすようになります。 山中は人生の絶頂を味わったのです。 しかし、今は組の一大事の時です。 親分の命を狙われて、黙っていられる筈がありません。 出典:goo. 3人の配下が村岡組への攻撃の準備をしているという情報が入ります。 山中はそのアジトに行き3人を殺害した。 出典:goo. 幸せを掴んだと思った山中だったのですが、 刑務所に逆戻りしてしまいます。 またあの刑務所の屈辱の日々が始まるのです。 しばらくすると、刑務所で村岡の舎弟の高梨と一緒になります。 その時に、高梨から思いも寄らない話を聞く事になります。 出典:goo. お前に3人殺させたのも、刑務所に送り込んで靖子との仲を裂く為だと。 山中は愕然とします。 山中には前科もあります。 3人殺しているのであれば、もう2度と靖子に会う事も出来ないだろう。 山中は高梨の言葉を確かめる為に、刑務所を出る事を決意します。 厳重な警備の刑務所です、簡単に脱獄などは出来ません。 山中はとんでもない方法で、刑務所を出たのです。 広島市死闘篇を見る ラストシーンを知る前にこの映画を見たい方は、 U-NEXTの無料お試しを使うとすぐに見る事が出来ます。 お支払い情報の登録は必要ですが、 無料期間のみの使用も可能です。 ラストシーン、壮絶な結末 山中には帰る場所は無かった。 刑務所の中しか。 大勢の命を奪った山中に待っている運命は、 死刑台しかありません。 取り返しの付かない事をしてしまった山中は、 やがて一軒の空き家にたどり着きます。 外では警察が山中を必死で探しています。 ひどく疲れていた山中は、その空き家でしばらく眠ります。 目を覚ました山中は拳銃を取り出します。 そして山中がいつも吹いていた予科練の歌の口笛を吹きます。 その音はかすれ、物悲しく響きます。 やがて山中は拳銃の銃口を口で咥えます。 出典:goo. 村岡組では山中の葬儀が行われた。 自らケジメをつけて自決した山中は極道の鏡だと皆んなが褒め称える。 警察と撃ち合いをする事なく、1人も死ぬ事はなかった。 良かった、良かったと喜んでいる村岡や、葬儀に出席した有力者達を見て、 そこにいた広能(菅原文太)は何ともやり切れない思いになるのだった。 そして、広島極道の典型と語られる山中の墓に訪れる者は今はいない。 という寂しい終わり方をします。 最後に この山中は実在の人物です。 本物の人物は口に銃を咥えて自決したのではなく、 こめかみを撃ち抜いて死にました。 脚本では実在の人物を忠実に再現する為に、 こめかみを撃ち抜くとなっていたのですが、 監督の深作欣二が変更したのです。 こめかみを撃ち抜くよりも、この死に方の方が良かったと私は思いました。 インパクトがありますからね。 この映画のエピソードはかなり本当にあった事を描いています。 例えば劇中で山中が人を撃った時に吹く口笛のエピソードは、 当時の共政会2代目の服部武氏に会いに行って、 直接聞いたエピソードです。 また、梶芽衣子が演じた靖子も実在の人物です。 実在の靖子は別の人と再婚したそうです。 この解説では山中が刑務所を出る為に行った事と、 千葉真一が演じる大友勝利との対決は語っていません。 もし、まだこの映画を見ていないのであれば、 全部見て欲しいと思ったからです。 是非一度お試しください。 (スポンサーリンク) おすすめ記事.

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浮気なシネ漫歩 第60回 『仁義なき戦い 広島死闘篇』

仁義 なき 戦い 広島 死闘 篇

『』1972年5月19日号から作家の飯干晃一による「広島やくざ・流血20年の記録 仁義なき戦い」と題するノンフィクションの連載が始まった。 この連載は戦後の広島県で発生した「広島抗争」に当事者として関わった美能幸三がで服役中に執筆した700枚 に及ぶ手記をベースとし、これに飯干が当時の状況を書き加えた内容となっている。 団体・人名・地名も全て実名で掲載されており、手記と解説が一対になって広島抗争が事件や行事ごとに時系列に沿って進行する。 「週刊サンケイ」で連載が開始されると圧倒的な人気となり、印刷所ではの奪い合いになったという。 獄中手記をが執筆することになったきっかけは、報道部記者の今中亙が『』1965年4月号に寄稿した手記「暴力と戦った中国新聞 - 菊池賞の栄に輝く "ペンは暴力よりも強し" 」への怒りと悔しさだった。 で服役中の美能は、文藝春秋に掲載されたこの手記を偶然見つけ、懐かしさのあまり飛びついて読んだが、10日間もメシが食えないほど腹が立った。 ケンカの張本人が自分と決めつけられている上、身に覚えのないことまで書かれている。 「美能が他の組幹部の意向を無視してと勝手に盃を交わした」「破門された美能が山口組と打越会に助けを求めた」という記述があった。 特に美能は「打越会に助けを求めた」という部分にプライドを傷つけられた。 「ヤクザとして生きていく以上、助けを求めたなどと書かれては黙ってはいられない。 ウソを書かれて悔しい」と翌日から舎房の机にかじり付いた美能はこみ上げてくる怒りを抑えながらマスコミに対する怨念を込め、7年間を費やして原稿用紙700枚の手記を書き上げた。 手記は汚名返上の執念が書かせたものであった。 このため『週刊サンケイ』で連載が決定したとき、美能は「登場人物を全て実名で掲載すること」をその条件とした。 実名を出せばトラブルになることはわかっていたが、あくまで名誉回復のためなので「実名でなければ断る」と頑なだったという。 秋、『週刊サンケイ』の矢村隆編集部次長は掲載許可を取りつけるため東京のホテルで美能と会った。 手記の原稿には所々「幸三、お前の意志が弱いからだ」となどのが書き込まれていた。 これは美能が母親に読んでもらったときのもので、美能としてはそもそも無関係の第三者に読ませるつもりはなかった。 しかし、5度目の交渉でようやく掲載を承諾した。 このとき美能のつけた条件が前述の登場人物の実名掲載だった。 彼は「『中国新聞』も『文藝春秋』もみんな実名で書いている」と言うのである。 矢村が編集長と相談し、その条件を飲んで正式に打診した。 現在とは社会背景も大きく違うとはいえ、当時、登場人物を実名にしたままで『仁義なき戦い』が世に出たことはまさに驚愕に値する。 『週刊サンケイ』の担当者は、ヤクザから数多くの恫喝を受けたといわれる。 (広島代理戦争)の際、中国新聞はペンの力でに立ち向かう「暴力団追放キャンペーン」を展開し、その成果を『ある勇気の記録 : 凶器の下の取材ノート』として出版するなどした。 こうしたキャンペーンにより中国新聞はの第13回を受賞。 『』のタイトルで(、10月 - 1月)も制作放送され 、をはじめこのドラマを見てを志した者も多い。 しかし、21世紀に入った今日では『仁義なき戦い』と比べものにならないほど『ある勇気の記録』の知名度は低くなっている。 『』の制作に協力したは『仁義なき戦い』の映画化にあたって暴力団追放のキャンペーンにもなると考え、当初は製作に協力してくれたという話がある。 映画 [ ] 仁義なき戦い 監督 脚本 原作 製作 ・日下部五朗 出演者 音楽 撮影 吉田貞次 編集 宮本信太郎 製作会社 配給 東映 公開 1973年1月13日 上映時間 99分 製作国 言語 次作 解説 [ ] (昭和48年)1月13日、配給網により正月映画第2弾として公開された。 シリーズを通しての主演は。 製作は(以下、京撮)。 公開時の併映は『』。。 99分。 やくざ同士の抗争を題材にしながら仲間を裏切り、裏切られることでしか生きられない若者たちが描かれている。 この映画が登場するまでのヤクザ映画の多くはいわゆる、を取ったと言われる虚構性の強いであり、義理人情に厚く正しい任侠道を歩むヒーローが描かれていた。 本作はの先駆けとなった。 登場するヤクザの大半は金にがめつく、弱者に強い社会悪としての姿が大いに描かれており、仁侠映画のようにヤクザを美化することはない。 一時は英雄的に表現されるキャラクターも最後には無残に殺される場面が多い。 本作はヤクザを主人公にしているが、優れた群集活劇でもあり、暗黒社会の一戦後史でもあり、青春映画であり、自己啓発としての側面もある。 基本的にであるため、登場人物に感情移入させるためにもヤクザを魅力的な存在であるかのように描いており、犯罪者を美化しているとする批判もつきまとうことになる。 「 i. e ドキュメントタッチになった原因について 土橋 そうね。 とにかくミッチェル・ズーム [i. e 映画撮影用のカメラのこと。 パナビジョンの前に使用された。 深作はこれにズームレンズをつけて、かつ、ライティングにより光量減をカバーするという手法を選択した] というのはこの映画が初めてだったし、成功した要因だろうね。 それだとシンクロ(同時録音)できるからね。 アフレコだったら広島弁のやりとりが噛んでいくあの感じ、絶対出ないんですよね。 あらすじ [ ] 敗戦直後の広島県呉市。 戦地から帰ってきた若者・広能昌三は、山守組組員達に代わって刀を振り回す暴漢を射殺し、刑務所に収監される。 そこで呉の大物ヤクザ土居組の若衆頭の若杉寛と知り合って義兄弟となり、彼の脱獄を手伝ったことから、彼の計らいで保釈される。 そして逮捕の原因と、土居組の友好組織ということから、広能は山守組の組員となる。 間もなく呉の長老・大久保の手引きにより、市議選に絡んで山守組と土居組は敵対関係となる。 広能との関係から穏便に解決したい若杉に対し、山守組幹部の神原が裏切って土居につき、山守組は組織力に勝る土居組に追い詰められていく。 ついに山守組は、組長の土居清暗殺を計画し、名乗りを挙げた広能に山守義雄は出所したら全財産を渡してやると感謝する。 かくして広能は土居に重傷を与え、再び刑務所に収監される(土居は間もなく死去する)。 一方、若杉は義侠心から裏切り者の神原を殺害して高飛びしようとするが、何者かによって警察に密告され、射殺される。 組長と若頭が亡くなったため壊滅した土居組と対称的に山守組は朝鮮特需で財をなし、呉を代表する大組織となる。 しかし、組織が大きくなったがゆえに、ヒロポンなどによる稼ぎを巡って若衆頭の坂井鉄也一派と幹部の新開宇市一派の内紛劇が起き始める。 坂井は山守に親として解決を迫るものの、山守はのらりくらりとかわす上に、新開派の不満の原因の1つでもあった子から奪ったヤクの横流しまでしていた。 ついに業を煮やした坂井は山守から組の実権を奪い、内部抗争の果てに新開も暗殺するのだった。 講和条約の恩赦で広能が仮釈放されることとなり、ただちに山守は彼に接近して坂井の暗殺を頼み込む。 山守に不快感を持つものの親子の仁義を通すか迷う広能は、偶然、坂井と出会う。 広能は暗殺の話を明かした上で坂井に和解を説くが、逆上した坂井は山守を強制的に引退させ、対立する古株の矢野も殺害する。 広能は坂井派の槙原に呼び出されるが、そこには山守がおり、広能は槙原の正体を理解する。 山守は坂井を襲わなかった広能を非難し、再び協力を迫るが、広能は山守・坂井双方を非難して、山守との縁を切り、けじめとして坂井を殺すことを宣言する(その際、若杉の密告者が山守・槇原だと示唆される)。 単身で坂井を襲撃した広能だったが、事は成せず逆に捕まってしまう。 しかし、坂井は弱気になっている胸中を明かした上で、広能を生かしたまま解放する。 そして、その直後に坂井は暗殺されてしまう。 後日、広能は大規模な坂井の葬儀の式場に平服姿で現れる。 山守達によって営まれていることを確認すると、坂井の無念さを代弁するかのように、拳銃を供物に向かって発砲する。 スタッフ [ ]• 監督…• 企画…・• 原作…• 脚本…• 撮影…• 音楽…• 録音…溝口正義• 照明…中山治雄• 美術…鈴木孝俊• 編集…宮本信太郎• 助監督…清水彰• スチル…藤本武• 進行…渡辺操 キャスト [ ] 山守組(モデル・) もともとは闇市の土建屋だったが若者たちを集めて博徒「山守組」となる。 土居組壊滅後、呉の覇権を握り大組織となるが統制がとれず内部抗争がおきる。 山守義雄(モデル・)(演者・)…山守組組長。 吝嗇、臆病、狡猾な策士。 朝鮮特需で富を得て県有数の実業家になるが子分からの人望はまるでない。 自分の地位を守るため子分同士を争うように仕向ける。 坂井鉄也(モデル・)(演者・)…山守組若衆頭。 組を公平に運営しようとするが山守の策謀もあって、これに不快を示す幹部仲間を次々と粛清する。 子供への土産を買っている最中に射殺される。 広能昌三(モデル・)(演者・)…山守組若衆(幹部)。 物語の主人公。 復員して鬱屈した日々を過ごしていた時にひょんなことから山守組のために殺人を犯し服役する。 すぐに出所して組員となるが土居組との抗争やその結果の長期間の服役を経験し、出所後は内部抗争に巻きこまれていく。 山守と坂井を和解させようとするが、両方に裏切られる形となる。 坂井の葬儀の場でピストルを乱射。 矢野修司(モデル・)(演者・)…山守組若衆(幹部)。 坂井に対抗。 坂井の子分たちに殺される。 神原精一(モデル・)(演者・)…山守組若衆(幹部)。 裏切って土居組につく。 若杉に頭を撃たれ殺される。 槙原政吉(モデル・)(演者・)…山守組若衆(幹部)。 坂井の手下のように振舞うが裏では山守と内通している。 山方新一(モデル・)(演者・)…山守組若衆(幹部)。 広能の親友。 有田たちに殺される。 新開宇市(モデル・)(演者・)…山守組若衆(幹部)。 坂井に対抗。 坂井の子分たちに駅構内で殺される。 有田俊雄(モデル・)(演者・)…映画では山守組若衆。 新開の舎弟。 ヒロポン密売グループのリーダーで禁止させようとする坂井と激しく敵対する。 岩見益夫(演者・)…山守組若衆。 広能を慕う。 杉谷伸彦(演者・)• 川西保(演者・)• 山守利香(モデル・)(演者・)…山守義雄の妻。 広能に指のつめ方を教える。 新庄秋子(演者・)…山方の女。 さらに坂井の女へ。 土居組(モデル・)• 土居清(モデル・)(演者・)…土居組組長。 広能に暗殺される。 若杉寛(モデル・)(演者・)…土居組若衆頭で後に山守組につく。 広能の兄貴分で広能から慕われていた。 広能逮捕後、山守の本性に気付き神原射殺後に逃亡中の隠れ家を警察に踏み込まれ射殺される。 密告者は山守か槙原と推測される。 江波亮一(演者・)…土居組若衆。 野方守(演者・)…土居組若衆。 国広鈴江(演者・)…若杉の女。 寺内八郎(演者・)• 貫田秀男(演者・)• 水谷文次(演者・) 海渡組(モデル・)• 松永武(演者・)• 垣内次郎(演者・)• 打森昇(演者・)• 吉永進(演者・)• 柳田敏治(演者・)• 川南時夫(演者・) 坂井組• 大竹勇(演者・)• 高野真二(演者・)• 西谷英男(演者・)• 石堂寅雄(演者・) 上田組(モデル・)• 屋代光春(演者・)• 古屋誠(演者・)• 倉光正義(演者・) 有田組• 横川信夫(演者・)• 下中隆次(演者・)• 安条啓介(演者・)• 広石金作(演者・) 新開組• 脇田登(演者・) 矢野組• 目崎武志(演者・)• 楠田丈市(演者・) その他• 大久保憲一(モデル・)(演者・)…呉の長老。 山守組結成の媒酌人。 上田透(モデル・)(演者・)…愚連隊上田組組長から山守組舎弟に。 大久保の親戚。 坂井とは仲が良くそれが原因で理髪店で有田らに射殺される。 上田の死により坂井一派と新開一派の抗争が激化する。 着流しのやくざ(演者・)…旅の人。 山守組のシマで酒に酔って暴れ、刀を振り回しているところを広能に射殺される。 金丸昭一(演者・)…呉市会議員。 中原重人(演者・)…呉市会議員。 前川巡査(演者・)• けい子(演者・)…娼婦• 中村捜査係長(演者・)• 珠美(演者・)…キャバレーのホステス• 山城佐和(演者・)…不良米兵に襲われた後パンパン。 国弘とめ(演者・)…鈴江の母• 加谷刑事 (演者・)• 小室刑事 (演者・)• 洋品店主人 (演者・)• 看守(演者・・・)• 三国人(演者・)• 警官(演者・)• の元組長・が(昭和45年)、から出所。 獄中で書いた手記の存在を再会した知人が知り、預かった手記をいくつかの出版社に持ち込む。 これが編集者から編集者へ渡った後、「」が「これは面白いから是非連載をやらせて欲しい」ということになり 「週刊サンケイ」は、その解説者としてを選定することになった。 なぜ飯干だったのかというと「週刊サンケイ」は手記を入手した時点で、既に東映社長・に映画化の話を打診しており、の内容を岡田は持っていた。 岡田は著書で「『週刊サンケイ』の小野田政編集長がおもしろい獄中記があると美能の獄中記を持ち込んできた」と述べている。 岡田は映画化に興味を示すが、手記をそのまま映画化した場合、多々、困難な問題が生じてしまう。 そこで、岡田が「週刊サンケイ」に出したのがを立てるという提案だった。 そして、このプランにふさわしい人物として東映と「週刊サンケイ」が選んだのが、飯干晃一だったのである。 美能の手記が直接掲載されなかったのはこうした理由から。 「週刊サンケイ」での連載が始まる前に、同誌編集部から岡田に映画化の打診があったことは、の著書にも書かれている。 『仁義なき戦い』が世に出ることによって噴出する誤解や非難は、すべて最終的には美能に被せることができる。 このドキュメントに於ける原作者・飯干は単なるアンカーで、文責を負うことはない。 飯干は「美能さんが獄中で何かを書いたということは、のあるから聞いて知っていた。 僕らはそれを"幻の文書"と呼んでいたが、あっちこっち捜し歩いたが発掘できなかったんです。 見せられたときはこりゃ凄い。 大変なものが出てきたなと思いました」と話している。 美能幸三という告白者ーたとえそれが一方的な視点であっても、我々は彼のおかげでヤクザの本当の壮絶さを知ることができた。 これだと映画化は既定路線ということになるが、これ以前春 、或いは1971年(昭和46年)暮、京撮のと笠原和夫が飯干の長編2作目「やくざ対Gメン」(1973年夏映画化)の映画化権取得交渉のため飯干の自宅を訪問時に、飯干から美能の手記を見せられて 当時の日下部はプロデューサーの下にいたが、映画化に意欲を燃やしたという説もある。 日下部は飯干にその場で映画化権を申し出たと話している。 矢村隆「週刊サンケイ」編集部次長(当時)の証言では、飯干は手記の入手と同時に、日下部に相談したと証言している。 また飯干が手記を見たのは「週刊サンケイ」が美能と5回の掲載交渉した後、「週刊サンケイ」を通じてと証言しているため、1971年(昭和46年)秋以降ということになり 日下部は上層部に映画化を聞いたところ、岡田社長から「絶対にやれ」と檄を飛ばされ、すぐに呉の美能に会いに行ったと証言している。 岡田は1971年、担がれて社長に就任するが、この数年の間、興収の低迷や社長の世襲問題に端を発する大川家と組合の激しい対立など問題が噴出、旧体制派との確執に直面していた。 特に自身が手掛けた"任侠映画路線"がマンネリ化し、その刷新が緊急の課題であったが、1972年公開された『』が大ヒットし、"マフィア映画ブーム"が到来すると、岡田はこのマフィア映画的世界観を邦画で再現できないかと思案していた。 広島出身の岡田は広島抗争についてよく知っていて、前述の「ある勇気の記録」を過去に映画化しようとしたこともあった。 岡田は『』1972年9月号で「事実を避けて通らず、克明に描いたところに大衆を引きつける魅力がある。 便乗企画といわれればそれまでだが、東映でも日本版マフィア映画を作るべきだ」と話しており、実録路線への転換を構想していた。 実録路線への転換は、即ちの推し進めてきた任侠映画の否定、及び終了を意味する。 全国直営館の館主も新しい路線の転換を支持した。 岡田の側近・渡邊達人は岡田に不良性感度路線から善良性への転換を進言したが、岡田は実録路線へ舵を切る。 岡田がいなければ、一連の「実録やくざ映画」は製作できなかった、と笠原和夫や、日下部五朗ら、多くの関係者が話している。 「仁義なき戦いシリーズ」のキャメラマン・吉田貞次は、「実録やくざ映画は岡田茂社長の考え方がすごく入ってる。 さんが生きていたら実録やくざ映画は生まれなかったでしょう。 そこそこは、やったかもしれないけど、あんな極端には、やらせなかっただろうと思う」と述べている。 俊藤は一作目の撮影の途中から顔を出さなくなったという。 実際に東映と映画化の契約を結んだのは原作者の飯干で、美能は飯干から全く相談を受けなかった。 しかし映画化にあたってはなくても、は必要だろうということで、最初に俊藤が美能の元を訪ねた。 美能は「『週刊サンケイ』ですべて終わらせたい」と断ったため 、もう俊藤は行かなかった。 しかし高岩淡と京都撮影所の畑利明が再び訪ねてきて「どうしても映画にさせてくれ」と何日も泊まり込みで執拗に頼むので、美能は根負けして映画化を承知したという。 俊藤浩滋・・菅原文太・・が対談したテレビ番組『』「任侠」(放送)では、菅原が「京都へ撮影で行くとき、自身が週刊誌の表紙に初めてなった『』(1972年5月26日号)をので喜んで買ったら、それに『仁義なき戦い』の連載第1回が載っていた。 とても面白いので京都の岡田社長を尋ねて『これをやらせてくれ』と直談判したが、岡田は中で『そこ置いとけ』と、まともに相手してもらえなかった」と話した。 この菅原の話に俊藤は「それは遅い。 オレは東京に行くおり『週刊サンケイ』を買って『仁義なき戦い』を読んだら凄く面白くてもう抑えた」と話した。 俊藤が「週刊サンケイ」の連載を見て「仁義なき戦い」を知ったということであれば、「週刊サンケイ」の連載開始は(昭和47年)なので、俊藤が「仁義なき戦い」を知った時期がかなり遅い。 菅原は『』のとの対談で、「『週刊サンケイ』を東京駅の売店で買った」までは『すばらしき仲間』での話と同じなのだが、その後、岡田社長ではなく、すぐに俊藤のところに行って原作を渡し「絶対読んで下さいと念を押し、翌日、俊藤が『あれ、おもしろいな』というので、菅原が『おもしろいじゃなくておれにやらせて下さい』と頼み、俊藤が日下部五朗をすぐに呼んで、日下部に『おい、この原作取らんかあ』と命じて、日下部が『わかりました』と言い、そこからスタートとした」「いろんな説が飛びかっていて、『俺がやった』というのが3人も4人もいるんだけど、本人が言うんだから間違いない」などと主張している。 菅原が2014年11月に亡くなった際に『仁義なき戦い』が菅原の持ち込み企画のような報道が多数なされたが 、前述の『すばらしき仲間』での、菅原と俊藤のやりとりでは、俊藤から"菅原からの映画化の話は聞いてない"と言われている上、31年も経って持ち込んだ相手も記憶がごちゃ混ぜになっており、菅原からの企画持ち込み説は誤りである。 前述のように岡田社長は著書やとのインタビューで「『週刊サンケイ』の小野田政編集長が美能の獄中記を持ち込んできて、すぐ映画化を頼んだ」 、矢村隆「週刊サンケイ」編集部次長(当時)は、飯干は美能の手記の入手(1971年暮)と同時に、日下部に相談したと証言しており 、菅原が「週刊サンケイ」の連載を読んで会社に企画を持ち込んだという話は遅過ぎる。 根本的に当初予定されていた主演はであり、代役の、それもまだ実績のない菅原が会社に企画を持ち込んだからといって映画化が決まるような題材ではないのではないかと思われる。 菅原は先の『週刊朝日』の対談で他に「そのあと3日ぐらいして、が映画化の権利を取りに行ったという話を聞いた。 真実かどうか確認できないけど、一歩俺のほうが早かったんだ。 東宝はで『仁義なき戦い』をやろうとしてたらしいよ」「敵の撮影所でありながら彼とも知り合いで、彼がやったらそれはそれでおもしろかったろうね」などと話している。 日下部は米原尚志とのインタビューで、飯干宅で『仁義なき戦い』の原稿を見たのだが、すぐ企画を進めた訳ではなく、「麻薬Gメンの話が潰れて『仁義なき戦い』の原稿のことを思い出した。 そのときはすでに『週刊サンケイ』の連載が始まっていた」と証言している。 これまで日下部が「週刊サンケイ」の連載よりも半年、或いは一年も前に飯干宅で美能の手記を見たというから、その後『仁義なき戦い』の企画を水面下で進めていたものと思い込んでいた、或いはそう書かれた文献が多いようであるが、先の日下部の証言通り、美能の手記を見ただけで企画を進めていなかったのならば、岡田ー日下部ラインで企画はスタートさせていたが、題材が題材だけに思うように進んでいなかったのかもしれない。 『仁義なき戦い』というタイトルを考えたのは「週刊サンケイ」編集部である。 美能は「仁義なき戦いではない。 わしは仁義を求めて生きてきた」と揉めたが、同誌・矢村隆編集部次長が「あなたはそうしたはずだが、ボタンの掛け違いが重なって結局は仁義がなくなったんじゃないか」と美能を説得したという。 1972年(昭和47年)に「週刊サンケイ」に連載が開始される。 本連載は「ゴッドファーザー日本版」と銘打たれていた。 同年9月に東映はシナリオ作成をに指示。 笠原の『ノート「仁義なき戦い」の三百日』によると、実在する登場人物や組関係者がどのように反応するか憶測もつかないため、笠原も映画化は実現不可能と二の足を踏んだが、岡田社長の強い指示で取材に着手。 実際に美能に面会した結果、「呉での抗争事件だけならなんとかまとめられる」と引き受けた。 笠原は獄中手記を書いた美能幸三にも人を介して会いに行った。 の『』で、をした際に、日下部がよく通った呉のスナックが美能も常連客でママが会う段取りをつけたくれた。 最初の訪問は1972年9月30日。 この前々日の9月28日に俊藤のツテを使い、当時共政会二代目会長だった服部武と会い事件のアウトラインを取材していた。 当時の美能は8年の刑期を終え、出所してきたばかりで、現役バリバリの殺気に笠原は縮み上がり「映画なんか信用できん! 」と美能の一言にその場を一目散に逃げ出した。 ところが美能が追いかけて来て「せっかく来たのだからまで送ってやる」と言われ、道中の世間話で色々話をしているうち、戦中共にのにいたことが分かって美能は喜び自宅にまで招かれた。 手記を書いただけに脚本家という仕事に興味を持ったようで「絶対に映画には使わない」という条件でたっぷり広島抗争の真実を聞くことが出来た。 別れ際、美能に「絶対に映画にしないんだな」と念を押されたので「しません! 」と答え帰京、さっそく脚本に取りかかった。 日下部が「美能さん、あなた、恨みを晴らすために書いたんでしょう。 じゃあ、とことんやりましょう!映画ならもっと効果があがりますよ」とけしかけ、美能は映画化を承諾した。 美能から言わせれば、笠原と日下部が初めて訪ねてきたときは、二人をどこかの〈組〉の者ではないかと疑ったという。 映画が製作されたの始めは広島抗争がまだ燻っており、いささか危険な状況下にあった。 この題材は過去にも東映をはじめ各社が映画化に取り掛かっては頓挫する、という折り紙付きの難物であった。 このため当初は広島ヤクザをあまり刺激しないよう当事者には取材せず、短期間の撮影で正月第二週あたりの併映作(添え物)、ノン・スター、1時間10分程度の白黒作品で制作する予定であった。 それが普通サイズのカラー作品での制作という事に変わり、東映内部でも後難を恐れ映画化に消極的な声があった中、広島出身の岡田社長のみが一人やる気満々で実現に至った。 日下部は広島出身の岡田社長の人脈をフルに使いながら、映画化実現に向けて関係者の説得に当たった。 また俊藤浩滋は、広島の組織関係者との橋渡しとしてに就いた。 サイドやの舎弟・などと調整し筋を通す役割を果たす。 映画化実現に於いて、諸問題をクリアーしてくれたのは波谷であった。 波谷は「美能にもし危害を加えるヤツがいたら、オレが相手になる」と言っていたという。 の監督起用について菅原は従来とは違うものにしたいと俊藤に「『』『』を見ましたか?」と聞いたら「見てない」というので、「見てください」と頼み、何日か経って「オモシロイなぁ」と言うから深作の監督起用が決まった 、「その時以外には誰を監督になんていったことがないんだ」などと話している。 深作は10月半ば、『人斬り与太 狂犬三兄弟』の編集中に俊藤から京撮で製作するやくざ映画の監督をする気があるか打診され 「つぎに何か決まっているのか」深作「いや、決まっていません」「知ってるかな、週刊サンケイに『仁義なき戦い』というのが連載されてるの」「はい読んでますよ。 あれは面白いですねえ」「京都でやろうと思ってるんだ。 やる気があるか」「そりゃまあ、京都はまだ行ったことがないけれど、私で良かったらやらしてください」というやりとりがなされた。 しかし、笠原が「あいつはシナリオをいじりまくる」と難色を示し、笠原と岡田社長は共に京撮の若手エース監督・を推していて、中島は内々の監督の打診を受けていた。 俊藤が深作の起用を強引にすすめ 深作も笠原の脚本には一切、手を入れないことを約束し 最終的には岡田社長が笠原の説得にあたり深作起用が決定した。 日下部プロデューサーは「深作さんが脚本に文句をつけたら、中島さんか誰か知らんけど、違った『仁義』になっていたのは確か」と述べている。 深作の起用の決定はスタッフも決まった後でギリギリ。 顔合わせをしたのは撮影開始3日前で、ディスカッションも何もする暇がないまま、ぶっつけで撮影に入った。 深作は当時一般にはあまり知られておらず、"映研派"監督などといわれ、の間では熱狂的に人気があったが 自分の撮りたいものを撮るという姿勢を崩さなかったため、撮っちゃ干され、撮っちゃ干されの時期が長く続いていた。 菅原は「俊藤に深作を推薦したのは自分」「深作と一緒に撮った映画を俊藤に見せたら、おもしろいやないか。 あれで行こう、と深作に決まった」と話している。 深作自身は当時日本で最も評判の悪かったスタジオである京撮に対して幾許かの先入観があったとされるが現場に入ってからは深作組の名の下、縦横無尽の活躍を見せる。 プロデューサーのは当初、の東映主演第1作として考えており、も候補にあがった。 しかし渡はで病気療養中の身で「1年くらいかかる」と断わられたため、以前から出演を希望していた菅原に主演が決まった。 菅原は本作の映画化を聞く前から『週刊サンケイ』の連載を読み、その魅力に圧倒され、東映に「映画化するなら俺を出せ」と言っていたという。 このため渡の東映出演は『』まで延期となっている。 当初の予定では(劇中では坂井鉄也)を主人公にし、この役を菅原にあてる予定だったが、シリーズ化を考えた東映によって急遽、美能を主人公のモデルにさしかえた。 山守義雄のモデルとなったはそぎ落としたような顔をしてるため 、深作は少し顔も似て重厚な演技をするを推したが 、「三國は暗すぎてだめや」 「三國では客が入らん! 」 「三國の広島弁は考えられない。 広島弁の明るさがでなければだめだ」 と岡田社長が譲らず、が抜擢された。 深作がなお三國でと固執するので「お前降りろ、もういいよ」というところまでいったという。 金子はインタビューで「深作さんは三國をある場所に待たせていたらしいんだ。 深作さんが行ったら岡田社長がそこにいてぼくに代えてしまったんだ」と述べている。 金子は山村辰雄には会ってないと話しており 、山村が撮影所を訪れたとする文献もあるが、「山村さんは当時会える状況になく、飯干さんしか会ってないのではないか」と述べている。 なぜ金子が選ばれたかについては、これまであまり語られたことがないが、岡田が著書で「金子はの出身だからもいける」と述べており 金子はの出身で岡山とは縁がなく、岡田の勘違いで抜擢されたのか、或いは金子が岡山出身と言っていたのか不明である。 また、金子がクランクイン直前に病気で倒れ出演が危ぶまれ、代役にが候補に挙がった。 しかし話を耳にした金子が病床から這い出てきて「この役を降ろされたら生きていけない。 死んでもやるからやらせてくれ!」と出演を熱望したため、西村の代役話は流れた。 深作は初めのうちは、金子の親分役に「こういう親分って本当にいるのかいな」という不安がたえず付きまとっていて、三國さんの方がいいんじゃないかな」と思っていたという。 笠原も「金子の芝居は相当の、やりすぎだ」と試写で見て「あんなアホな親分いませんよ。 こんな親分に子分がつくはずないじゃないか」と言ったら、岡田がノッて「あれは絶対におもしろい」と言って結局その後も、ずっとあれで押し通されてしまったと述べている。 金子の怪演なくして本作は語れない。 その他『代理戦争』でを世に出した西条勝治役は、最初が予定されていたが「広島ロケが恐い」という理由で降板したため、川谷拓三の大抜擢となった。 映画のポスターに初めて名前が載った川谷は「今、ここで死んでもええわ」と名言を吐き、生涯、そのポスターを大事にした。 この抜擢は川谷だけでなく、大部屋俳優が集まった「」をも注目されるきっかけとなった。 シリーズ化へ [ ] 第一作の撮影中にシリーズ化が決定され。 岡田に呼び出された笠原は「第二部で、何をやりますかね」と聞くと岡田は「! 」と即答。 「冗談じゃないですよ、まだ広島じゃ山口組と揉めてるし、原作もまだ完成してないし、第一、複雑怪奇で作りようがないですよ、あれ」「お前ね、そこを考えるのがライターじゃないの」「広島事件はまあ待って下さい、もっと面白くなりそうなのがあるから」と、何とか山口組から逃げた。 笠原は「広島事件を描くと当然のが登場することになり、かなり慎重な配慮と手続きをしなければ」と苦悶。 その結果、第一次広島抗争を実際の時代設定より後にずらし、原作でチラッと出てくる24歳で自決する殺し屋(演者・)を軸に脚本を書いたのが第二部『』となる。 結局、二作目も大ヒットして、東映は「私がいやだいやだと逃げ回っている広島事件をとうとうやれと言い出した」という笠原を説得、本人も開き直った。 後日、笠原がに語ったところでは、代理戦争における(劇中では豊田会:笠原は合田一家の東進が広島戦争の原因としている)の評価も難しかったという。 前述のように当初の予定では佐々木哲彦(劇中では坂井鉄也)を主人公にし、この役を菅原文太にあて一作だけで終える予定だったが、シリーズ化を考えた東映によって急遽、美能を主人公モデルにさしかえた。 元々、一作で終わらせようとしたのは俊藤で、これがシリーズ化されるようなことがあるとやなど、俊藤が抱えている役者が使えないためである。 さらに今まで大人しかった大部屋俳優も表に出始め都合が悪い。 第二部は菅原の出番が少ないことは笠原は菅原から了解を得ていたが、1週間たったら菅原が「出番が少ないなら出られない」などと言い出した。 菅原も俊藤の息がかかっていたからである。 大喧嘩となって笠原は菅原に「お前、表に出てやるか!」と言うと「そっちがやる気なら、やってもいいです」と菅原は言うので、笠原は「ふざけるんじゃない。 俺がガラスの瓶、パンと割ってお前の顔を傷つけたら、もう役者としてやっていけないんだぞ。 それでもやる気があるのか!」と言うと、深作が間に入ってその場は収まり、二部以降は菅原なしでやると決まっていた。 そうしたら菅原が「出させていただきたい」と侘びを入れ続投となった。 菅原はこれを機に俊藤と別れたというが、菅原のいないシリーズになっていた可能性もあったわけである。 第一部の大ヒットで第三部『』の製作が決定(第二作の公開前)。 決死の取材で広島事件をまとめて、第四部『』と合わせて物語を終結させ笠原もようやく安堵した。 ところが、笠原が岡田と深作、日下部五朗の四人で夜の京都に繰り出したおり、の上で岡田が笠原の肩に手を掛け「お前なァ、悪いけど『仁義なき戦い』をもう一本書いてくれないか」と囁いた。 笠原は「あれはもうとの別れも書いて、二人とも刑務所に入れたし、もう書きようがない」と断った。 バーに入って岡田に聞こえないように笠原が深作に相談すると、深作は「笠原さんがホン書くならやるよ」と言う。 笠原は「よし。 なんぼなんでもが安すぎるから(一本120万円だった)ギャラを上げるなら受けることにしよう。 おれが交渉するから、それまでお前は引き受けるな」「わかった。 おれのぶんの交渉もよろしくな」と深作と打ち合わせをしていたが、正月に東映本社に挨拶に行った深作は、岡田から「今年はまず第五部だな、君、頼むよ」「はいっ」と二つ返事で引き受けてしまった。 第五部『』以降、笠原が脚本を降り、深作が監督を続けたのはこうした経緯から。 『完結篇』以降もさらに三本が製作されたのは勿論、岡田の指令によるもの。 シリーズ各作品 [ ] 深作オリジナル五部作• 仁義なき戦い(1月13日公開)• (1973年4月28日公開)• (1973年9月25日公開)• (1月15日公開)• (1974年6月29日公開) 深作新シリーズ• (1974年12月28日公開)• (11月1日公開)• (4月24日公開) 他監督作品• (5月26日公開) 監督• (11月25日公開) 監督• (2月15日公開) 監督 逸話 [ ] 作品 [ ] 初めて聞かされる専門用語がふんだんに登場するなど、暴力団の内情をうかがわせた脚本は、が綿密な取材を重ね膨大な資料を集めた成果である。 実録と銘打っても、そこは商業映画であるため、演出、などが施されているが、笠原の取材によって、原作以上に実録に肉薄しているのが映画『仁義なき戦い』といえる。 「仁義なき戦いシリーズ」は日本映画史上、いまだかつてなかった脚本家の存在と功績がクローズアップされたシリーズとなった。 『』で脚本が笠原からに代わったことでその比較が大きく取り上げられた。 高田は「つねに"曇天商売"の脚本家が、これほど注目されたのは前代未聞や、と嬉しかった」「皮肉でなくそう思った」などと述べている。 笠原和夫との比較、"笠原信者"からの批判はこの後も容赦なく続いたという。 当時の東映では異端的存在にあった深作の監督起用により、結果として日本映画最高の群集劇が誕生した。 演技人も日本映画の衰勢によって、などの俳優たちの参加を可能にし、偶然の産物だがキャスティングの変更さえも、その奇跡の要因に数え上げられる。 それは "血風ヤクザオペラ" とも称された。 笠原はの出身だが、終戦間際の5月から海軍幹部候補生 として3カ月の広島滞在歴があり 広島県西端にあった()に所属した。 ここで基礎訓練期間を終えた後、で同県で降り、山間部の対空警備隊に配属され のも当地で見た。 終戦によりのから帰京したが 、呉は本作の主要舞台であり、呉市広は第一部で梅宮辰夫が演じたが本拠を置いた街でもあり、西条はの故郷でもあるため、本作と笠原は奇妙な縁があった。 前述したように笠原は美能が同じ大竹海兵団にいたことで、意気投合して一夜を飲み明かし「仁義なき戦い」の裏ネタのほとんどを仕込めた。 仮に笠原が東京で志願してに入っていたら、或いはからに入っていたら、本作はかなり違った内容になっていた可能性が高い。 笠原自身「それが27年後に思いもよらぬ幸運をもたらしてくれた。 『仁義なき戦い』シリーズで、私は監督の力量にも恵まれて少しばかりの成功を得たけれども、その成功はこんなにも不確かな運命の転変と偶然の上に乗っかっているものなのだ。 なんともこわいことだ、と思わずにいられない」と話していた。 笠原は数ヶ月の広島滞在があるが広島弁はあまり知らなかった。 綿密な取材を重ね膨大な資料を集め、広島弁も研究し広島弁の辞書まで作っていたと噂された が、広島弁独特の語感は文字の上からだけでは捉えられない。 そこで思い当たったのが、自身の苦心作を脚本の本読み席上でクソミソにコキ下ろしたの語調だった。 あの時、この時の岡田のニクたらしい言葉の数々と岡田の面貌を併せて思い起こしていると、やのセリフが生き生きと回転し始めた。 それは昔の仇を取ったような溜飲が下がる思いがしたという。 監督は、上記理由で2010年公開の映画『』の劇中でこのシーンを使用している。 脚本執筆にあたり笠原は、ので『』も参考にした。 多大な影響をうけたのは、の映画『』だと言う。 広島抗争の取材を重ねて材料は充分に整ったが、その料理法に行き詰まった。 エネルギッシュで生々しく、残酷でいてなにか浮世ばなれしたズッコケたヤクザ・ワールドの人間葛藤図は、それまでの任侠映画のパターンに収まりきらず、といって他に模すべき映画は見当たらず、『ゴッドファーザー』や『』といった物も見たが参考にならなかった。 『仁義なき戦い』は戦後日本の風土のなかで描いてこそ活きる素材だったからである。 八方塞がりの時、たまたま入った映画館で観たのが『一条さゆり 濡れた欲情』で、、、の三女優の裸身が、文字通り組んずほぐれつ、剥き出し性本能をぶつけ会う1時間余りの映像は、この上なく猥雑で、従順で、固唾を呑む暇もないほど迫力があった。 これからの映画はこうでなければならないと信じ、この手法を持ってすれば『仁義なき戦い』の材料は捌けると強い自信をも抱いた。 笠原が今日のような名声を得る切っ掛けとなったのが『仁義なき戦い』がヒットした後、「キネマ旬報」誌で二回に分けて掲載されたとのロング・インタビューであった。 それまで笠原は、ヤクザ映画の脚本家というレッテルを貼られて良識あるジャーナリズムからはまったく無視されてきた。 田山を「私をマスコミの表側に押し出してくれた恩人」と笠原は述べていたが、田山は笠原を"非エリート"と名付けてその後は、「非エリート、たまには銀座で飲ませろ」などと"非エリート"呼ばわりがしつこく非常に頭にきたと著書で述べている。 深作は「何でこのような、な活気を込めたユニークな映画ができたのですか? 」というの質問に対して「実録的なドラマの力であって、これは人間を創造したというより、現実をリアルに活写した映画、というべきでしょう」と語っており 、五部作の抗争の構図の大枠については、ほぼ事実に則している。 膨大な資料・データを蒐集した笠原が、「事実」「実録」を元に、全体の構図は保ちつつ加工・、を加えて集約させたである。 登場人物については、実在の人物のに別の人物の要素を混入させているケースもある。 例えば扮する「松永弘」は、三名の実在人物から合成されたキャラクター。 アクションシーンについては、単なる殺人シーンの羅列にならないよう、実際に起こった事件を別のシーンに起用して、映画にメリハリをつける計算が行われている。 一作目で指を詰めて指がニワトリ小屋まで飛んでいった話は、笠原が美能と初めて会った夜に美能から聞いた実話であるが 、扮するチンピラが第二部では大友組による無人島での拷問、第三部で指詰めだけでは足らないと手首から切り落とす話は、実際は別の組で行われた実話。 この他、ユーモアシーンのエピソードとしては、第三部で登場するに広能が「あとで"ミス広島"を抱かせちゃる」と言うシーンがあるが、このセリフは実際に山村辰雄がに公約したものという。 プロレスラーのモデルはだが、映画では試合後、でブスをあてがわれて怒り暴れるが、実際に行われた広島での試合は広島県警の大動員によって大きな混乱はなく、力道山はすぐに次の興行地へ移動したという。 このようにモデル人物、モデルになった事件と、映画シーン、登場人物の照合は、必ずしも厳密ではない。 笠原は「獄中で七年間、遺書のつもりで書き続けたという美能氏の怨念の重さを思うと、その手記を絵空事にすりかえてドラマだテーマだと言っていることが大層虚しく思われてきてならない。 美能氏がよく我慢して下さったものだと感謝するのみである」と述べている。 1973年4月28日、初日に封切られた第二弾『』は、都内の各映画館はドアが閉め切れず、半開きのまま。 あふれた観客はロビーのテレビでを見ながら入れ替えを待った。 翌日のは「かつての昭和三十三年当時の映画全盛時代を思わせる」と書いた。 続く『』、『』も大ヒットして、1973年には『キネマ旬報』で「読者選出日本映画監督賞」が深作欣二に、脚本賞が笠原和夫に、男優賞が菅原文太に与えられた。 首脳陣は快哉し、この年の暮れ、の食堂に「仁義なき戦いシリーズ」が獲得したキネ旬、新聞各紙の賞の一覧を掲示した。 入社以来「京都では当たる映画が名作や、東撮みたいなベストテンに入るもん作ったらクビやで」と言われ続けてきたは、この東映首脳の豹変ぶりに唖然としたという。 『広島死闘篇』以外の大半の撮影は京都市内で行われたが、無許可で撮影を強行したシーンが存在する。 舞台が広島、神戸であったため出演者には演技の上で方言が必須になるが、習得にあたっては困難を極めノイローゼになる者が続出した。 笠原も『頂上作戦』を書く頃には、セリフが広島弁でないと一行も書けないという慢性標準語喪失症に陥ったという。 劇中、道具(武器、凶器)として数々のが登場するが、これはが近いことから容易に入手が可能だったためである。 これらの大半は、不良が金に困って、基地の軍用ピストルを盗み出したり、私物のピストルを持ち出して横流したものである。 劇中のヤクザファッションであるが、当時のヤクザの写真を参考に取り寄せたが、格好良すぎて戦後色もないし地方色もない。 深作は「こりゃ駄目だ。 何ともいえない呉の臭いが欲しいんだ。 広島の臭いが。 これ広島に見えない」とをして歩いているとの下に出た。 するとそこに、、、そのうえのの人がいた。 「あれだ。 あれでないと広島弁が似合わない」と「広島では絶対こんなことない」と反対する衣装部を押し切り採用した。 撮影が半分進んだ頃、美能が現場に来たので、ラッシュを見せたら「俺たち、あんな野暮な格好してなかったぜ、酷いじゃないか」と」クレームを付けたという。 深作はファッションについては大嘘と話している。 第五部『』以降、笠原が脚本を降り、笠原から脚本をバトンタッチされたは「巻き物みたいな膨大な資料を預かってね。 あの資料を全て映画にしたら半日はかかる 」「この人は素晴らしい人だと思いましたね。 ふつう、自分が書いたものをなかなか後輩に渡さないですよ。 この人は侍だと思ったね 」 などと述べている。 高田も美能に何度も会ったが、美能は4作目までに対して、山守()が憎めないキャラに扱われ過ぎる点が「気に入らない。 次は俺が脚本を書く」と言っていたという。 登場人物 [ ] 第二部『』でが演じた大友勝利は、シリーズ中1, 2を争う名キャラクターとして人気が高い。 千葉自身も忘れられない役柄として挙げており、後のでも「仁義なき戦いの千葉真一さんがやった大友勝利のような」と影響を与え続け、ヤクザ役のとなっている。 この役は当初が演じて、北大路の演じた山中正治を千葉が演じることになっていたことでも有名だが、実際山中のセリフは全て覚えていたにもかかわらず、北大路が山中役を切望したこともあって 、深作から急に「大友やれ」と言われ役を交換した。 しかし当時の千葉はの売上げが4年連続No. 1であり 、台本には「のでメシ食うとるんで」などの過激なセリフもあり、とても悩みながら「これまで良いと思ったものを全て捨てる」という姿勢で、を常時掛けて眼を隠し、唇を裏返しにして糊付けするなど、役柄にふさわしい演技・扮装を工夫した。 を掻くシーンでは深作から「やれ!」と強制されて行った後に、勢い余って臭いを嗅いだら「やりすぎ」と言われた。 映画の後半に「山中に銃口を向けられるシーンでは、慌てふためきで自分の顔を隠すように掲げる」という台本にないをやった。 「相手に自分の顔が見えると撃たれてしまう」と人間のとった、とっさのバカげた行動が、よりリアリティを生んだ瞬間だった。 「こういうのは役者冥利に尽きる」と話している。 「大友を演じたことにより、やにも興味を持ち始めた。 私の中で大きな転機となった」と述べている。 大友は人気キャラクターだけあってにした企画が出され 、第四部『』にも登場する予定だったが 、既に千葉が『』の撮影に入っていたため実現せず 、第五部『』では大友が再登場したものの、が演じた。 松永のモデルになった人物の一人である網野光三郎は芸能・プロレスなどのも行っていて、明石組のモデルになった山口組とはかねてから付き合いがあり、山守組幹部でありながらすんなり山守側で立てないという事情があった。 網野は映画の通り、ヤクザから足を洗いカタギとなって、事業家として大きな成功を収めた。 新しく始めた事業の一つが、会社の休みの日や深夜にビルの掃除をするという、今で言うのようなの会社で、この会社は30年以上、同じ内容のを使ったを広島地区で流しており、広島県人でこれを知らない者はいない。 なお、やはり本作を映画での代表作としているは、前述のようにモデルとなった人物が現実に引退してしまったため、四作目以降に出番がなくなり、成田はしきりに淋しがっていたという。 成田は早くに亡くなってしまったが、深作は「彼が『もう出られないんですかね.. 』と言っていたのが忘れられません」と語っている。 第三部『代理戦争』で第一部に続いて再登板となったが演じたのが明石組幹部・岩井信一。 モデルとなった幹部・ののない顔に似せるため、当初眉毛をでつぶすをしていた。 実際の山本は眉毛がないのではなく薄かったというが、梅宮はよく汗をかいて溶けるのでめんどうくさくなってある日、を真似て眉毛を剃った。 京都の撮影所から東京に戻って当時1歳の娘・を抱くと、普段泣かない子だったのに「ギャーッ!!! 」と引きつるように泣いたという。 はこの梅宮のヤマケン役の顔について「(梅宮さんの)昔の映画観てみろ。 『仁義なき戦い』とか。 恐ろしい。 あれで30代だぜ」と評した。 梅宮は山本とは本作以前から付き合いがあり 、「あの人に恥かかしちゃいけねぇなという想いはありました 」、「今は問題があるかもしれないけど、ヤクザの役を演じるんだったら同じメシを食い、同じ酒を飲み、時にはにも一緒に行くような…。 そんな"匂い"を吸収するのも大事なことだったんだよ 」、「いまホントにヤクザと付き合うとすぐ叩かれるでしょ?だからみんな付き合いもできないし、やってもコソコソするしかないんだよ。 でも僕らのときには大っぴらにね 」などと回想している。 一方で「みなさんの中で役者・梅宮辰夫は『仁義なき戦い』の印象が強いかもしれないけど、僕の真髄は不良と女たらしを兼ねた『』なんですよ」と述べている。 第三部『代理戦争』、第四部『』に優柔不断なヤクザの代表格として登場する演じる打本昇のモデル・打越信夫は、実際は事業家として先見の明があった人物で、解散危機にあった存続にも貢献している。 が庶民の娯楽になることを見越し、(昭和25年)に発足した広島カープの後援会(鯉城後援会)を作り広島カープのとなって、(1957年開場)の警備、自転車預かり所、売店などの運営を一手に引き受け新たなシノギを開拓した。 鯉城後援会には広島の財界人がみんな入っていたという。 有名な「たる募金」を組員によくやらせていたという。 「カープのためによろしくお願いします!」と球場前でお客さんに頭を下げていたのは打越の組員だったのである。 劇中に出てくるタクシー会社の設立も同時期の(昭和29年)である。 ただしモデルになった会社、及び後継会社も現在は廃業しており現存しない。 演じる打本昇役は、ヤクザの親分でありながら戦争(抗争)が嫌いで、それを回避することばかり考えている。 の頃に行われたインタビューで加藤は「なんかも打本を見習ってもらいたいですな。 そしたら戦争にはならんでしょう」と話した。 は、"小"山守というべきこの打本昇役を、今まで演じた中で最も気にいっていると述べている。 『完結篇』で広能の留守の間に若頭として広能組を守る演じる氏家厚司のモデルになった人物は、に所属した (一説には元南海のとある)。 ただ、経歴からか「プロ野球人名録」などにも現在この人物の記載はなく、調査するのが困難な状況になっている。 登場人物のモデルは大半が実在の人物で関係者が見れば誰が誰なのか一目瞭然のため、初公開時には映画を見た当事者達から大変なクレームを受けた。 映画なのでより劇的にを膨らませたり、話を面白く脚色するのは当然なのだが、それを理解できない人達からクレームがあった。 「事実と違う」とか、「ワシはそがいなこまい男じゃない(私はそんなに肝の小さい男ではない)」とか、現役で周りの子分などに格好がつかない人達もいたようである。 中には「ワシが出とらん(私が出ていない)」というのもあったらしい。 『仁義なき戦い』が劇場公開される前に、京都本社の試写室に三代目の組長が訪れて鑑賞したが、後に間に人を立てて親分が岡田社長に伝えた内容は「よう(広島の)若いモンがだまっとるこっちゃ。 もしワシの事だったらシシャが行くがな」だったとされる。 この"シシャが行く"の意味は未だ謎である。 逆に「お蔭で息子も浮かばれました」と亡くなった人物の母親から感謝されることもあったという。 この母親をモデルに創作したのが、第三部「代理戦争」で演じる倉元猛の母親で、名前は第一部を観て笠原に電話をかけてきたをもじったものという。 美能幸三は第一部封切りのあと「おっ母さんが泣いて喜んでくれた」と笠原に電話してきたという。 「ヤクザ映画最悪のヒール」として描かれている演じる山守義雄ことの場合は、同じくとして描かれた姐さんが撮影現場を訪れ、役者と談笑していたというから、山村はしょせん映画は映画と考えていたのではといわれている。 この他、広島抗争で重要な役割を果たしたといわれるは「仁義なき戦い」五部作にまったく登場しないが、波谷をモデルにした『』では、別角度から見た「仁義なき戦い」が描かれている。 出演者 [ ] 五部作を通してが扮する山守義雄親分の妻・利香を演じたは、の女優だが映画界では地味な存在であった。 この作品で時に夫・山守との絶妙のコンビプレーで子分を翻弄、時に山守の尻を引っぱたくモーレツなおかみさんを演じたが 、五部作の撮影終了間もない(昭和49年)5月、俳優座の公演中に過敏性で倒れ、一旦回復したが同年7月26日、急性心臓死のため39歳で亡くなった。 奇しくもこの日は、一年前から生活を共にしていたと晴れて結婚式を挙げる予定の日だったという。 子供の頃から歌手志望だったは、の中の事故死による穴埋めで父・に説得され17歳で俳優デビュー。 1本だけの約束が東映の大量生産の煽りで次々と作品が決まり断れず、明けても暮れても撮影の日々。 出演作は軒並みヒットしたが、演技に厳しい父は全ての作品にダメ出しし一度も褒めてくれなかった。 やる気を失い、役者を辞めてに乗ろうなどと考えていたところを父に一喝され踏み止まったものの、このまま役者を続けていく自信もなかったが、30歳の時、この映画の第一部・坂井鉄也役に巡りあい変わったという。 壮絶なシーンの連続に役者のを味わい、演じることの面白さが実感できた。 演技力にも自信が生まれ、ようやく父に褒めてもらえると思った矢先、父は亡くなった。 本作の演技でに惚れられた松方は、『』で病気降板したの代役をオファーされた 第一部の扮する若杉寛が情婦()の兄のを着て「おい、テンプラがバレゃぁせんかのぉ」と言うシーンの撮影で、見学していた社長の岡田茂が広島出身であることから「違うぞ、辰!バレゃぁ、じゃのうて、バレやあ、って上げてみろ」と指摘し、梅宮は岡田の言う通りに演じた。 「よし、それでいい」とOKをもらい、このセリフは岡田直伝の広島弁となる。 中村は第三部『代理戦争』で扮する早川英男の妻も演じたが、色白で上品な美人女優で「第二の」と期待されていた。 映画の公開まもないに三代目の息子で、プロデューサーのと結婚して芸能界を引退。 しかし1年後、子供を残し24歳で自宅でガス自殺。 ヤクザ映画の会社に入ったばかりに、という声もあって、中村の亡霊が撮影所に現われると一時噂が立った。 「幽霊でもいいからカムバックしてもらいたいよ」と中村を育てたプロデューサーは嘆いていたという。 は「『』とか『』とかはね、納得してやれたんだけど、『仁義シリーズ』は自分の演技は全然よくないですよ。 圧倒されちゃうんですね、、、なんか存在感あるもん。 でも子分ばかりやってたんで、街を歩いていたら、やくざから『お前よォ、オイ』って来られるんですね。 兄貴ヅラされちゃう。 さんなんかだとやくざも、やっぱ頭下げちゃうんだそうですけど。 京都でやくざ風の二人に囲まれてね、橋の上で親しげに寄って来て両脇に手ェ入れられてね。 どうやって撒こうかって『ちょっと待てよお、俺、小便すっからヨオ』って、やくざっぽく凄んで小便してたら、いきなり橋から突き落とされたんですね。 で、後がまた酷いんだよ。 東映の連中にその話したら『小便の中に落ちたのか』とか『チンポコはどうした』とか全然心配してくれないの。 参ったよ」などと話している。 第一部の、第二部『』と第四部『』に出演したは「当時『』が当たっていたから」という理由でにキャスティングされた。 『広島死闘篇』から出演するは第一部を仕事先のの映画館で観て共鳴し 、シリーズ化の決定を知り直訴して第二作『広島死闘篇』に出演が決まった。 しかし上述()の通り当初キャスティングされた大友役を拒み、東映幹部ら(日下部など)に仲介させ、と配役を交換させている。 北大路が千葉とのキャスト入れ換えを要求したのはこれが初めてでなく、の映画『』に続いて2度目となるが、北大路は戦前からの大スターで東映の役員を兼務していたの御曹司であることから、東映は北大路の意向を幾度となく受け入れてきた。 『広島死闘篇』で村岡組のチンピラに扮したは、大友組にリンチを受けて両手首をロープで縛られて海をで引き擦りまわされるシーンで、スタッフが「衣装も濡れるし、ボートを勢いよく走らせれば、のように海面を滑るんじゃないか」とテストなしで川谷を海へ放り込むが、クルクル回り海底へ沈んだ。 海水をたくさん飲んで失神、あわてて引き上げを施され、なんとか息を吹き返した。 この後宙吊りされ射撃の的で惨殺されるが、普段の川谷は酒浸り身体を鍛えてないため撃たれたときの反応がうまく演じられずに撮影が進まない。 からアドバイスを求められた大友勝利役のは自ら木にぶら下がり「拓ボン、ドーンと音が鳴った瞬間に、左の脇腹に気を集中させて両足をクッと出してみな」と死んでいくチンピラの手本を演じて見せた。 こうした命がけのシーンを川谷はこなしていき、認められていくこととなる。 川谷拓三の息子・は、「どこに出てるんだろう」と子供の頃、父親の出ている映画を見漁ったというが、はじめて父親のこの映画のリンチシーンを観たときは、背筋が凍るほど怖かったと話している。 この役をやるため、深作監督から「ちょっと痩せたほうがいい」と言われたため、川谷は塩をかけただけを毎日食べてひたすら走り、20日間で15キロ体重を落として撮影に挑んだという。 の中でも酒グセの悪さで川谷と1、2を争うといわれたが、最も強い印象を残したのがシリーズ4本目の『頂上作戦』。 ヤクザの親分のでの同窓会に現れ 、恩師や同級生が見ている前でその親分を惨殺して 、「あんたら見とった通りじゃ」と身も蓋もないセリフを吐くシーンである。 志賀は「誰に会っても、あのの役って言われるんだよ。 自分の中では、そういうシーンもあったなあ... くらいだけど」と話している。 『広島死闘篇』で美能組の組員として出演するは、国民的映画『』で、の夫・役として善良なイメージで有名であるが 、前田は昔から東映映画のファンで、「むしろの方が、自分が出るイメージがなかった」と話している。 前田も第一作を映画館で観て感銘を受け、深作から直々に出演のオファーがあり、念願の東映映画出演を果たした。 なお、前田は、側から見た「仁義なき戦い」といえる『』(、1966年10月〜1967年1月)に出演しており、双方の視点で演じた貴重な役者となる。 『広島死闘篇』での前田の最大の見せ場である時森勘市()を殺害するシーンで、ドアの隙間からが引き抜かれた瞬間、銃弾を浴びせるというアイデアは前田が出したものという。 『男はつらいよ』ではであろうと誰であろうと一切のは許されないため、非常に貴重な体験だったと話している。 『広島死闘篇』から出演するはテレビ時代劇『』での人気者になったが、大衆娯楽がテレビのブラウン管に移り、やなどの大スターがテレビのに出演するようになると、実績と貫禄不足の山城は行き場を失い、ニュー東映の時代劇映画の脇役に回った。 深作はこのシリーズ中、強面の主役のかげで、巨大暴力組織や警察に軽妙な機転で迎合しつつ、鋭い反骨の気概を失わずしたたかに生き抜いていくコメディリリーフ的な役柄として、山城に新しい光をあてた。 「僕は実家が京都の町医者だったから、戦後に女性のいろんな所を触った手で目をこすってになったヤクザが、家の病院に来ていた記憶がある。 だから僕はあのシリーズで、江田役を演じた時にして出たんです。 当時の風俗を出すためにね。 あの頃、本物のヤクザが集まってきたら、自分のところの身内の者に『おう、兄弟』って言うわけです。 それを聞いているうちに、役者にも移って『兄弟、兄弟』って呼び合うようになって。 まあ楽しい時代だった。 毎日が祭り。 この祭りが、終わらなければいいと思ってました。 今はもう、出来ないですね、最近でも若い奴らがで広島ヤクザ戦争を描いた作品があったけど、観てられない。 だってあの時の僕らにとって『仁義なき戦い』は最後の砦みたいな映画だった。 時代劇が当たらなくなった。 任侠映画も衰退してきた。 どうするんだと。 やけくそで、実録路線で行けと。 そうやって、自然と結束していったんですよ 」と述べている。 『広島死闘篇』に出演した大部屋俳優のはを分解して手入れをしている時に山中正治(北大路欣也)に踏み込まれ、パニックに陥り思わずの入っていない拳銃を向けるが、これは福本のアイデアが採用された。 この後、至近距離から山中にを撃ち込まれ、座った状態から跳ね飛び上がって死ぬシーンでは、深作はハリウッド式にを装着して後方に引っ張って飛ばし、被弾の衝撃を表現しようとしたが、の上野隆三から「彼は体にバネがあるからゴムはいらんよ」と進言を受け、福本は身体能力だけで見事に吹っ飛んで見せた。 第三部から参加し貫禄充分な芝居を見せるの出演経緯は、1972年の『ゾロ目の三兄弟』で東映初出演した後、俊藤浩滋が、、、と小林の四人で正月映画をやりたいと企画し、俊藤が小林が留守のときに小林宅へ訪ねて来て「東映での面通しや」と言っていたと聞いて、「こっちは日活で看板張ってやってきた。 今さら面通しもねえだろ」とカチンと来て、その話を蹴った。 ちょうど歌がヒットしていて歌のスケジュールが一杯で毎日帰りが遅く、小林が家に帰って来たところに俊藤がまた家に訪ねて来ていて、ちょうど帰り際で、すれ違いざま、「あんたは映画俳優やないわい、ウタ唄いや」と捨てゼリフを吐いた。 しかし後で、俊藤の中に路線が敷いてあり、その正月映画の後、『仁義なき戦い』で小林を主役にしたい構想していたと知り、「悪いことした、どっかで借りを返さなきゃ義理が立たない」と思っていた頃、「に出ないか」と話が来たんで、「いいですよ」と喜んで返事した。 「俺も神戸から西のホンモノのことはよく知ってたし、モデルになった人とも会ったりして、人物を色々膨らませてあの役をずいぶん煮詰めていったよ。 撮影で拓ボンを締め上げるシーンで、思いっ切り壁に叩きつけたりした。 それで拓ボンが飯の席でケンカを吹っかけてきたこともあったな。 東映の立ち回りはそこまで本気でやらなかったんだろう」などと話している。 第五部『』で再登場の大友勝利を演じたと敵対する市岡輝吉()がで対峙するシーン、2分半のは語り草となっている。 〈牛のクソにも段々があるんで〉の名セリフでも知られるシーンだが 、激昂した宍戸がテーブルの小皿やグラスを左腕一撃で払いのけると、宍戸の左腕のがばっさり切れた。 血がビューッと噴き出て、テーブルいっぱいに血が広がった。 宍戸は酒を飲みすぎていて血が止まらない。 松方の隣にいた女優がそれを見て失神した カメラが流血をうまく追いきれなかったのが残念であるが、〈牛のクソにも.. 〉のセリフは、のシナリオにはない宍戸のだという。 失神した女優は松方がしっかり介抱した。 宍戸がこの完結篇に出演した経緯は、同学年で同じ出身で、学生時代から付き合いのあった菅原の誘いだったと思うと話している。 宍戸は出身というプライドから東映の映画は嫌いで、仁義なき戦いシリーズも1本も観たことがなかったと話している。 五部作のうちの四作に出演したは『』には出演予定が当初なかったが、松村保()と江田省一()が関西で襲撃を受けるシーンのロケがで行われると聞いて 、「俺は尼崎の出身だから、やらせてくれ」と深作に直訴して殺し屋の役を勝ち取った。 同シーンはで挟まれたところで車を襲撃するという撮影のため、許可を取らない(取れない)ゲリラ撮影であったが 電車が近付いている時、突き切ろうとした車のタイヤが溝に落ちた。 深作が「電車を止めろ」と無茶を言い出したが その場にいた尼崎の若いヤクザらが、を振ってを止めてくれたおかげで無事撮影ができたという。 本シーンは許可だけでなく、リハーサルもなく、撮影前、黒板にチョークで段取りを書いて「こっちが無線で合図したら撃ってくれ。 遮断機がどうなろうが逃げて渡り切ってくれ。 俺らはビルの上からカメラで追うから」と、ただそれだけ言われた。 八名信夫は「あんな怖い思いはしたことがない」と話している。 殺し屋の役の曽根は、何秒しかない間に撃って殺して逃げないといけないから、下なんて見ている暇がなくてひっくり返り、近所の医者に行ったら膝の骨が折れていたと話している。 当時は何もかも大らかで、ロケは無許可でやることが多かった。 また当時は警察もゆるくて、撮影で使うピストルを、近くの警察署が本物を貸してくれることもあったという。 「電柱1本、犬1匹まで画面に映ったらすべて主役」が深作監督の口ぐせであった。 普通の任侠映画では、主人公以外は絶対的にであるが、深作は『仁義なき戦い』で脇役にも光を当てた。 それまでのスターシステムを廃した演出に燻っていた無名の大部屋俳優、若者たちが跳ねた。 『仁義』に出た役者は、みんなこの映画で個性を爆発させて上昇気流に乗せた。 『仁義』以前は大半の役者が無名であった。 は「僕ら若手の俳優は、皆、『仁義』が出発点」と述べている。 近年、『仁義なき戦い』のを自身の職場の上司や同僚に当てはめる企画が増えているが 、これは『仁義なき戦い』がキャラクターの宝庫であり 世間に存在するありとあらゆるパターンの人間像が描かれているためである。 『仁義』ファンは人によって好きなキャラクターが違うが、は「そういう意味で『仁義なき戦い』は、ある意味、やと同じ、としても見られる。 たとえば『広島死闘篇』の大友勝利のは、モーニング娘。 でいえば、のインパクトでしたね。 は、AKB48の」などと、『仁義なき戦いAKB48説』『仁義なき戦いモーニング娘。 説』を唱えている。 音楽 [ ] 音楽・音声外部リンク 一般にテーマ曲として知られているのは「M1」(最初の約15秒間の曲)の後に流れる「M2」(メインタイトル)。 テーマ曲はが強烈なを噴出させるによるは、シンプルなメロディでありながら非常に高い演出効果を上げあまりにも有名だが 、近年はテレビで修羅場になる 例えばヤクザや怖い(役の)人が出たり、武闘派タレントが激怒したり、また出演者の間でバトルが始まるなど と、このテーマ曲がよく流れ、定着している。 日本で最も使われているともいわれる。 『キネマ旬報』「オールタイム・ベスト映画遺産 映画音楽編 」でも「映画音楽が心に残る映画ベスト10」で、日本映画唯一のベスト10入り(9位)している。 は、日本映画の優れたの例えとして『仁義なき戦い』を挙げ、「津島利章の曲がなければ、『仁義なき戦い』はここまで評価されたかどうか。 あの旋律を聴くことで、あの映像が浮かんでくるということもあるわけです」と話している。 そのほか [ ] 撮影の吉田貞次は、時代に映像などを撮っていた人で、何度か登場する実際のでのドンパチのシーンは「ニュース方式」、所謂「ゲリラ撮影」で行われた。 他の場所で何度もを重ねて、それを現場に持っていき、役者・スタッフとも映画人のような格好はしないで、カメラも隠し、一斉にアクションをかけ、それをカメラがニュースのようにつかまえていく。 役者もどこにカメラがあるか分からないから、初めからおしまいまで本気でやる。 ときには役者とカメラがぶつかることもあった。 カメラは手持ちの小さい物で、アクションに紛れるとカメラがあるかどうかはわからない。 現実の商店街でこれが急に始まるので、通行人も本物のドンパチと信じ込み、怯えたり狼狽えたりする通行人の芝居でないが撮れた。 当然通報される場合もありに絞られることもあった。 第一部で扮する新開宇市が駅のホームで刺殺されるシーンはでのゲリラ撮影。 本来は許可を取ってやらないといけないが、許可が出るわけないので内緒で撮影し、助監督が捕まってさんざん油を絞られている間に他の者は逃げたという。 第一部の撮影が終わり、編集段階になって深作が「この映画のラストカットが欲しい。 広島に行ってそういうカット撮ってきてくれ」といわれ、吉田と撮影スタッフだけで日帰りで広島に行き、撮影したのがシリーズ中、繰り返し出てくるの映像。 原爆ドーム前にホテル(「広島の宿 相生」と思われる)があって許可をもらってそこから撮影したという。 また第一部で土居組との抗争がエスカレートし、今後どうするか山守組幹部が山守宅に集まり、山守夫妻を囲んで話し合うシーンで、広能と若杉が「ここにおるもん(幹部)で今から土居組に殴り込みかけちゃろう」と号令をかけるシーンで、新開が「ここんとこ体の調子が悪うて働けるかどうか」、矢野が「ワシャ、他にも手があると思う」、槇原が「ワシャ死ぬゆうて問題じゃないが女房の腹に子がおって、これからのこと思うと可哀そうで、可哀そうで」などと、行きたくない言い訳を繰り返すが、これらは、それまでの任侠映画では決してお目にかかれなかったシーンであった。 深作は『深夜作業組』の略という逸話で知られるほど、撮影が長いことで有名であったが このシーンは、向こうの人物とこっちの人物のが上手く合わず「リテイク」「リテイク」の連続で撮影に8時間を要したという。 本作の出演者はアフレコのヘタな人ばかりで、さらに慣れない広島弁。 深作がOKを出しても、横にいた方言指導の人が「ここが違う、ここがこう」などと言い出すから、またやるの繰り返しで気が狂いそうになったと深作は話している。 は「週刊サンケイ」の連載や映画化にあたり、正式な契約を結んでいない。 あくまで了承・黙認だったため、美能に対する原案料は0円である。 だが何の見返りもなかったわけではなく、美能は東映の衣装を払い下げてもらい貸衣装屋を始めた。 映画で付き合い始めた俳優との交流も続き、それを足がかりとして、経営へと拡大させ実業家として成功している。 「美能」という名前が目立つため、裁判所にいって名字を変えていた。 は美能が事業を始めた際に便宜をはかり、それが縁で美能が亡くなるまで付き合いがあったという。 美能は(平成22年)3月17日に亡くなったが、その数年前まで時折雑誌のインタビューに答えていた。 このうち、(平成15年)出版された『東映実録やくざ映画 無法地帯』()の中では、驚愕の事実を話している。 『仁義なき戦い』は実録・実話と銘打っているものの娯楽映画であるため、ある程度のフィクションの加味は仕方ない。 しかし美能はにをもらっていないという。 「私は山村の子分ではない。 盃をもらった親分は一人もいない。 第一、山村と親子の盃をしているなら、ああいう手記は絶対に書かん。 私は山村の七人衆と言われていたが、山村組に入ったことはない。 山村が私のことを「アレはウチの若い衆じゃ」と言うから、みんな、そう思っていただけの話。 私はあの人から世話になったことは一遍もない。 みんなで集まったということもないし、ただ山村のとこへ出入りしていただけだったというのが本当のところで『組』というほどのものではなかったんだ」と話している。 『仁義なき戦い』は、山守と広能の親子関係が大きなテーマとなっているが、これでは根本的な設定からしてになってしまう。 ただ、戦後の混乱期にはセレモニーとしての盃事を執り行った組織は少なかったといわれ、盃事がなかったからといって親分でなかったとは言い切れない。 また、美能は広島抗争について「」1998年3月号の門広・石谷綱朗との対談で、「わしはのう、手記の中で一つ肝心なことを抜かしといた。 それは海生さんのことでのう、『わしのことだけは書かんでくれ』と頼まれて伏せたんじゃ、門はすでに海生さんは引退しとったと思うとったかしらんけど、海生さんはまだ現役で呉に君臨しとった。 わしはが持ってきた話で、1963年の4月22日にと、小原光男さんも加わって3人の盃をする予定をしとったんじゃが、亀井貢が殺されて延期になり、5月に内輪だけで盃をしたんよ。 そのときは海生の親分が山村を押さえるために山口組の顧問になるという話もほぼまとまっとったんじゃ。 それ書いとったら、抗争事件のいきさつと全容がようわかるんじゃがのう。 細かいいきさつを言やぁきりがないが、結局は打越対山村ということじゃが、これに海生さんがいっちょ噛んで来たことが決定的になって、いっぺんに火が噴いたということよ」などと話している。 本職のヤクザが撮影に出入りして演技指導をしていたと多くの関係者が証言している。 深作は「俳優の中に本物もいた」と話している。 は「にしろ、手打ち式のシーンにしろ、たいがいは親分が後ろで見ていて、若い人が手順を披露する。 ところが、ずらりと並んだ役者に照れがあるのか、少しおちゃらけた感じになる。 すかさず親分から『バカヤロー、ちゃんとやれ! 』って罵倒される。 僕ら役者は、その声を聞くだけでビビってしまうものでしたよ」と述べている。 若い頃(1980年前後と見られる)、一年の3分の2を京都撮影所内にある寮で暮らしたというは 、楽屋に本職の人が「ヤァ、お若いの、元気でやってるか」とよく入って来たが、全然大丈夫で、「むしろ守られている」という感じだったと話している。 映画の主要キャストにはそれぞれモデルとなった人物がいて、多くが存命でヤクザが撮影をチェックしに来ており、監督である深作がOKを出しても彼らがストップさせることもあったという。 の俳優会館は 本作がシリーズ化され撮影が始まるとヤクザが出入りして異様なムードに包まれたといわれる。 日下部五朗は「監督、脚本、役者、時代、あらゆる意味で今じゃつくれない映画だった」 、は「だいたい『仁義なき戦い』撮ってる頃は、撮影所はいっつもヤクザでいっぱいだった」 、は「梅宮辰夫が眉毛を剃ったり、が常にをかけて出たりしているのは、役のモデルになった本物のヤクザの人が、毎日撮影を見にきているからなんです。 そうすると、メイクや扮装もモデルとそっくりにしてね。 みんな、そうですよ。 撮影現場では、役者かヤクザかわからなくなってしまって 笑 」 、松方弘樹は「『仁義なき戦い』以降、太秦はガラの悪いのが増えた」 などと証言している。 とは「僕たちも実録やくざ映画を撮りたいけど、どんどん難しくなっている」 、深作健太は「本人の意図とは別に『仁義なき戦い』が撮れた時代性があります。 に入って映画が完全にテレビに負けた時代だからこそ、実際のヤクザの抗争事件をテーマにエンタテイメントが作られたのだと思います」と話している。 松方弘樹は『』(1984年)の次の年に『戦争と平和』というとの話をと一緒にやろうと衣装合わせまでしていたが、警察から岡田社長へ圧力がかかってダメになり、それぐらいからヤクザ映画が撮れなくなったと話している。 『仁義なき戦い』が興した「」はさまざまなを撒き散らした。 京撮次長だった翁長孝雄はクレーム処理を一手に引き受けた。 笠原は「仁義なき戦いシリーズ」において、山口組を架空の「明石組」と名を変え書いたが、明石組はのにれっきとして実在した。 明石組は「社長宅をでぶっ飛ばすぞ」と岡田社長を脅し、翁長は「何とかせい」と岡田に命じられた。 翁長は友人であるの刑事に連絡し、事態を憂慮した刑事が見張る中、組事務所に単身乗り込んだ。 「今回の映画で組の名誉がどれだけ傷つけられたと思う? 亡き先代に顔向けできへん」と訥々と語る組長に「知らなかったとはいえを勝手に借用したことは、申し訳ない」と陳謝し、にしてに少なからぬを捧げた。 これで一件落着となったが、このようなやくざ絡みの揉めごとはでもでも起こり、翁長は東奔西走させられた。 美能もから「映画でウチの若い者をにしとると何度も電話がかかってきた」、どうやら波谷はの映画を、だと思ったらしいと述べている。 は「やくざは映画になるといちゃもんつけるんですよ。 大体やくざはや活字は読まない。 でも映画で安く扱われると頭に来るんです」と話している。 はをモデルにした『』での(系) に挨拶にいった時、雪隠詰めにされた。 「銀次いうたら、うちの組じゃ三下みたいなもんやないか!おまえ、あいつを何で映画にするんや。 アホなことすな、誰の許可でそんな映画撮るんじゃい!おまえここにおれ」と日下部は二日後、東映本社からこのことを知らされたの"鶴の一声"で釈放されるまで、ホテルに軟禁されたという。 は、広島抗争のきっかけを作ったのは俺たち。 直接じゃないかもしれないが、後押しはしたと述べている。 でヤクザをやっていた頃、広島での興行をずっと打っていたが、ストリップは儲かるということが分かると、広島の組の若い衆が来てトップクラスの踊り子を引き抜いていくから、これはその組長を取るしかねえだろう、と殺るつもりで事務所に乗り込んでいった。 しかしその組長が引退するつもりだった、というから殺らずにすんだという。 それから代理戦争が始まったと話している。 は広島抗争に参加したと話している。 逆にの父親は、広島抗争時の捜査二課長で、所謂ヤクザと対決する側のトップであったという。 『仁義なき戦い』のビデオが出たあと、に「私は全巻持っています」というお巡りさんのファンが多かったと深作は話している。 で止められたとき、を見せたら「何だ『仁義なき戦い』か、行っていいよ」と言われたことがあったという。 評価 [ ] 第一作の制作前にシリーズ化が決定されていたが、予想以上の大ヒットとなりは邦画の中で年間第2位となった。 を覚えるような荒々しいによる映像が、を見ているかのような生々しさで迫り、聞き慣れないのリアリティとの古典的ともいえるの単調な繰り返しが、独特のリズムとバイブレーションを生んでを揺さぶる、画期的な暴力映画とも評された。 助監督をつとめた土橋亨はインタビューで以下の点を指摘している。 『仁義なき戦い』の成功は深作欣二のダイナミックな演出 、斬新な 、絶頂期に向かう役者たちの演技 、実録ならではのリアリティ 、直後のやという舞台設定の妙 の""的なスリル など、多くの複合要因から成り立ち、それらの幸福な出会いともいえるが やはり原作にはない膨大な資料を掻き集めてシナリオにまとめたの巧みな脚本、"なの応酬" 、"の" とも"血風ヤクザオペラ" とも称された広島弁の珠玉の名セリフの数々によるところが大きい。 プロデューサーの日下部五郎は「笠原さんが『仁義なき戦い』シリーズで残した最も大きな功績は、広島の方言、やくざ言葉を巧みに拾い上げて、映画の名ゼリフと言われるまでにしたことでしょう」と述べている。 は「『仁義なき戦い』は、日本映画のになった。 出演者は各々のベスト・を見せているが、これらの誰よりも大スターがいて、その魅力が全編を支えている。 それは広島弁である」と論じている。 『仁義なき戦い』で重要な演出効果となるのが、何といっても広島弁。 現役の関西系の組関係者が不気味でドスが利いていると評価する。 では汚くて、では可愛らしくて、では意味不明というところで堂々の極道方言ベスト1とも評される。 広島弁は、この映画をきっかけに良くも悪くも全国に広まった。 公開当時は聞き慣れない広島弁のオンパレードに戸惑った映画ファンも多かったが、何度となく鑑賞する度にどこかの英語教材のように精通していき、"仁義ファン"はみな広島弁のとなった。 深作は「"仁義なき戦い"に一番興味を感じたのは焼け跡であり、それがしかも、広島、呉だったということ」「それと前に『』で少しありましたけど、を本格的な形で使ったのは初めてだったんですよ。 京都で映画を撮ったこともないから、地方弁を使いたくてしょうがなかった。 自分の中に地方人としての意識があったんでしょうね」などと話している。 第五話『』で、笠原和夫から脚本を交代したは、第四部までの笠原脚本について、「実際のモデルを検証することによって、あれだけシビアに料理できるという勇気。 人間関係の整理の仕方だとか、チンピラの書き方、山守親分の描き方とか、やっぱりすごい。 実録からくるリアリティ、リアリズムの持つ迫力、これを映画というエンターテインメントに仕立て上げた手腕ですね。 うまく戯画化してね。 あれは勇気がいりますよ。 実在の親分をあれほどボロクソに書くのは、なかなかできることじゃないですよ。 いろいろ問題はあったようだけど、よく文句がでなかったと思うぐらい、むちゃくちゃに扱ってますよね。 実録の世界になって、たんなるギャグを通り越して、実在のやくざの赤裸々な人間の滑稽さを笠原さんがつかんだんです。 僕とは違う人間のコミックな裏の部分をあの人が厳しく書いた。 そこで越えられたなというのがすごいショックだった。 いろんな障害を突き抜けてやったという勇気から、ああいうおもしろいのが出てくるんです。 そういうところに東映的なエンターテインメントの拠って立つ意味合いというか、、があったわけでね。 それはやっぱり飯干晃一さんが書いた原作があったから。 モデルをあれだけ率直に扱う勇気のある作家・ジャーナリストがいたから、それにのっとってやれた。 原作がなくて、そのまま映画人が取材に行って、現実にいる人を戯画化して踏みつけにするような形で映画化するのは普通できないですよ。 原作がちょっとでもあったら『原作があるから』とか言って逃げられるんですよ」などと話している。 後半から初期にかけて、日本はひとつの転換点を迎える。 が行き詰まりをみせ、各種の発生やの波及にみられるように、これまで抑え込まれていた政治社会の歪みが至るところで噴き出し始めていたからである。 それは経済至上主義できた戦後の路線に対し、深い内省を迫る動きであった。 「仁義なき戦いシリーズ」は、こうした世相の中で登場してくる。 第一部は終戦直後、第二部は昭和27年頃、第三部と第四部は昭和30年代後期、第五部は昭和40年代を舞台にしている。 戦後史を別の角度から見つめ直すという意味では、この連作はまさに時代の産物であった。 映画は今まで隠蔽されてきた野卑で猥雑なものに視線を向け、これを白日のもとに晒そうとする。 ここに提示されているのは、戦後日本の裏面史である。 第一部のラストシーン近く、松方弘樹演じる坂井が、菅原文太演じる広能にいう「のう、昌三.. わしらよ、どこで道間違えたんかのう.. 」というセリフが、ひときわ印象的である。 子分みんなに、むしろ軽蔑されながら、神輿として担がれている山守親分。 彼は笑われ、バカにされながら、実はちゃんとみんなを牛耳って、統御しているのである。 このあたりの存在感は、何やら戦後の日本のの象徴である、という存在を思わせたりもして、少々不気味である。 そのような戦後史映画を、深作はストイックな東映正統ヤクザ映画の"葬式型の陰湿な美学"に対抗する、アナーキーな東映戦後派ヤクザ映画の"お祭り型陽気な行動主義"を持って作ったのである。 「実録路線」の旗手となった深作は、日本の戦後史に対して強い問題意識を持っていた。 全般が凡庸なヤクザ映画に堕することなく、時代を撃つような批判力を持つものになったのも、戦後史の底辺に流れていた物を掴み出したいという意思が、作り手側に確固としてあったからである。 虚飾を剥ぎ取り、内実に迫ろうとするこうした動きは、時代の趨勢だったといえる。 深作は『』が公開中の1973年、『』のインタビューでこれに触れ「『仁義なき戦い』は面白い素材です。 つまり、日本の戦後史なんですね。 敗戦後の混乱した土壌からヤクザが生まれてきて、で肥え太る。 やがて大資本が再生すると同時に、それまで癒着していたから切り捨てられてゆく。 ヤクザたちを通して、戦後史の曲り角がリアルに見通せるような気がするんですけどね」。 この記事で『週刊朝日』は、深作を"暴力派"と紹介している。 深作は本作の魅力について「やはりゴチャゴチャした人間のズッコケ芝居のおもしろさですね。 と言っていいのかどうか。 悲劇というより絶えずおかしみがともなって、極めて底辺のところで血の雨を降らす。 それも何の意味もない血の雨の降らし方ということ。 そして最後は県警。 つまり国家権力にしてやられるという話なんですからね」と解説している。 『仁義なき戦い』は戦後を振り返りながら、やくざ組織の治乱興亡の描写にの生き方を重ね合わせた、いわば異色のであった。 戦後、暴力世界の拡大に人生を賭けたやくざたちの姿は、のの下で経済的繁栄を追い求めた日本人の姿と重なって見える。 は「政治家はシェークスピアと『仁義なき戦い』を見ることをお薦めする」と話し 、「『仁義なき戦い』五部作を繰り返し見れば、派閥争いとは何か、いかにして派閥の勢力を伸ばして行くか、小派閥はどのようにサバイブして行くかなどがよく分かる。 派閥と言う言葉を党という言葉に置き換えてもよい。 『仁義なき戦い』シリーズは政治の世界を知る上でも勉強になる。 しかも国内政治だけでなく国際政治にも通用する」などと評している。 は「何度見てもおもしろい、というのはこの映画のためにある褒め言葉だろうか。 『仁義なき戦い』には熱狂的なファンが多い。 私もその一人だが、スピードといい、会話の味といい、役者の面構えといい、この作品は1970年代以降の日本映画のなかで群を抜いている」と評している。 は「『仁義なき戦いシリーズ』が完結した1974年ぐらいで日本映画はっていうかんじです」と述べている。 小山内美江子は「世の中の閉塞感をぶち破る、映画史的に大変価値のある作品だった。 この映画から、手首だの腕だのが飛び始めました」などと述べている。 は「『仁義なき戦い』が今も時代を超えて支持され続ける理由は何だと思いますか? 」という質問に対して「それ以上の映画が出来てないから きっぱり。 まず監督がすごかったということもあるし、笠原さんの脚本も面白いし。 あの時代はヤクザ社会だけじゃなくて世の中が一番激動の頃ですから。 やっぱり題材が一番面白いですよ。 それと、今はあれだけ層の厚い俳優さんたちがおらんもん」と話している。 後に笠原和夫は『』からの影響を否定したが 、初公開時には『ゴッドファーザー』の影響を指摘されたこともあって『仁義なき戦い』をどのように評価するのか、またしないのか、にとってもになった。 このためでは、同じ年に公開された『代理戦争』が8位、『広島死闘篇』が13位で、シリーズモノで票が分散したという不利な点はあったかも知れないが、2位であった。 ただし読者の選出では見事1位(『広島死闘篇』4位)となっている。 評論家とは逆に、の敗北など、当時の無力感を吹き飛ばすエネルギーに満ち溢れた映画に観客は熱狂的に迎え入れた。 またそれまで任侠映画は大新聞が「暴力礼賛だから取り上げない」と宣言し、完全に黙殺したジャンルであったが、の映画評で絶賛されたことで 影響は各紙誌に及び、映画の大ヒットに繋がったとも言われる。 なお、この年『仁義なき戦い』を抑えて1位になったのは、監督の『』だが 、をまたいで評価が増すばかりの『仁義なき戦い』に比べて『津軽じょんがら節』の評価が風化するのは早かった。 深作はもともと客が入らない監督として知られていたため、この映画の大ヒットには戸惑っていたという。 は「」第654号で『仁義なき戦い』について論じているが、大島はこの映画の成功は、ナレーションの巧妙さやタイトルの使い方が、大きな役割を果たしていると述べている。 19歳のとき、のでこの映画を見たは、「オレたちの青春としすぎて、熱いものがガーっときて、だった自分がウワーとなって、もっていかれた」という。 それまでは一辺倒で日本映画なんて馬鹿らしくて、この映画がなかったら日本映画なんて観に行かなかったろうと話している。 当時はビデオやDVDがなかったので、再上映を待っての1位(1〜3部)受賞での再上映でまた観に行くと、今度は風の観客が多くて、こんな映画を見せていいのか心配になったという。 菅原は1973年の『』のインタビューで「ていうのは、芝居つくってくうえで適切なんじゃないですか。 よりもね。 土のにおいがするというか。 芝居してて、いちばん感じをつかみにくいのが標準語ですよね。 言葉が生きてない」「役者は常に、自分と共有部分のある監督とのめぐりあいを予感しています。 作さんとの出会いは、運命的といっては大げさだけども、そんなニュアンスがありますね。 同じ昭和一ケタで、混乱した時代をくぐりぬけてきた戦後体験を持っている。 東映でも作さんは売れない写真づくりを続けてきたし、僕も任侠路線に中途半端に入り込んで、多少違和感を感じながら仕事してきた。 その同質の部分が共鳴するみたいですね」などと述べていた。 菅原は後年、「俺が38歳、深作さんが41歳。 若くてエネルギーがいちばん滾っていた時、内も外も最高の燃焼が生んだ作品は"仁義なき戦いシリーズ"に尽きるんじゃないかな、燃焼し尽くしたって気がする」と語る一方で「いまだに人に会えば"仁義なき戦い"ばかり言われて、さんざん嫌になってくる。 もういいよと。 "仁義なき戦い"はもう遠い昔のことというふうにしか思えない」と述べている。 『』は(平成21年)に実施した<日本映画史上ベストテン>「オールタイム・ベスト映画遺産200 日本映画編 」に於いて、本作を『』、『』、『』、『』の古典的名画に次いで 歴代第5位に選出した。 同誌の歴代ベストテンは過去4度にわたり実施されているが『仁義なき戦い』の第5位は、1970年代以降の作品としては史上最高位となる。 というを越えて、"日本映画史を代表する一本"として認知されつつある。 ビデオとテレビ放映 [ ] VHS, LD, DVD, BD ビデオ化されなかった間も土曜日のなどでシリーズ作が上映されていたが、(昭和62年)末に他のヤクザ映画より大幅に遅れた形でビデオ化された。 これに関して深作は「映画が公開された頃は、描かれた人たちの多くがに入っていた。 いわば鬼のいぬ間に公開してしまったようなところがあった。 ところが映画のビデオソフト化が始まった頃は、もうその人たちは社会復帰していた。 そのため、ビデオ化の方が色々と問題が多かったわけです」と語っている。 ビデオ化解禁の1ヶ月前、1987年(昭和62年)11月に三代目共政会・山田久会長が他界したことも影響があったといわれる。 ビデオ化解禁まではテレビでも放映されることはなかった。 1991年末から1992年9月にかけて順次、化リリースされた。 レンタルビデオは邦画としては桁外れの売上を達成し、以後もロングセラーを続けた。 (平成20年)、DVD化もされており、DVDも売り上げは東映作品の中でも突出しているという。 日本国外でも英語字幕つきDVDが販売されている。 「仁義」という言葉は英語に訳せず、海外では『BATTLES WITHOUT HONOR AND HUMANITY』というタイトルになっている。 劇場公開から40周年を迎えた2013年、シリーズ化された初期五部作が3月21日にボックスとして発売され 、このBOXでしか手に入らないスペシャルディスクとしてボーナスBlu-rayディスク『仁義なき戦い 総集篇』(1980年4月公開、3時間44分)が封入特典。 また、仁義なき戦い 5部作のほかの作品のビデオ化は各ページのビデオ項目を参照。 テレビ放映 初めに『』()でシリーズ5作が定期的に放送され、この映画はいわゆるが何箇所かあり、オンエアではそういったシーンはカットされた。 このため例えば、菅原文太ファンのが好きなシーンとして挙げる第一部で、広能が海渡組本宅前で土居組長を暗殺するシーンでは、広能がこれから殺らないといけないで憂鬱にしていたところ「土居じゃが」とターゲットの土居組長が訪ねてきたとたん、獲物を狙う狼のような表情に豹変する展開があるが、その前の憂鬱だったシーンで「ないか? 」「ポンか(のこと)」というセリフがあり、このためか、これらのシーンは全てカットされいきなり土居組長の来訪シーンから始まってしまった。 テレビ放送日と視聴率 『』 放送日 タイトル 関東 関西 仁義なき戦い 19. 完結篇が放送された翌々週 ・ の同時間枠で『』が放送され、がゲスト出演 扮するタマコの叔父役 し、との久々の共演となった。 なお、1996年9月28日にも同時間枠で放送予定されていたが、実現には至らなかった。 余波 [ ] 量産 『仁義なき戦い』の大ヒットはの量産を生んだ。 このうちの全国進攻を描いた作品は、第三部『』の作中、映像とテロップで駆け足で挿入されている。 「昭和36年6月 義友会事件」は、のことで『』として後に映画化 、「昭和36年7月 石川組組長刺殺事件」は、で起きた服部組長刺殺事件で、殺害したをモデルにして映画化されたのが『』。 そして「昭和37年5月 九州博多事件」としてテロップで出るものを最初に映画化したのが『』。 このテロップとともに映し出される映像はアパートで銃殺されるヤクザがで、人気が高いこともあって夜桜銀次を題材としたものは、その後も何度か映像化されている。 山口組を題材にした映画が量産できたのは、の息子・をスタッフに入れていたためである。 田岡がすべての脚本をチェックすることで、映画に取り上げられた組関係者に、協力はしても反対はするなと指示を出していたという。 戦後の混乱期に輩出したの物語をシリーズ化し、それまで公式的な日本戦後史にあって決して語られてこなかった少数派を主人公とするアクション映画を次々製作した。 前述の山口組の全国進攻を描いた作品以外にも各地で起こった暴力団抗争を描いた映画を多数製作し、その過程で『』(1976年)、『』『』(1977年)など、を舞台にしたアクション映画を製作。 それまで沖縄を舞台にした映画は反戦映画か芸術映画が主であったが 、この東映の暴力映画を切っ掛けにに日本のアクション映画に最初の沖縄ブームが到来した。 がで『仁義なき戦い』の取材中に・の存在を知って興味も持ち、小川に密着取材して1975年『』という総会屋を描いた映画が製作されている。 『』(1976年、東映)、『』(1977年、東映)の成立は『暴力金脈』の登場によるところが大きい。 また近年、で主に製作されるやくざ映画は、こうした「金融やくざ映画」が中心であるため、「仁義なき戦い」は本シリーズ以外にも『仁義なき戦い』から派生したこうした映画も含めて、後に影響を与えることになった。 波及 近年も人気は持続し関連本・研究本が続々刊行される他、大友勝利()などメインのなども発売されている。 近年の増加で各地で老舗映画館が閉館されるなか、東映系の映画館の閉館イベントはこの映画が上映されることが多い。 21世紀の現在もを満員にできるコンテンツである。 この映画の大ヒット後、は様々なヤクザ抗争を俎上に上げて料理し、それを原作とする多くのが製作されたが、30年以上経った今日でも、未だこの映画を凌駕するものは生まれていない。 このため、その存在価値は年々増すばかりで、ヤクザ社会を知りたければ、まずこの映画を見、原作を読まなければ始まらない。 ヤクザ社会を知ることができる数少ないガイドブックでもある。 は映画ファンには、この映画全体で強烈なインパクトを与えたが、菅原文太は当たり役である本作の広能昌三イメージそのまま、1980年代から1990年代に出演したで広島弁を喋りにも強い印象を残した。 特に「社長さんも.. 大臣も.. 飲むときは、タダの人じゃけえ.... 」や「天気力エネルギーの.. じゃけん! 」などが有名で、菅原は普及の功労者である。 は菅原とは東映つながり(張本は当時在籍)で親交があり 『仁義なき戦い』の撮影が始まる時に張本は「ちょっと来てくれ」と菅原から呼び出され「広島弁をチェックしてくれ」というので、広島出身の張本が広島弁を指導したという。 ののネタに『』で、大友勝利組長が競輪場の事務所に子分を助けに行く名シーンをパロったような物がある。 の『』に登場する「」によって呼び出されるは、『仁義なき戦い』の菅原文太をモデルにしたもの。 の漫画『』に登場するの人物・も『仁義なき戦い』の菅原文太、は田中邦衛がモデルと尾田が話している。 『』は『仁義なき戦い』の影響を受けているという。 の漫画『』は『仁義なき戦い』を意識して描かれている。 の漫画『』では、単行本各巻巻末の登場人物紹介に登場人物に混じって山守義雄の項目が設けられている。 その紹介は「全長50m以上、体重2兆トン」 といったように巻を追うごとにエスカレートしており、最終巻では「このマンガの主人公」とまで言われている。 の『』で、主人公・を悩ませる最初の主君・を演じるはプロデューサーから「『仁義なき戦い』のさんのイメージで」と出演オファーを受け、金子そのもので小寺政職を演じている。 『仁義なき戦い』の金子信雄は、元々片岡のレパートリーの一つ。 の『』15週のサブタイトルは「おらの仁義なき戦い」であった。 「実録」という呼称はのの実態を克明に描写した1972年の『』あたりから用いられるようになったが 、用語として定着するのは東映が『仁義なき戦い』をの第一弾として発表してからである。 実は「仁義なき戦いシリーズ」は、1本もタイトルに「実録」をうたったことはないのだが、『仁義なき戦い』が興したのブームにより、東映から多くの実録ヤクザ映画が量産。 以後の日本映画ではヤクザ映画にとどまらず、「実録阿部定」から『』に至るまで実に100本以上の作品が題名に「実録」を冠することとなった。 「実録」を掲げることが一種の流行になり、容易にこれを冠した作品もあらわれるようになった。 『仁義なき戦い』は「実録物」の草分けでもある。 は「俺たちのVシネマのルーツはこれ」と『仁義なき戦い』を自身の「オールタイム・ベスト」の一本として挙げている。 1989年から製作が開始された『』には当初から『仁義なき戦い』の亜流といえる作品が多かった。 『仁義なき戦い』というタイトルもとして定着、雑誌の見出しなどでよく使われる。 (平成20年)1月には『』という主演の系のタイトルにも使われた。 最盛期のに本作のタイトルを『前戯なき戦い』というビデオが発売され 以降も同名タイトルのAV作品がよく作られる。 広島出身のロックバンド・が1991-1992年のツアーに「」というタイトルを付け に行われたとの対バンでは「〜前戯なき戦い〜 氣志團 vs ユニコーン」というタイトルを付けた。 いずれも当初の意味ではとなっているが、現在も時折使われるのは、この映画の副題として残っている理由もあると思われる。 マスメディア (平成15年)にはで特集が組まれ、"「仁義なき戦い」をつくった男たち" のタイトルで放送もされた。 ヤクザ映画をNHKが特集するのは画期的であったが 、これも前述されているように、この映画が単純にヤクザ映画の範疇に収まっていない証明でもある。 『』は世間的にヤクザ記事に強い週刊誌というイメージがあるが 、同誌に本格的にヤクザ記事が登場するのは『仁義なき戦い』の大ヒットを受けて掲載を開始した「山口組三代目田岡一雄自伝」が最初であった。 の組長と親交があった東映社長が直接、田岡と交渉し映画化の約束を取りつけ、小説化〜映画化にあたり「」を出版するの社長を呼び、話を持ちかけたら「頼む。 これだけは俺にやらしてくれ」と小説化の話に飛びついてきたといわれる。 『週刊サンケイ』は勿論、雑誌でこの映画、いわゆる広島抗争をよく取り上げていたのは「」()と姉妹紙『実話時代BULL』であった。 『実話時代BULL』の編集長を務めたが、古今東西の抗争事件を再検証していた時、広島抗争に惹きつけられて、40年以上も前に確定した広島抗争の記事を改めて掘り返した。 近年は下記参考文献にある特集本がたくさん刊行され、一般誌もよく取り上げるが、「実話時代」などが創刊された1990年頃はこういった特集本がほとんど無かったため、『仁義なき戦い』の詳細情報、例えばモデルになった人物が誰かなどの情報は、こうした雑誌でしか得ることが出来なかった。 ところでこのジャンルはネタがあまり無いためか、この映画の関連記事を載せると部数が伸びるのか、一時毎月のようにこの映画と関連の特集を掲載していたことがあった。 関連本のうち、1998年にから出た『実録「仁義なき戦い」・戦場の主役たち・これは映画ではない!』と2003年の『実録「仁義なき戦い」・外伝・血の抗争の鎮魂歌』は、美能幸三以下、実在の人物の写真が掲載され出版業界の常識を覆しタブーを犯した、超弩級のビジュアルムックであった。 これを実現させたのは「実話時代」の編集を担当する創雄社代表・酒井信夫の果敢な編集者魂によるものであった ファン 、 、 、 、 、 、 、、 、、 、 、 といった日本の映画監督はもちろん、やなど、日本国外の映画監督にも多大な影響を与えたことでも知られる。 やも『仁義なき戦い』の洗礼を受けたと言う。 出身のは「『仁義なき戦い』が始まった当時の日芸の学生は、仁義〜に影響されてみんな広島弁を話していた」と話している。 また映像関係者、作家、漫画家、ミュージシャンなど著名人にもファンが多い。 [ ]、 、 、 、 、新田隆男、中田潤、秋本鉄次、神無月マキナ、 、、、、、、冷牟田竜之()、、 、 、ら。 、第5回で『仁義なき戦い 広島死闘篇』が特別上映され「仁義なき戦い」大好き芸人として、、、が登場した。 は、かつてに勤務していた父親の影響で「とりあえず『仁義なき戦い』シリーズを端から観ろと言われ、それらを渋々観てしまったのが今の自分を作っている最大のルーツ」と話している。 2014年9月21日に放送された『』()では「昔『』が公開されたとき、日本では『仁義なき戦い』作って喧嘩売ってた。 そこで作られたエネルギーは凄いし見習いたい」と話した。 川谷拓三の息子・仁科貴は「少なく見積もっても100回は観ている」と話している。 『仁義なき戦い』の関連本を出版しているは、「中学2年生で衝撃を受けて、あまりにハマり、ラジカセを映画館に持ち込んで、ナレーションを暗記したり、それから今日までずっと『仁義』を追いかけて、追いかけて、という気持ちで生活してきました」と話している。 19歳のとき、で「仁義なき戦い」を封切り3日目に観たという映画評論家・田沼雄一は「自分の青春映画といえばこれ」と話している。 は『仁義なき戦い』に出ていた俳優とどれだけ共演できるかが目標の一つ」と話した。 は『仁義なき戦い』の関連書はモチロングッズまで欲しがる大ファンで、『』が製作されると聞いた1979年当時、東映に直接電話を掛けて「どんなチョイ役でもいいから出させてくれ」と頼み出演している。 深作を敬慕するは、かつて「深作さんの『仁義なき戦い』をみてると、腹立ってくるわけよ。 なぜ、オレがここに出ていないかってね」と話した。 は、本作や「」を観て映画が好きになり、自身が実話ばかりを映画化するのは、事実に食い込んでいったこれらの映画に凄い迫力を感じ、その時代に育ったせいと思うと話している。 もこの映画に強い影響を受けたとインタビューで述べており 、「」の山場で扮する岩井信一が放つ「おんどれらも、吐いた唾飲まんとけよ!」は「」にも語り継がれた名ゼリフ。 映画が大好きだというは、政界を引退したら映画監督に転身したいと話し、「自分で撮るとしたらヤクザ映画ですかね。 『仁義なき戦い』をさらにドキュメンタリータッチにして、それと『ゴッドファーザー』を足して2で割ったものとかね」とラジオで話した。 も『仁義なき戦い』の大ファンで 、2015年の小説『孤狼の血』の舞台を広島にした。 同作は、ほぼ『仁義なき戦い』のオマージュという。 また『孤狼の血』の映画版の監督のと、メインキャストのともインタビューで『仁義なき戦い』ファンを公言している。 アメリカ人作家のも本作のファンである。 ののコンペティション部門に『』で参加した北野武は、現地の公式記者会見で「影響を受けた作品は?」の質問に、「『仁義なき戦い』シリーズは好きだけど、手法としてはカメラを持って振り回したり、役者で空間を埋めるのも好きじゃない。 この他、日本ののインタビューでも「あまり会話がないと『』とかあっちに行っちゃうんで。 『仁義なき戦い』のような、文句の言い合いみたいなのをやらなきゃいけないと思った」 、「同じに見えないよう気をつけた」 、「実録調のナレーションなんかを入れ込んだら「仁義なき戦い」と同じになっちゃう」 などと『仁義なき戦い』からの強い影響があったことを話している。 新仁義なき戦いシリーズ [ ] 『新仁義なき戦いシリーズ』と銘打たれているが、前五作とはほとんど関連性はなく、会社が「このタイトルで出しゃあ客が入るぞ」という理由で付けられたもの。 本シリーズになってからの特徴の一つに〈女〉が前面に出てきたことが挙げられる。 新シリーズが始まった1974年は人口が人口を上回り、女性客が急増してきたという時代の流れ、実録路線が続くにつれてネタがだんだんなくなり、題材として扱えない現在進行形の事件が多くなる中、何かと差し障りのある抗争事件より女絡みの世話話や濡れ場を増やそうと考えたことなどの理由があるが、何より新シリーズになって脚本家が高田宏治に変わることで、その傾向は助長された。 『』で笠原から脚本を交代した高田は、「何でここまで言われなあかんのや」と呆れ果てる程、笠原の比較、批判を容赦なく受けた。 シリーズ五部作の後の新シリーズ1本目『』は、前の五部作の焼直しで広島を舞台にしていたが 、『』は、脚本のとが当初考えていたプロットは、「広島山守組の元幹部が、預かった客分の不始末を買って出て暮らしからの落ち」という『』四部作を受けての〈外伝〉となる予定だった。 ところが高田が脚本に入った決定稿で、四部作からスピンアウトした設定は全て消してしまい、舞台をに変更して主人公を広島抗争とは縁もゆかりもないただの流れ者に変えてしまった。 但し、周りが九州弁なのに主人公の菅原は広島弁を喋る。 高田は四部作とのを断ち切り『』は、『仁義なき戦い』とは名ばかりの、五部作とはまったく関連性もない「純粋アクション映画」にしてしまった。 続く『』は最初から高田に脚本が委ねられたが、本作も『』同様、実録ではなくモデルのいないであった。 高田は四部作で笠原があまり表に出さなかった〈女〉を笠原へのとして前面に出した。 これは後に高田が脚本を手掛けた『』や『シリーズ』などの「東映やくざ」に繋がっていく。 『新仁義なき戦い 組長の首』では、ヤクザ映画には珍しいが麻薬中毒の破滅的な男に扮している他、前シリーズで山守組長役の候補だったが出演。 「」のアンヌ隊員役で知られるが、抱いた男がすべて死ぬという「下がりボンボン」と呼ばれる役で出演している。 この他、率いる第二班撮影のカーチェイスの迫力が話題を呼び、深作の『』(1976年)や監督の『』(1976年)と、東映カーアクション路線というべき作品が生まれた。 深作は監督の『』(1967年)が好きで同作をイメージしたと話している。 前述のように『新仁義なき戦い』が四部作の焼直しで、『』と『』はフィクションであるため実録シリーズといえないが 、同シリーズには最終作として製作を予定されていた映画があった。 それが『』で、本作は映画の製作が原因でモデルとなったやくざを刺激して映画と全く同じシチュエーションで実際にモデルとなった組長が殺害されるという(三国事件)「実録シリーズ」の最たる映画となった。 五部作は実録の過去を映像化したものであったが『北陸代理戦争』は、現実を同時進行させた。 本作が同シリーズに主演していたが病気のため降板して主演が松方弘樹に代わったのため「新シリーズ」に入れられてない。 菅原の病気降板は表向きの理由で、実際は『』で主演していた菅原がやくざ映画を続けるのを嫌がったといわれる。 深作は「彼(菅原)も飽き飽きしていたんじゃないですか」と回顧している。 本作は現在進行中の抗争を映画化したことでから干渉を受けたり、大雪で撮影が難航したり、主役、準主役の交替など撮影時から多くのトラブルにも見舞われたが、飛び交う雑音を無視して岡田社長が「こういう生々しいのはええ」と製作を推し進めさせたといわれる。 しかし『仁義なき戦い』というネームバリューを外されたこと、興行力のある菅原が降板したこと、客層が変化したことなどの理由で配収が2億円に届かない記録的な不入りとなった。 深作は『北陸代理戦争』を機にを切り上げたといわれており 、実録ヤクザ映画からの脱皮第一作が・アクションを卒業しようとしていたを主演に据えた映画『』で、千葉と深作はの・合作映画『』以来11年ぶりにタッグを組み、新しいに挑むこととなる。 2013年3月21日に発売されたブルーレイボックスにボーナスディスクとして収録されている『総集編』は、1980年4月に変則システムで劇場公開されている(『』)。 第二部と第五部はほとんど使われず、第一部、第三部、第四部で構成されているが、深作はつなぎまでやったところで『』のに出発し、をチーフ助監督の土橋享に頼んだ。 このため深作は出来上がりを見ておらず、また深作は多作でもあるため本作の記憶が薄いようで、2003年のとのインタビューで本作を「二時間半程度のダイジェスト」と勘違いしている。 本作は三時間四十四分の長尺である。 『』と「新仁義なき戦いシリーズ」一作目の『新仁義なき戦い』の間に深作が演出を担当したのが、系の「」の第一話と四話。 深作は企画に参加する暇がなく「でこういうのやりたいんだけど」と言われ参加した。 既に有名な(オープニング映像)と二話分をが撮影していたが、放映では前後して深作が演出した二話分が第一話と四話になった。 は深作に会うなり「何で僕は『仁義なき戦い』の出られなかったのか」「僕があそこに出てなかったのは自分でも信じられない」と話していたと言い、撮影はスムーズに進んだという。 深作がこの「傷だらけの天使」で初めてカメラマンと組んだが、木村も『仁義なき戦い』を観ていたから、手持ちキャメラでも負けないと、オートバイに乗ってキャメラを担いだという。 この第一話で萩原扮する木暮修がに強盗用のを借りに来るシーンがあるが、その店の店主が金子信雄で広島弁を喋る『仁義なき戦い』の山守親分のようなキャラクターで登場する。 萩原がもごもごと「このオジさんむかし広島でヤクザの親分だったから」などと言うシーンがある。 「仁義なき戦いシリーズ」撮影中が縁でのと思われる。 演劇 [ ] 映画のヒットを受けて、(昭和49年) - 同年11月2日に、で上演された。 金子の友人・が『仁義なき戦い』のファンで 、「金子に舞台にならないか」と持ち掛けたもので 、福田が「自分がホンを書く」といったためやることになった。 しかし映画同様、上演には権利面など難点があり、とにかく東映が何というか分からないため、金子が社長に直接会いに行った。 金子と岡田は同世代で、1951年の岡田二作目のプロデュース作『』で岡田が出演交渉して以来の古い友人。 岡田は初めはビックリしたが、「お前がやるのならいいよ」と承諾をもらい、それならやろうとなり舞台化が決まった。 岡田は自身が抜擢した金子の好演がシリーズ成功に大きな貢献をしたと評価し 、金子を主役にした"やくざ喜劇"を構想していた。 手記を書いたや、にも許可が必要だが、美能には日下部五朗が話をつけてくれ、飯干、笠原も「資料を提供するよ」と快く許可してくれ、意外にとんとん拍子でいったという。 山守役を気に入ったが自らプロデュースして、金子が当時主宰していた「劇団マールイ」の全面協力のもと、と福田善之が共同演出として参加。 内容は映画の第一部と第二部を基にしたもの。 深作は舞台初演出。 キャストも金子が映画そのままに山守役を演じ、広能昌三役は金子はを希望したが 、具合が悪くダメで 、金子と深作が相談してを抜擢した。 室田は出身ながら、熱心にをやるので1966年に東映をされてフリーになっており 、東映の許可は必要なかった。 東映と再び専属契約を結んだのは1975年9月。 坂井鉄也が、新開宇一が。 その他、・・、ら、映画にも出演している役者達が多数出演した。 金子が岡田社長からの許可をいいことに悪ノリにし 、東映のを全部使い 、やくざの組には遠慮しませんからと伝え 、公演当日の会場には、やくざの組からの花輪がズラッと並び 、黒い背広に短髪の若い役者にそれ風の恰好をさせてズラッと並ばせ 、全階自由席の客席の壁には、墨で大きく「四方同席」と書かれたが下がっていた。 美能幸三も激励に訪れ、室田は映画と違い、美能は左手の小指ではなく、右手の小指がないことに驚き、「正調は右手をやる、道具を持つ力が入らないようにするためと聞いた」と話している。 新聞、週刊誌、テレビとよく取り上げられたという。 曽根が一時間半くらい大遅刻したことがあり、何度も場内放送で開演時間が遅れのお詫びを放送したが、お客はあまりいなかったという。 が200万程度出て、金子は公演後二週間寝込んだ。 そんなことは初めてだったという。 AKB48グループ版 [ ] 2019年11月、福岡・の開場20周年記念公演として『仁義なき戦い〜彼女(おんな)たちの死闘篇〜』のタイトルで、AKBグループによって舞台化された。 同月9日から24日まで開催された。 当初、広能昌三役にSKE48の、新開宇市役にNMB48のの出演が発表されていたが、後に変更されている。 脚本を、演出をが務めた。 本編終了後は第2部として、AKB48劇場のルーツである劇団あんみつ姫がプロデュースする歌謡ショー『レヴュー48』を上演した。 キャスト AKB48グループ版 [ ] 左側が11月9日から11月14日までの前半キャスト、右側が11月16日から11月24日までの後半キャスト• 山守義雄(金子信雄)役=()・()• 山守利香(木村俊恵)役=(HKT48)・()• 坂井鉄也(松方弘樹)役=()・(NMB48)• 新開宇市(三上真一郎)役=(AKB48)・(NMB48)• 神原精一(川地民夫)役=(HKT48)・(AKB48)• 矢野修司(曽根晴美)役=()・(STU48)• 槙原政吉(田中邦衛)役=(NMB48)・(HKT48)• 山方新一(高宮敬二)役=(NGT48)・(NGT48)• 岩見益夫(野口貴史)役=(STU48)・(NGT48)• 土居清(名和宏)役=(SKE48)・(SKE48)• 若杉寛(梅宮辰夫)役=(AKB48)・(STU48)• 国広鈴江(中村英子)役=(NMB48)・(HKT48)• 上田透(伊吹吾郎)役=(NGT48)・(SKE48)• 大竹勇(大木吾郎)役=(STU48)・(NGT48)• 有田俊雄(渡瀬恒彦)役=(STU48)・(HKT48)• ウエイトレス秋子(渚まゆみ)役=(HKT48)・(AKB48)• 山城佐和(小林千枝)役=(SKE48)・(NMB48)• その他のキャスト 野方守 役= (AKB48)、前川巡査役=(NMB48)、江波亮一役=(HKT48)、古屋役=(HKT48)、目崎武志役=(HKT48) 垣内次郎役=(HKT48)、初子役=(HKT48)、横川役=(HKT48)、安条啓介役=(HKT48)、 田楽役=(HKT48)、西谷英男役= (HKT48) 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 『』などで助監督を務めた、土橋亨。 下士官速成コースである海軍特別幹部練習生に志願。 大竹を出て行くとき、第二部部長だったと会った。 城山は大竹の後、郷原のに入った。 笠原は『「妖しの民」と生まれてきて』(1998年)を書いた際に、この城山の話を書いていいか、担当の編集者にゲラを城山に送った。 城山は拒否をしなかったが、笠原に会うということもしなかった。 はから『』で「城山三郎の昭和」を連載するにあたり、自身がお節介役を買って出て、17歳の時以来の城山と笠原の再会を実現させたかったが、連載開始間もなく笠原が亡くなってしまった。 そのような経緯もあり、佐高は城山に笠原の戦争観についてどう思うかしつこく聞いた。 城山と笠原は心情の根底において、強烈に共感する物を持っていたと佐高は話している。 『代理戦争』で松永が「『どっちにも恨みはない。 中立でおる』と答えると、盟友・武田明に『中立は認めん。 こっち側で立てんいうじゃったらこの際、になるこっちゃ! 』と言われ、無言で一礼して事務所を去る」というシーンで描かれている。 実際の事件があった可部ジャングル温泉は、現在のになっている。 実際の事件はのそばのであったが、当地では写真撮影は困難という事情から、ロケはから100m西側で行われた。 現在はになっており、当時の面影はない。 笠原は「『ゴッドファーザー』みたいに作ってくれ」と言われたが、『ゴッドファーザー』の方は一家の愛とか結束というのが主題で、『仁義なき戦い』の原作を読んでみたら、人間の裏切りやなにかでバラバラになる話ですから、まるっきり『ゴッドファーザー』になんて、ならんわけですよ」と話した。 、1973年1月22日夕刊「古い"ヤクザ物"脱皮 面白さは一級の娯楽作」。 『仁義なき戦い』への強い反発から、その年の12月20日までに公開された作品というキネ旬ベスト・テンの規定を利用し『津軽じょんがら節』をギリギリのところで有料試写会の形で上映して、選考対象の資格を得させた。 同作はトップ入選し、の大逆転受賞を果たした。 このため同作は読者選出では1点も取らなかった。 営業部・小林直樹談(、2008年7月1日16面)。 DVDには劇場予告編(初期のビデオ版にも収録されていた)、キャスト相関図などの特典映像が収録。 娯楽アクション映画としてに『』が製作されている。 崔は「僕はアパートの部屋の壁に『』と『仁義なき戦い』のポスターを貼り、映画はこれで充分だと思った」と述べている。 井筒は『仁義なき戦い』を観て、映画の世界に入ったと話している(『』、2014年12月1日放送)。 大森は「僕ら、はまりやすい映画青年たちは、広島弁で会話を交わし、山中の拝み撃ちを真似、ついに8ミリでやくざ映画を撮った」「今、同業の映画監督となって見直すと、人物を的確に描き分けていく演出、猛スピードで話が組み立てられていく映像処理には何度見てもため息が出る」と話している。 黒沢は「初めて興味を持った日本映画」と話している。 林は「『仁義なき戦い』はバイブルみたいなもの」と述べている(「映画愛 監督編」 武藤起一編、、1993年、p338)。 出典 [ ]• 74-79. 2009年11月20日. 2010年1月15日時点のよりアーカイブ。 2019年3月19日閲覧。 キネマ旬報. キネマ旬報社 2009年11月20日. 2012年8月4日時点のよりアーカイブ。 2019年3月19日閲覧。 「」『』、2009年11月20日。 2019年3月19日閲覧。 「」『』、、2012年2月2日、 2019年3月19日閲覧。 、p129• 今中亙「暴力と戦った中国新聞 - 菊池賞の栄に輝く "ペンは暴力よりも強し"」『 1965年4月号』第43巻第4号、、1965年4月、 134-141頁、 :。 、p84• 『ある勇気の記録 : 凶器の下の取材ノート』報道部、、1965年11月。 、p241•

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【仁義なき戦い 広島死闘篇】ネタバレ結末!あらすじ・登場人物まで徹底解説

仁義 なき 戦い 広島 死闘 篇

山中正治の生き方に、今も多くの若者は涙している。 我慢しろ、希望を持て、何とかしてやるから・・・多くの若者は、こうして使い捨てられ忘れ去られていくのである。 その男の名は山中正治(北大路欣也)。 彼はふとしたきっかけで村岡組若衆の盃を受ける。 やがて村岡の姪である靖子(梶芽衣子)と愛し合うことになるが、大友勝利(千葉真一)率いる愚連隊との抗争で3人殺害し、無期懲役で刑務所に服役することになる。 靖子恋しさに脱獄した山中は狂犬のように暴走し、警官隊に追いつめられ、拳銃の筒先を口にふくみ自ら命を絶つのだった。 本作は、前作の大ヒットの影響下に即席で作られた作品であるにもかかわらず、前作の単なる続編に終わらず、さらなる『仁義なき戦い』シリーズの魅力を開拓していったことが素晴らしい。 特に今回初登場となる北大路欣也、千葉真一、成田三樹夫、小池朝雄の怪演すれすれの名演ぶりに注目してもらいたい。 本作の存在があったからこそ『仁義なき戦い』はやくざ映画の一つの象徴になったともいえる。 この作品まではどの映画会社のやくざ映画も一作完結型であった。 しかし、本作と前作の関係が『仁義なき戦い』という一大戦国絵巻を展開させるきっかけとなったのである。 この時代(1970年代)の千葉真一は、日本映画史上希に見る迫力に満ちた役者だった。 日本でこの当時狂犬を演じられる名優は、間違いなく彼と菅原文太と渡哲也だろう。 しかも、千葉真一は、リンチ・シーンの立ち回りが実にうまいのである。 基本が空手の人間が立ち回りをするとやけにぎこちなくなりがちなのだが、千葉真一の場合は素で路上の喧嘩が強そうな残虐な立ち回りが出来るのである。 本作においての彼の狂人オーラが存在したからこそ、やぶれかぶれの北大路欣也の狂気ぶりも浮かなかったのである。 もし今北大路欣也のような芝居をする俳優がいると他の俳優はそれについていけないがゆえに、逆に北大路がかなりオーバーアクトな浮いた存在に見えてくるだろう。 仁義なきシリーズを通じて短気な人間の末路は全て惨めな末路に終わっている。 さらに言うと、短気な男に惚れる女も感情的で直感的な女性が多いということである。 きわめて若い時期に、あまりにも不幸が重なりすぎると女性は、幸せよりも不幸さを求めて人生を突っ走っていく傾向がある。 幸せになりたいが、幸せはすごく不安。 だけど、不幸の中に身をおいたらもうこれ以上悪くなることはないので、すごく安心だというのである。 だからこそ、他人の善意を裏切るような行為を平気で行える人もいるのである。 村岡組に入ることになった、山中正治(北大路欣也)に「ええ男になれよ」と金時計をさらりとやる組長。 その行為に感動する山中に対して村岡組若頭松永(成田三樹夫)は、「ええもんもろたの。 これスイス製の何十万もするもんじゃい。 うちのおやっさんはの、ああいう腹の太いお方よ。 おぅっ」と肩をぽんっと叩いて去っていく。 まさに一つの企業に1人は欲しい逸材だ。 やる気のある人材に餌を与えて、餌以上の仕事をさせる。 いつの時代も若者を動かすためにはこの三つのみが大きな力を果たすのである。 金と女と期待されていると感じさせること。 深作監督作品全般的に言えることは女性の描き方が恐ろしく下手だということある。 感情の動機付けが陳腐なので、登場する女性は全てうすっぺらに見えてしまうのである。 靖子に関しても、未亡人でただ寂しいから男の体を求め、その相手が偶然山中だったというわけであるが、そういった部分の描き方が、陳腐なのでどうしても本作での山中と靖子の恋愛の部分は、中だるみになってしまうのである。 しかし、そんな中でも魅力を発散する梶芽衣子という女優は、すごいオーラを放つ女優である。 特にあの瞳が素晴らしい。 彼女のルックスは、一つの日本女性の美人像を作り上げたといってもしかりである。 今現在、10代の若い女性に人気のあるモデルのルックスは、梶芽衣子的なのである。 つまり梶芽衣子こそは、現代日本の10代に最も影響を与えている女性なのである。 私の経験からも、山中のようになるのが、ごく自然の傾向だろう。 女性にとって酔った姿を男性の前でさらけ出す行為は、求愛行為なのである。 基本的に普段がきりっとしていればしている女性ほどである。 しかし、男性諸君、その求愛行為を拒否することは不可能であるが、 女性から求愛した恋愛ほど、うまくいかない恋愛もないということは気に留めておいてもらいたい。 なぜならそういった女性は、感情が変化しやすいからである。 恋愛とは、基本的に男性から求愛したほうが、自然であり、うまくいく場合の方が多いのである。 仁義なき戦いの怖さは、一人の若者が、チンピラになり、人殺しを経験し、その世界で一人前になっていく。 または仕返しに殺害される紙一重の姿を懸命に描いている所にある。 だからこそ人を殺すシーンがやたらと壮絶で悲哀に満ちているのである。 虫けらのように人を殺すその人もまた虫けら。 だからこそ手持ちカメラでの映像なのである。 臨場感よりも、むしろリアルなスケール感のない映像を求めての手持ちカメラなのである。 殺害した後の北大路欣也の芝居がまた素晴らしい。 気分の高まりを落ち着かせるために口笛を吹いて、そして、にやりと笑って、思い出したかのようにダッシュで逃げサル! そうこの逃げサルがポイントである。 わしらうまいもの食うての。 マブイスケ抱くために生まれてきとんじゃないの」。 広島弁はむちゃくちゃだが、勢いで突っ走る突っ走る。 純粋に欲望のためだけに生きている男の魅力と怖さを演じさせたらこの男が一番である。 果ては 「あんとなもんの風下にたってよ。 せんずりこいて仁義にくびくくっとれって言うんか〜」 とぶちぎれる次第である。 そして、大友一派が村岡組を襲撃するシーンが凄まじい。 千葉真一・八名信夫・志賀勝・名和宏・北大路欣也・山城新吾・成田三樹夫・川谷拓三が、建物の一階二階を走り回り転げまわるのである。 そして、広能昌三の舎弟・島田幸一役で前田吟が出てくる。 この時すでに『男はつらいよ』シリーズのひろし役で、寅さんの妹さくらの夫を演じている人が、なんと最も似合わなさそうなこのシリーズに登場したのだ。 前田吟役者人生最初で最後の本格的やくざ役ではないか?実入りの悪い広能組。 焼肉を親分の昌三に食べさせるために、近所の犬を殺して焼肉の肉と偽る島田達。 「おまえらも食わんか」と言われて戸惑う。 犬の肉を食わされる羽目になる昌三が緊張感あふれるこの映画の中でかなり笑える。 これはやばすぎるショットだろう。 北大路が、ワインレッドのシャツの袖を折り曲げているところが何ともいかついところである。 2人は何年かぶりに再会し、深い恋に落ちるのである。 みんなが人生の中で経験するであろう昔別れた相手との再会・・・そして、再び恋に落ちる・・・これもまた人生である。 出会いと、別れの繰り返しほど二人の歴史の中で美しいものはないのである。 出会いと別れを繰り返せる相手こそ、本当の意味での運命の人なのかもしれない。 しかし、この幸せもつかの間・・・山中は、大友の組員を3人殺害し、無期懲役になるのである。 そして、組織からも見捨てられる。 脱獄し暴走する山中に対して、もう1人暴走する若者がいた。 組長である父からも勘当され暴走する。 村岡組のチンピラ(川谷拓三)を捕らえて、リンチするシーンが凄まじい。 虐待する大友=千葉も、虐待されるチンピラ=川谷も、大友の仲間で虐待のえげつなさにぞっとする中原=室田日出男も全てがすごくいい。 ややリアルすぎる嫌いもあるが・・・(私も高校時代に始めてみたときはぞっとした)何よりもこういったシーンのおかげで川谷拓三が輝くきっかけをつかめただけでも価値のあるシーンなのである。 わずか数分のシーンで輝くことが出来るという多くの若い役者に勇気と希望を与えたという点においては、このシーンの何の救いもないところさえもが、神々しく輝いていくのである。 映画というものは、映像の中だけではなく、その作業の過程からも評価されてしかるべきものなのである。 虫けらのように・・・北大路欣也の最後のくだりの芝居は最高に追い詰められている男のけだるさとぞっとするような孤独感に満ち溢れていて素晴らしい。 かなりリアルである。 こういう状況なら自殺することが楽だろうと思える状況を見事に描いたやくざ映画である。 組織の中からも、社会の中からもつま弾きにされた悲しい男の物語としても見ることが出来る点がこの作品の魅力だろう。 そして、最後の菅原文太もまたよい。 男から哀愁が取り除かれたら何の価値が残るのだろうか? 21世紀は人生の中から孤独を取り除いていくことが重要と考えている時代である。 携帯電話の進化・パソコン・IPODなどなど。 しかし、孤独を取り除くことなど出来ない。 人間は便利になれば便利になるほど、孤独をより身近に感じ、疎外感をより身近に感じることになるのだ。 便利さは時間の浪費を生み出している。 しかし、かつては便利さが時間の効率性を生み出すものと考えられていた。 情報量が豊富になり時間の浪費がさらに加速している。 そして、それが判断力の低下につながっている。 現代社会は国家が政策決定するために会議を開いて協議するレベルの情報量を1人の頭の中で思い悩み、決定しようとしている誠に、不可能な可能性を追い求めている時代なのである。 そこに、現代社会に氾濫する精神病理学の構造が伺えるのではないだろうか? この映画の主人公は貴方なのである。 そして、あなたも山中正治のように、社会のサイドコーナーへと他人に利用され、人生に翻弄され追い詰められてはしないだろうか?山中はすごく真面目な人だと私は思う。 よって著作権等は、全て各製作者・会社に帰属します。 画像・映像キャプチャー等の使用に関して表記の問題がある場合、又は削除依頼がある場合は迅速に応対させていただきますのでご連絡ください。 このサイトは、100%非営利に、純粋に「映画解釈の究極」を求めて運営されています。 取り上げるべき作品・感想等ございましたらどんどんメールください。 当サイトはリンク・フリーです。 Copyright C 2007 Geijyutsu Taizen. All Rights Reserved. Mail:.

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