河野治平。 河野太郎

河野洋平

河野治平

箱根駅伝の起源とは?なぜ開催されたのか? まずは 箱根駅伝の起源について、簡単に見ていきましょう。 この駅伝の起源を語る上で、重要になってくる3人の人物がいます。 一人は1912年のストックホルム五輪に出場するも途中棄権となった金栗四三。 二人目は大正から昭和にかけての体育学者で、アントワープ五輪にも出場した野口源三郎。 そして明治大学の学生で、札幌・東京間を22日かけて走破した沢田英一です。 1919年、この3人は埼玉県の小学校で行われた運動会の審判として知り合い、日本の長距離ランナーを育成するためのイベントが開催出来ないかを話し合います。 こうして生まれたのが「 アメリカ大陸横断駅伝」という大会で、その予選会として行われたのが、現在の箱根駅伝の起源となる本国内での駅伝大会だったのです。 1920年2月、第一回箱根駅伝が開催されました。 場所が箱根になった理由は、アメリカ大陸を横断する際に最も大きな山場となるロッキー山脈を攻略する事を想定し、そのため「天下の嶮」とうたわれた箱根が、大会の会場に選ばれたと言われています。 この大会は地元でも歓迎され、箱根にある旅館やホテルにとっては町おこしイベントとての意味合いもありました。 また当時の郵便局長である石内九吉郎や、神奈川県会議員の河野治平がこの大会の開催に協力したとの記録も残されています。 地元の期待が伺えますね。 しかしこの大会は以後も続けられており、今や年始の風物詩となっています。 そこで、 箱根駅伝の歴史を改めて振り返ってみましょう。 1920年に始まった箱根駅伝ですが、第一回の参加校は明治、早大、慶大、東京高師(いまの筑波大)というわずか四校のみの状態でした。 初期の大会の開始時刻は、午前中の授業の影響もあって午後から始まるようになっており、 選手がゴールした時は真っ暗になっていたケースも少なくありませんでした。 1923年の第4回大会からは、 夜間学生の出場が禁止されます。 これは新聞配達を行っている勤労学生はその道のプロであるという事から、学生ではないという事が主張された為でした。 また1927年の第8回大会では、大正天皇崩御を受けて開催が4月にずれこみ、出場校もわずか5校という状態になった事もありました。 また、 第二次世界大戦の影響は箱根駅伝にも及んでいます。 1941年の1月と11月には戦争により、東海道と箱根路の使用が禁止されたことを受け、明治神宮から青梅の熊野神社間で往復する形で箱根駅伝が実施された事もありましたが、これは歴代の大会にはカウントしていません。 また、その翌年には戦時命令として日本学連が解体され、駅伝大会も中止となります。 しかし1943年には、戦時下ながら靖国神社から箱根神社までを往復するコースに変更され実施され、日大が5回目の優勝を果たしています。 その後3年間の大会は、戦争の影響により再び中止とされています。 なお、 優勝校の主な顔ぶれですが、1920年から1934年までの15回の大会のうち早大が7回、明治が5回の優勝を飾っており、まさに二強といってよい時代でした。 また、1935年の第16回からは、日大が大会初の4大会連続優勝を飾った事でも話題になっています。 スポンサードリンク 戦後の箱根駅伝の歴史を解説。 優勝校の変遷は? 戦後の箱根駅伝の歴史は、1947年の23回大会から再開されます。 初めて予選会が導入されたのがこのときでした。 また、読売新聞社が共催に名乗りをあげるも、GHQの指導により後援にとどまることになりました。 この頃の箱根駅伝の特徴として、学生の数が少なく、10名を揃える事が困難になるケースがあった点が挙げられます。 そのため他の陸上競技の選手を読んだり、大学によってはラガーマンなどを呼んできたケースもありました。 中継の歴史にも変化が見られます。 1953年にはNHKラジオによる全国中継がはじまり、1979年にはテレビ東京による初のテレビ中継(ゴールだけ生放送)があり、翌年もNHKが二区のみ中継しています。 全国的な中継は1987年の日本テレビにより行われ現在に至っています。 なお、 優勝校の趨勢は以下のとおりです。 1960年代前半まではほぼ中大の独壇場といってよい時代でした。 そして1969年から1980年頃までは日体大が、その後は順大が台頭。 90年代は大東文化大、山梨学院大、神奈川大などが台頭しています。 2000年代には駒大が初優勝。 2008年に至るまで6回もの優勝を重ねます。 当時の駒大と順大の覇権争いは紫紺対決と呼ばれ注目されました。 2009年には東洋大初優勝し、その後4回の優勝を重ねた後、2015年からは青学大が連覇しています。 時代によって強い大学がガラリと変わるのが興味深いですね。 スポンサードリンク この記事のまとめ 今回は、 箱根駅伝の起源とその歴史についてまとめてみました。 学生たちが必死で走りぬく姿は、いまや新春の風物詩として定着していますよね。 その成立に関わった、金栗四三ら当時の若者たちの「世界に通用するランナーの育成」という理念は、これからも脈々と受け継がれてゆく事でしょう。 そんな風に毎年の箱根駅伝を見つめると、より一層感慨深いものがあると思います。 関連記事(一部広告含む).

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河野家(河野太郎・河野二郎・河野一郎・河野治平の家系図)

河野治平

来歴 戦前 神奈川県足柄下郡豊川村(現・成田)の・河野家に生まれる。 父治平(じへい)は、豊川村長、郡会議員、神奈川県会議長などを歴任した人物。 神奈川県立小田原中学校(現:)を経て、(12年)政治学科を卒業し、に入社。 早稲田大学時代は、弟・謙三とともにの陸上長距離選手として鳴らし、草創期ので活躍。 総合優勝も経験している。 (昭和6年)、内閣のの秘書官となり、翌(昭和7年)、に神奈川3区から出馬し、当選。 当選後は、に所属した。 総裁の後継をめぐる党内抗争では、を担いで奔走したが、が優位に立っていた。 河野は、を擁立して対抗し、政友会は、正統派(久原派)と革新派(中島派)に分裂するに至る。 (昭和17年)のでは、非推薦で選挙戦を戦い当選した。 戦後 後、(昭和20年)11月に旧政友会正統派の勢力を糾合して、を総裁とするを結党。 幹事長として、鳩山内閣の結成に奔走するが、(昭和21年)、鳩山にが下り、が後継総裁として大命降下をうけ、組閣に取り掛かる。 組閣をめぐっては、吉田が旧政党人を軍部に迎合したとみなし、人事について相談しなかったことなどをきっかけとして、不倶戴天の間柄となる。 さらにには、河野自身も公職追放となった。 (昭和26年)に追放解除となり、と共に自由党に復党。 以降は反吉田派の急先鋒として鳩山政権樹立に向けて奔走するが、(昭和27年)、解散総選挙を目前にして、吉田が鳩山派に打撃を与えるべく、と河野を党から除名した。 三木武吉の工作によって、12月に除名取り消しとなる。 (昭和28年)、鳩山、三木ら21名と自由党から分党。 に賛成投票し、・総選挙へと繋がるきっかけを作った。 11月に鳩山、石橋らが自由党に復帰した後も、三木、河野ら8名の代議士 はを結成して、自由党反主流派との連携を模索し、ついに3派を合同させを結成し、鳩山を総裁とし、吉田内閣を打倒する。 (昭和29年)、で農林大臣に就任し、第2次、第3次鳩山内閣でも農林大臣に留任した。 翌(昭和30年)、自由民主党結党に参画し、党内で大派閥のを形成。 (昭和31年)5月9日、での日ソ漁業交渉において、河野は随行していたのを部屋から閉め出して「日本が国交回復の交渉に応じなければ(日本側が北方領土の返還要求を引っ込めること)、漁業協定は調印できないと、ソ連側から日本側に圧力をかけてほしい」と首相や漁業相に要請し、は国交回復の日に効力を生じることになった。 このため、水産業界などが「北方領土など国交回復の後に交渉しろ」という圧力を日本政府にかけるに至り、北方領土の返還が妨害された。 1956年、日ソ平和条約交渉で共産党第1書記を向うに渡り合い、同年10月にはを成立させ、鳩山首相と共に調印に扱ぎつけた。 鳩山引退後の自由民主党公選ではを支持し、に一敗地にまみれるが、岸内閣成立後は主流派となる。 (昭和32年)の内閣改造では、として入閣。 下では党総務会長に就任。 しかし、(昭和34年)6月に幹事長就任を岸首相に拒否されたため、反主流派に転ずる。 改定では岸内閣に批判的立場を取り、における強行採決で、河野派はとともに欠席した。 岸退陣後の自民党総裁公選ではの結集を画策し、、を擁立するが、官僚派(旧吉田派)のに敗れる。 一時、河野新党 の結成を目論むが、大野らに翻意を促され、断念。 大野の仲介により池田首相に接近をはかり、(昭和36年)7月の内閣改造で農林大臣として入閣。 (昭和37年)7月の改造ではとして、に向けた道路や施設の整備に辣腕をふるう。 建設大臣を2年務めた後、(昭和39年)7月の第三次池田内閣では、副総理、東京オリンピック担当のに横滑りした。 この人事が決まった際、河野は「オリンピックについては建設大臣のときにやるべきことはやった。 あとは文部大臣の管轄ではないのか」と必ずしも歓迎しない反応を新聞記者に示している。 (昭和38年)7月には、右翼のらに、自宅を焼き討ちされている()。 1964年10月に東京オリンピック終了と共に、池田が病のため退陣表明するに当たっては後継総裁候補の一人に擬せられたが、後継総裁は池田の指名でに落ち着いた。 1964年11月9日発足のでは、兼振興の担当大臣 を務めたが、1965年(昭和40年)の内閣改造では、閣内残留を拒否。 1ヶ月後の7月8日、のため急死した。 享年67。 死の床で「死んでたまるか」と言ったと伝えられ、「党人政治家の最期の言葉」として広くこれが信じられてきた が、河野洋平によると「大丈夫だ、死にはしない」という穏やかな言葉で家族を安心させようとしたのだという。 人物 新東京国際空港問題との関わり• 新東京国際空港(現・)建設にあたっては、建設大臣として強硬に沖 埋め立て案を推進していた。 1963年8月27日に、を管轄するであったが、との管制の兼ね合いを理由に、木更津案を否定し代案として富里や霞ヶ浦周辺を候補地として示されたときには、河野は「いったい道路や河川改修はどうするのだ。 建設省の手を借りずに何ができるというのだ。 羽田など廃港してしまえ。 羽田は生鮮品や、など建設資材の流通基地として存続すれば良い。 新空港は木更津沖だ」と大変な剣幕であった。 なお、河野はを営むと近しい関係にあり、が1964年に出した勧告『産業計画会議の提案する新東京国際空港』は河野がらに働きかけて出させたものだといわれる。 1963年12月11日に運輸省航空審議会が富里を最有力候補とする答申を出した後も、浦安沖など東京湾内の埋立による建設を主張し続けた。 河野自身「なぜこんなに(空港問題に)ムキになるのかと、自分でも思うことがある。 医療にしろ、にしろ、当面の問題がいろいろあるのに、五年さき、八年さきの問題にうき身をやつして、なんになるのだろうなあ。 だいたい、そのころ、僕も(運輸相に就任した)君もどうなっているかわからんのにね」と述べていたが、その言葉どおり1965年に急逝した。 新空港の建設地は、河野が死亡した4か月後に運輸省案の『富里八街空港』に一旦内定するが、河野の介入もあって政府部内での意見調整に時間が費やされた結果、地元との調整が全く行われていなかったために、現地での大規模な反対運動を招いた。 人物評 「河野一郎という人物は、肌を接して日常の馬鹿げたことから付き合っていないとなかなか真価は分からない。 仲間はとことんまで守りかわいがるが、敵は徹底的にやっつける。 地方豪族に特有の一族郎党主義を信条としていた。 この中に入り込むと、団結、友情に覆われて、人間が溶かされていく。 味方は何でも善、敵は何でも悪というふうになりやすい」 - その他 自邸にて(年代不詳)• 建設大臣時代、国際会議場建設計画があり、選挙区内の箱根との声が地元よりあがったが、『日本で国際会議場にふさわしいところは京都である…』との考えでのに建設を決めた。 しかし、完成した建物を見ることなく亡くなっている。 地元よりの陳情を抑えての決断であった。 競走馬のオーナー・牧場主(那須野牧場)としても有名であり、代表所有馬に1966年の馬で翌年ので斃れたなどいわゆる「ナスノ」軍団がいる。 牧場あるいは牧場ゆかりの血統を持つ繁殖牝馬は河野の死後も続いているが、牧場自体は河野洋平が旗揚げの際、立党資金の工面のために売却していた。 その後一度は途絶えた河野家と那須野牧場のつながりが復活し、現在、牧場を運営する「恵比寿興業」の社長は一郎の孫であり、洋平の次男である河野二郎が務めている。 詳細は「」を参照一方、戦後の東京オリンピック開催に際しては、前記の通り建設大臣およびオリンピック担当国務大臣を務めている。 河野は担当大臣としてオリンピックを成功に導いた反面、オリンピックを「スポーツのイベント」から政治の介入する国家的プロジェクトに変貌させたことへの批判もある。 の監督したに「記録性が欠けている」と批判して議論を呼び起こしたのも河野である(ただしその後の依頼を受けて市川と面談し、映画を容認した)。 酒がまったく飲めない体質だったが、フルシチョフにを薦められた際、「国益のために死ぬ気で飲んだ」という(フルシチョフは河野が飲めない体質なのを予め知っていたが、河野はこれを逆手に取り一気飲みした後グラスを逆さにしフルシチョフらを瞠目させた)。 そのフルシチョフらと日ソ漁業交渉で渡り合ったとき、興奮してテーブルを叩いたため前にあったティーカップが倒れテーブルクロスが紅茶で汚れたので、河野は苦笑しながら謝罪した。 ささいな出来事だが、これがフルシチョフらの河野に対する印象を好転させたという。 長い間スターリンの理不尽な暴政に耐えてきた彼らにとって、小さなことでも間違いと分かれば素直に謝る姿が好ましく思われたのである。 1963年7月、憂国道志会のにより自宅に放火される。 その日はの開通日で河野はその開通式典でくす玉を引いている。 がのの自邸に招かれた際、応接間から庭で吉田が笑っていた様子が見え「随分ご機嫌ですね」とたずねると「三木君は知らんのか! 今、河野の家が燃えてるんだよ! 」とはしゃいでいた。 「罰が当った」と吉田周辺はささやいたと言う。 その大磯の吉田邸も46年後の2009年3月に火災で焼失した。 農林大臣時代と建設大臣時代にそれぞれ大臣としての権限を発揮して事務官と技官の棲み分けといった旧例を無視する形で官僚人事を断行した。 『私の今議会に於ける重要農村対策要綱』全国肥料商協会、1940年。 - 『肥料』(肥料協会)2巻5号の別冊附録:河野会長議会報告集。 『大東亜共栄圏と日本畜産人の覚悟』帝国畜産会〈帝畜叢書 第2輯〉、1942年。 『自由党の自由経済政策並その農業政策』りべらる社、1946年。 『今だから話そう』春陽堂書店、1958年。 『ゆたかな農村めざして 河野一郎講演集』編、弘文堂、1962年。 『明日の日本をつくる』知性社、1963年7月。 『明日の日本をつくる』知性アイデァセンター、1963年。 『日本の将来』恒文社、1965年。 - 論説集。 『河野一郎自伝』伝記刊行委員会 編、徳間書店、1965年。 、河野一郎・・・・『』日本経済新聞出版社〈日経ビジネス人文庫 私の履歴書〉、2007年5月。 国会会議録検索システム. 国立国会図書館 1965年3月23日. 2020年2月6日閲覧。 『官報』第5837号、昭和21年7月1日。 高橋利行『永田町の愛すべき悪党たち』PHP研究所 2010年• 新関欽哉『日ソ交渉の舞台裏』• 『原発ゼロで日本は滅ぶ』• 読売新聞1964年7月19日• 成田空港問題シンポジウム記録集編集委員会『成田空港問題シンポジウム記録集 資料編』1995年、20頁。 はるかなる三里塚. 講談社. 32-41• 友納武人 1981. 疾風怒濤 県政二十年のあゆみ. 社会保険新報社. 194-196• 佐藤栄作 1998. 佐藤栄作日記〈第2巻〉. 朝日新聞社. 132-133• 国会会議録検索システム. 国立国会図書館 1964年5月27日. 2020年2月6日閲覧。 日本経済新聞編 『私の履歴書 保守政権の担い手』 日本経済新聞出版社、2007年、530-531頁。 www. ndl. 国立国会図書館. 2018年11月27日閲覧。 野地秩嘉『TOKYOオリンピック物語』小学館、2011年、pp. 246 - 250• 官僚機構研究会 編 『農林省残酷物語』 エール出版社、p. 32~37• 官僚機構研究会 編 『建設省残酷物語』 エール出版社、p. 30~33 外部リンク• 荒敬『』 -• 『』 -• 国会会議録検索システム. 国立国会図書館 1964年2月18日. 2020年2月6日閲覧。 公職 先代: 創設 (担当) 1964年 - 1965年 次代: 最終 先代: 第21・22代:1962年 - 1964年 次代: 先代: 第20・21・22代:1954年 - 1956年 第30代:1961年 - 1962年 次代: 先代: 第5代:1957年 - 1958年 次代: 先代: 第14代:1955年 - 1956年 次代: 党職 先代: 第4代:1958年 - 1959年 次代: 先代: 結成 初代:1956年 - 1965年 次代: 先代: 結成 初代:1945年 - 1946年 次代: その他の役職 先代: 第3代:1965年 次代:.

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箱根駅伝の歴史をわかりやすく解説。その起源とは?

河野治平

来歴 戦前 神奈川県足柄下郡豊川村(現・成田)の・河野家に生まれる。 父治平(じへい)は、豊川村長、郡会議員、神奈川県会議長などを歴任した人物。 神奈川県立小田原中学校(現:)を経て、(12年)政治学科を卒業し、に入社。 早稲田大学時代は、弟・謙三とともにの陸上長距離選手として鳴らし、草創期ので活躍。 総合優勝も経験している。 (昭和6年)、内閣のの秘書官となり、翌(昭和7年)、に神奈川3区から出馬し、当選。 当選後は、に所属した。 総裁の後継をめぐる党内抗争では、を担いで奔走したが、が優位に立っていた。 河野は、を擁立して対抗し、政友会は、正統派(久原派)と革新派(中島派)に分裂するに至る。 (昭和17年)のでは、非推薦で選挙戦を戦い当選した。 戦後 後、(昭和20年)11月に旧政友会正統派の勢力を糾合して、を総裁とするを結党。 幹事長として、鳩山内閣の結成に奔走するが、(昭和21年)、鳩山にが下り、が後継総裁として大命降下をうけ、組閣に取り掛かる。 組閣をめぐっては、吉田が旧政党人を軍部に迎合したとみなし、人事について相談しなかったことなどをきっかけとして、不倶戴天の間柄となる。 さらにには、河野自身も公職追放となった。 (昭和26年)に追放解除となり、と共に自由党に復党。 以降は反吉田派の急先鋒として鳩山政権樹立に向けて奔走するが、(昭和27年)、解散総選挙を目前にして、吉田が鳩山派に打撃を与えるべく、と河野を党から除名した。 三木武吉の工作によって、12月に除名取り消しとなる。 (昭和28年)、鳩山、三木ら21名と自由党から分党。 に賛成投票し、・総選挙へと繋がるきっかけを作った。 11月に鳩山、石橋らが自由党に復帰した後も、三木、河野ら8名の代議士 はを結成して、自由党反主流派との連携を模索し、ついに3派を合同させを結成し、鳩山を総裁とし、吉田内閣を打倒する。 (昭和29年)、で農林大臣に就任し、第2次、第3次鳩山内閣でも農林大臣に留任した。 翌(昭和30年)、自由民主党結党に参画し、党内で大派閥のを形成。 (昭和31年)5月9日、での日ソ漁業交渉において、河野は随行していたのを部屋から閉め出して「日本が国交回復の交渉に応じなければ(日本側が北方領土の返還要求を引っ込めること)、漁業協定は調印できないと、ソ連側から日本側に圧力をかけてほしい」と首相や漁業相に要請し、は国交回復の日に効力を生じることになった。 このため、水産業界などが「北方領土など国交回復の後に交渉しろ」という圧力を日本政府にかけるに至り、北方領土の返還が妨害された。 1956年、日ソ平和条約交渉で共産党第1書記を向うに渡り合い、同年10月にはを成立させ、鳩山首相と共に調印に扱ぎつけた。 鳩山引退後の自由民主党公選ではを支持し、に一敗地にまみれるが、岸内閣成立後は主流派となる。 (昭和32年)の内閣改造では、として入閣。 下では党総務会長に就任。 しかし、(昭和34年)6月に幹事長就任を岸首相に拒否されたため、反主流派に転ずる。 改定では岸内閣に批判的立場を取り、における強行採決で、河野派はとともに欠席した。 岸退陣後の自民党総裁公選ではの結集を画策し、、を擁立するが、官僚派(旧吉田派)のに敗れる。 一時、河野新党 の結成を目論むが、大野らに翻意を促され、断念。 大野の仲介により池田首相に接近をはかり、(昭和36年)7月の内閣改造で農林大臣として入閣。 (昭和37年)7月の改造ではとして、に向けた道路や施設の整備に辣腕をふるう。 建設大臣を2年務めた後、(昭和39年)7月の第三次池田内閣では、副総理、東京オリンピック担当のに横滑りした。 この人事が決まった際、河野は「オリンピックについては建設大臣のときにやるべきことはやった。 あとは文部大臣の管轄ではないのか」と必ずしも歓迎しない反応を新聞記者に示している。 (昭和38年)7月には、右翼のらに、自宅を焼き討ちされている()。 1964年10月に東京オリンピック終了と共に、池田が病のため退陣表明するに当たっては後継総裁候補の一人に擬せられたが、後継総裁は池田の指名でに落ち着いた。 1964年11月9日発足のでは、兼振興の担当大臣 を務めたが、1965年(昭和40年)の内閣改造では、閣内残留を拒否。 1ヶ月後の7月8日、のため急死した。 享年67。 死の床で「死んでたまるか」と言ったと伝えられ、「党人政治家の最期の言葉」として広くこれが信じられてきた が、河野洋平によると「大丈夫だ、死にはしない」という穏やかな言葉で家族を安心させようとしたのだという。 人物 新東京国際空港問題との関わり• 新東京国際空港(現・)建設にあたっては、建設大臣として強硬に沖 埋め立て案を推進していた。 1963年8月27日に、を管轄するであったが、との管制の兼ね合いを理由に、木更津案を否定し代案として富里や霞ヶ浦周辺を候補地として示されたときには、河野は「いったい道路や河川改修はどうするのだ。 建設省の手を借りずに何ができるというのだ。 羽田など廃港してしまえ。 羽田は生鮮品や、など建設資材の流通基地として存続すれば良い。 新空港は木更津沖だ」と大変な剣幕であった。 なお、河野はを営むと近しい関係にあり、が1964年に出した勧告『産業計画会議の提案する新東京国際空港』は河野がらに働きかけて出させたものだといわれる。 1963年12月11日に運輸省航空審議会が富里を最有力候補とする答申を出した後も、浦安沖など東京湾内の埋立による建設を主張し続けた。 河野自身「なぜこんなに(空港問題に)ムキになるのかと、自分でも思うことがある。 医療にしろ、にしろ、当面の問題がいろいろあるのに、五年さき、八年さきの問題にうき身をやつして、なんになるのだろうなあ。 だいたい、そのころ、僕も(運輸相に就任した)君もどうなっているかわからんのにね」と述べていたが、その言葉どおり1965年に急逝した。 新空港の建設地は、河野が死亡した4か月後に運輸省案の『富里八街空港』に一旦内定するが、河野の介入もあって政府部内での意見調整に時間が費やされた結果、地元との調整が全く行われていなかったために、現地での大規模な反対運動を招いた。 人物評 「河野一郎という人物は、肌を接して日常の馬鹿げたことから付き合っていないとなかなか真価は分からない。 仲間はとことんまで守りかわいがるが、敵は徹底的にやっつける。 地方豪族に特有の一族郎党主義を信条としていた。 この中に入り込むと、団結、友情に覆われて、人間が溶かされていく。 味方は何でも善、敵は何でも悪というふうになりやすい」 - その他 自邸にて(年代不詳)• 建設大臣時代、国際会議場建設計画があり、選挙区内の箱根との声が地元よりあがったが、『日本で国際会議場にふさわしいところは京都である…』との考えでのに建設を決めた。 しかし、完成した建物を見ることなく亡くなっている。 地元よりの陳情を抑えての決断であった。 競走馬のオーナー・牧場主(那須野牧場)としても有名であり、代表所有馬に1966年の馬で翌年ので斃れたなどいわゆる「ナスノ」軍団がいる。 牧場あるいは牧場ゆかりの血統を持つ繁殖牝馬は河野の死後も続いているが、牧場自体は河野洋平が旗揚げの際、立党資金の工面のために売却していた。 その後一度は途絶えた河野家と那須野牧場のつながりが復活し、現在、牧場を運営する「恵比寿興業」の社長は一郎の孫であり、洋平の次男である河野二郎が務めている。 詳細は「」を参照一方、戦後の東京オリンピック開催に際しては、前記の通り建設大臣およびオリンピック担当国務大臣を務めている。 河野は担当大臣としてオリンピックを成功に導いた反面、オリンピックを「スポーツのイベント」から政治の介入する国家的プロジェクトに変貌させたことへの批判もある。 の監督したに「記録性が欠けている」と批判して議論を呼び起こしたのも河野である(ただしその後の依頼を受けて市川と面談し、映画を容認した)。 酒がまったく飲めない体質だったが、フルシチョフにを薦められた際、「国益のために死ぬ気で飲んだ」という(フルシチョフは河野が飲めない体質なのを予め知っていたが、河野はこれを逆手に取り一気飲みした後グラスを逆さにしフルシチョフらを瞠目させた)。 そのフルシチョフらと日ソ漁業交渉で渡り合ったとき、興奮してテーブルを叩いたため前にあったティーカップが倒れテーブルクロスが紅茶で汚れたので、河野は苦笑しながら謝罪した。 ささいな出来事だが、これがフルシチョフらの河野に対する印象を好転させたという。 長い間スターリンの理不尽な暴政に耐えてきた彼らにとって、小さなことでも間違いと分かれば素直に謝る姿が好ましく思われたのである。 1963年7月、憂国道志会のにより自宅に放火される。 その日はの開通日で河野はその開通式典でくす玉を引いている。 がのの自邸に招かれた際、応接間から庭で吉田が笑っていた様子が見え「随分ご機嫌ですね」とたずねると「三木君は知らんのか! 今、河野の家が燃えてるんだよ! 」とはしゃいでいた。 「罰が当った」と吉田周辺はささやいたと言う。 その大磯の吉田邸も46年後の2009年3月に火災で焼失した。 農林大臣時代と建設大臣時代にそれぞれ大臣としての権限を発揮して事務官と技官の棲み分けといった旧例を無視する形で官僚人事を断行した。 『私の今議会に於ける重要農村対策要綱』全国肥料商協会、1940年。 - 『肥料』(肥料協会)2巻5号の別冊附録:河野会長議会報告集。 『大東亜共栄圏と日本畜産人の覚悟』帝国畜産会〈帝畜叢書 第2輯〉、1942年。 『自由党の自由経済政策並その農業政策』りべらる社、1946年。 『今だから話そう』春陽堂書店、1958年。 『ゆたかな農村めざして 河野一郎講演集』編、弘文堂、1962年。 『明日の日本をつくる』知性社、1963年7月。 『明日の日本をつくる』知性アイデァセンター、1963年。 『日本の将来』恒文社、1965年。 - 論説集。 『河野一郎自伝』伝記刊行委員会 編、徳間書店、1965年。 、河野一郎・・・・『』日本経済新聞出版社〈日経ビジネス人文庫 私の履歴書〉、2007年5月。 国会会議録検索システム. 国立国会図書館 1965年3月23日. 2020年2月6日閲覧。 『官報』第5837号、昭和21年7月1日。 高橋利行『永田町の愛すべき悪党たち』PHP研究所 2010年• 新関欽哉『日ソ交渉の舞台裏』• 『原発ゼロで日本は滅ぶ』• 読売新聞1964年7月19日• 成田空港問題シンポジウム記録集編集委員会『成田空港問題シンポジウム記録集 資料編』1995年、20頁。 はるかなる三里塚. 講談社. 32-41• 友納武人 1981. 疾風怒濤 県政二十年のあゆみ. 社会保険新報社. 194-196• 佐藤栄作 1998. 佐藤栄作日記〈第2巻〉. 朝日新聞社. 132-133• 国会会議録検索システム. 国立国会図書館 1964年5月27日. 2020年2月6日閲覧。 日本経済新聞編 『私の履歴書 保守政権の担い手』 日本経済新聞出版社、2007年、530-531頁。 www. ndl. 国立国会図書館. 2018年11月27日閲覧。 野地秩嘉『TOKYOオリンピック物語』小学館、2011年、pp. 246 - 250• 官僚機構研究会 編 『農林省残酷物語』 エール出版社、p. 32~37• 官僚機構研究会 編 『建設省残酷物語』 エール出版社、p. 30~33 外部リンク• 荒敬『』 -• 『』 -• 国会会議録検索システム. 国立国会図書館 1964年2月18日. 2020年2月6日閲覧。 公職 先代: 創設 (担当) 1964年 - 1965年 次代: 最終 先代: 第21・22代:1962年 - 1964年 次代: 先代: 第20・21・22代:1954年 - 1956年 第30代:1961年 - 1962年 次代: 先代: 第5代:1957年 - 1958年 次代: 先代: 第14代:1955年 - 1956年 次代: 党職 先代: 第4代:1958年 - 1959年 次代: 先代: 結成 初代:1956年 - 1965年 次代: 先代: 結成 初代:1945年 - 1946年 次代: その他の役職 先代: 第3代:1965年 次代:.

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