たち あう。 NHKスペシャル ママたちが非常事態!? ~最新科学で迫るニッポンの子育て~

いかしあうつながりって、なんだろう?

たち あう

この記事はに所収されたテキストの転載です。 人間的なるものを超えて 気がつくと、人類学はその名前が示すとおり、人間のことだけを探究する学問になっていたと言ったら、奇妙に響くだろうか。 人類学は長らく、人間が生み出し、営んでいる制度や慣習などを「文化」と呼び、その記述を「民族誌」と称して、人間の文化の記述と考察に浸った末に、記述のしかたや学問を成り立たせている仕組み、その権力配分にまで気を配りながら、どうしたらそのような再帰的な課題を乗り越えて正統な学問たり得るのかを考えるのに頭を悩ませてきた。 そのことは、形質人類学、考古学、言語人類学、文化人類学という4部門から成る総合学を目指した、20世紀初頭のボアズ流のアメリカの人類学の「後退」であり、フィールドワークを学問の中心に位置づけ、民族誌を制度化した、マリノフスキー由来のイギリスの人類学の「前進」の結果だった。 世界に広がった、民族誌を重要視するイギリス流の人類学は、アメリカで巻き起こったポストモダン的な自己反省モードの投入によって内向きの議論を重ね、前世紀末から今世紀初頭にかけて隘路を歩むことになったのである。 そうした前進と後退の歩みの陰に、もう一つの人類学の流れがあった。 人類学は21世紀を迎えると、人間のみでなく、人間を含みつつ人間を超えて、より大きな研究枠組みの中で思考するようになった。 コーンの「人間的なるものを超えた人類学」は、そうした流れの中から生まれた一つの果実である。 森が考えているということで、いったい何が言われようとしているのかをよく考えてみたい。 つまり、(全ての思考の基礎を形成する)表象の諸過程と生ある存在のつながりを、人間的なるものを超えて広がるものに民族誌的に注意を向けることを通じてそれがあきらかになるにつれて、つかみだすことにしよう。 そこで表象の本性について私たちが抱く前提を再考するに至った見識を用いることで、それが私たちの人類学的な概念を変えるのかを探ってみるのがよいだろう。 このアプローチを「人間的なるものを超えた人類学」と名づけようではないか。 そうすることによって、人間のみを扱う人類学を超えて、哲学とも深く交差しつつ、ノンヒューマンとヒューマンを同じ地平に眺める人類学の新たな領野を切り拓いたのである。 マルチスピーシーズ民族誌/人類学 「マルチスピーシーズ(複数種)民族誌」も、その流れに位置する。 それは、異種間の創発的な出会いを取り上げ、人間を超えた領域へと人類学を拡張しようとする。 その成立の経緯は、概ね以下のように説明される。 しかし、動物を含む他の生物種は、人間にとって、たんに象徴的および唯物的な関心対象というだけではない。 他種は、人間や別の種と関わりながら絡まりあってきた。 ハラウェイが言うように、他種は人間にとって「ともに生きる」存在でもある。 マルチスピーシーズ民族誌は、この「ともに生きる」というアイデアを重視する。 それは、複数の有機体との関係において、人間的なるものが創発する仕方を理解しようとする。 マルチスピーシーズ民族誌/人類学は、人間を静的な「人間—存在(human beings)」ではなく、動的な「人間—生成(human becomings)」と捉える。 インドでは年間何百万という牛が死ぬが、神聖視されているため食べられることはない。 牛は死にかけると、遺体ごみ置き場に連れて行かれる。 ハゲワシはそれを30分できれいに解体する。 しかし今日、牛を食べることがハゲワシを殺す。 というのは、貧困層が牛を使って作業を続けるために、また牛の足の病気、乳腺炎、出産困難などを処置するために、安価な非ステロイド系抗炎症薬ディフロフェナクが牛に投与されるが、それがハゲワシに腎障害をもたらすからである。 インドでは現在、ハゲワシの減少に反比例してイヌが増えている。 イヌは、ハゲワシのようなスピードと完璧さで死骸を片付けはしない。 イヌは町をうろついて人を襲い、狂犬病などをもたらす。 ハゲワシがいないと、人や動物の健康に重篤な影響がある。 このようにして個体は絡まりあって生きており、生と死を含む複数種の文脈では、他者の苦しみへの純粋な反応を考慮しなければならない。 ツィンによれば、マツ、マツタケ、菌根菌、農家の人たちが絡まりあって生存可能性を生み出している。 痩せた土地でマツと菌根菌は共存しており、菌根菌が育つとマツタケになる。 農家の人たちは、燃料や肥料を求めてマツ林に入り、生態系に介入する。 そのことで、マツは排除されることを免れ、マツにとって程よく攪乱された状況がつくり出される。 マツ、菌根菌、農家の人という異種の偶然の遭遇によりマツタケが育つ。 また日本では、高品質のマツタケは高価な贈り物として、特定の小売に卸され、人間関係の構築のために用いられる。 ドメスティケーションを再考する過程で、ステパノフらは「飼育する/飼育される」という古典的な二項図式に代えて、ヒューマンとノンヒューマンが入り乱れ、それらが長期にわたって根を張るハビタット(生息地、なわばり)である「ドムス(domus、家)」を変容させるような、相互行為的な動態による三項的な図式を提起している。 コミュニティとはこれまでは、生物学では自然環境の中で種が相互作用する場であり、社会科学では人間の集団を意味したが、ステパノフらはレステルの概念を拡張して「ハイブリッド・コミュニティ」という包括的な概念を創出する。 それは、「共有されたハビタットの周りの人間、植物と動物の間の長期にわたるマルチスピーシーズ的な連携の形式」のことである。 南シベリアのトゥバの「アアル・コダン(生きる場所)」というハイブリッド・コミュニティでは、家族と家畜がともに暮らしている。 人間主体に現れる範囲のみで他種は捉えられるべきではない。 それはたんに象徴的・唯物的な対象ではないとされる。 現代のモノの哲学は、マルチスピーシーズ人類学と同根の主題を孕んでおり、人類学の近年の研究成果を取り入れて交差し、拡張されているからである。 種を記述する技法 カント以降の哲学では、人間がモノに対してつねに特権的な位置を保ってきた。 対象世界が差異や多様性に満ちているにしても、あくまでも人間主体から見た剰余や外部とされてきたのである。 ハイデガーにとっても、世界は何らかの目的をもった道具が連関してできており、その連関に不確定さを持ち込むのはつねに人間であった。 清水は、モノとモノが互いに移動し相互包摂する往還運動を強調する。 マルチスピーシーズ人類学もまた他の生物種を人間に現れる範囲でのみ扱うのではなく、相関主義を超えて種と種の関係性それ自体へと踏み込んでいるのだとすれば、両者の課題は共通している。 ところで、ここでいうモノには非生命だけでなく、生命も含まれる。 マルチスピーシーズ人類学が扱う「種」とは、主に生命である。 以下では、生命記述の技法について、モノの哲学の議論の延長線上で手短に触れておきたい。 上妻は福岡の「動的平衡」論を導きとしながら、以下のように述べる。 なぜか僕たちは、明日も、明後日も、明々後日も、同じ身体をもち、自己同一性を保ち続けることができると信じている。 しかし、物質的には1年も経つと、僕は僕でない。 僕は自らを分解することで自らを構築し、自らを構築することで自らを分解する「流れ」である。 そして、この「流れ」の中で構造を維持するためには、「私は私である」という自己同一性の耐久性や構造を強くするのではない。 エントロピー増大の法則による乱雑さが構造の維持を不可能にしてしまう前に、先回り的にその同一性を部分的に分解し、そして構築する必要があるように、「私は私でなく」(分解)、「私は私でなくもない」(構築)という「流れ」の中に身を置くことになる。 上妻世海「制作へ」 生命は変形と流れの中で、つまり時間の中で分解と構築を孕むものとして捉えなければならない。 言い換えれば、「僕たちは『死につつ、生き、生きつつ、死んでいる』」のだ。 上妻はこの議論をさらに進めて、生命記述の技法を、事物がそこに存在するのはそれ自らによってではなく、他に依って他との関係においてであるとする龍樹(ナーガルジュナ)の『中論』に求めている。 生命は「相依相待」により、生命たり得ている。 生命の本質とは、事物の存在が「他との関係に縁よってある」という「縁起」に他ならない。 種が生命のことであるならば、「種」を自律的で安定的なものと捉えることには慎重でなければならない理由がここにある。 種に出入りする他種によって種が相依相待的に生まれつつ死に、死につつ生まれるのだとすれば、「マルチスピーシーズ(複数種)」が喚起する、自律し安定した「種」のイメージは問題含みであることになる。 制作論的転回のほうへ マルチスピーシーズ人類学が、人類学自体を反省的に捉え返した「再帰人類学」の先に、「人間とは何か」をふたたび問い始めた21世紀の人類学によって生み落とされた一つの嬰児であるならば、それは、既存の人類学の装いを必ずしも纏っている必要はない。 先述したように、マリノフスキーの流れを汲む民族誌の積み重ねがあったからこそ人類学は発展したのであるが、他方で、人間に現れる範囲でしか他の生物種を取り上げることがない、人間しか対象にしない多文化主義的(文化相対主義的)な人類学を生産し続けてきたのであり、その延長線上で、再帰人類学においては民族誌を書くことそれ自体が問われたに過ぎなかったのである。 では、「既存の人類学の装いを必ずしも纏わない」人類学は今日、いかにして可能なのだろうか。 そしてその手がかりは、ふたたび上妻の制作論に求めることができる。 上妻の説く「消費から参加へ、そして制作へ」という図式は、「他者」の真っただ中で暮らし、民族誌を書いて人類学を生産し続けた、マリノフスキー以降の〈消費〉、文化を書く自己を反省し社会実践に向かうとともに、民族誌を「他者」の参加へと開いた、再帰人類学の〈参加〉、そして、そうした多文化主義の所産を経て、今日、複数種の「制作的空間」へと降り立って、〈制作〉へと踏み出し始めた、多自然主義的な人類学の流れにそのまま当てはめることができよう。 上妻が示唆するように、「制作的空間」に降りていく時、異質なパースペクティヴとの感応的な関係を取り戻すためには、言語、とりわけ人間の「言語」を用いているだけでは十分ではない。 そこでは、「現象を超えて実在を感じること、音やリズム、形として繋ぎ合わせること」が要請される。 「制作的空間」におけるテキストとは、身体に他ならないのだ。 鏡の向こう(「制作的空間」)に降りて、鏡の中で乱反射を浴びることで、自らの身体を作り替えなければならない。 「制作」とは、実際にやってみることで「未来の情報」を生み出しながら、その次へと進んでいく、あるいは引き返していく往還運動である(中略)まずは「制作」してみること、そうすることで僕たちは「制作的空間」へと入り込んでいく。 上妻世海「制作へ」 なすべきは、多文化主義的な土台の上でなされる〈消費〉と〈参加〉を超えて〈制作〉することである。 「制作的空間」は、自己/他者、人間/自然に分割された人間の自己同一性を前提とせず、動植物を含む雑多な他者との不安定な運動の中に自己の変容を促すという意味において、多自然主義的な場へと向かう。 マルチスピーシーズ人類学の「制作的空間」には、異種間の交歓からなる多自然主義的風景が開かれているのだ。 『マルチスピーシーズ・サロン』の中でシムンが試みるのは「人間のチーズ」の〈制作〉である。 人間のミルクから作られたチーズを問題なく食べた人がいた一方で、ミルクの提供者が何を食べたのか分からないという理由で食べるのを拒否した人もいた。 しかし、人間のミルクは人間にとって生まれて最初の栄養である。 乳の分泌によって汚染は取り除かれるため、疫学上の問題はない。 乳首を刺激していれば、年齢に関わらずミルクが出る。 性腺刺激ホルモン注射によって男性が授乳することも可能であり、自ら授乳して子を育てた男性の報告もある。 人間のミルクには凝乳させる乾酪素が欠如しているため塊にならないので、シムンは山羊のミルクを混ぜてチーズを作る。 それは蜂蜜をかけてクラッカーの上に乗せて食べるとおいしいという。 だが、人間のチーズにはどこか場違いの感覚がある。 私たちは、「内なる他者としての人間のミルク」から作られるチーズから乱反射を浴びることになる。 カークセイは、ザレツキーによる〈制作〉を取り上げている。 彼はホモ・サピエンス代表としてコンテナの中で、ショウジョウバエ、酵母菌、大腸菌、アフリカツノガエル、カラシナなどと1週間過ごした。 作業中に(頭からアンテナではなく足が伸びている)「アンテナペディア異常」のショウジョウバエを逃がしてしまったことがある(そのハエは食べても無害だという)。 逃げたハエをめぐるメールのやり取りの最中に、ザレツキーは遺伝子が組み換えられた虫がすでにたくさん放たれていることを知る。 他方、人間の管理の下で展示されたネズミがその後どうなったかが示されていないと、PETA(動物の倫理的取り扱いを求める人々の会)のローズはザレツキーに噛みついた。 ザレツキーは5、60匹のネズミのうち展示後10匹が持ち帰られ、その他は廃橋の下に逃がされて死んだか食べられたのだろうと応答するとともに、「マルチスピーシーズ・ハウジングの倫理とは何か?」「生き物は人間の管轄下で生きることが許されるべきか?」という問いを発した。 そしてザレツキーは、冷たいケージで病みやつれ孤独に苦しむ動物たちは自由に動き回りたがっていると説くPETAに従って、ケージの扉を開いて生き物たちを解き放ったのである。 そのことでザレツキーは、人間の管理下に出現した「新しい野生」と、動物たちが長らく自由に動き回っていた「古い野生」の間の境目を曖昧にした。 ザレツキーの「制作的空間」で、人間は他種との間で、自己の身体をじわじわと変容させていく。 身体の変容を伴う〈制作〉は、本源的には、日々のマルチスピーシーズ的な実践の中に埋め込まれている。 雑誌『つち式』には、奈良県で数年前から農業に従事する東千茅が身体的に経験し、その目に映る農の風景が綴られている。 東は、脱穀した籾の山に鼻を近づけて青い匂いを嗅ぎ、自らの生身を作ってくれる稲籾「ほなみちゃん」を慈しむ。 退治した蝮の肉を鶏と分かち合い、鶏はかわいくかつうまそうだと語る。 鶏種をニックと名づけて飼うが、時々鶏に飼われていると感じるともいう。 生きるとは、なによりもまず、他の生き物たちと生きかわすことなのだ。 それは、多種多様な生成子たちの、それぞれの個体への作用とそれぞれの個体の外部の作用の、複雑にからみあい織りなす布の一糸となることである。 「本来生きることは、他人との関わり以前に、他種との関わりの次元の話である」。 「現行の社会では、こうした異種との話が語られることはほとんどなく、人間間の話ばかりが氾濫している(中略)そこには不思議なくらい異種との話が見られない。 あったとしてもそれらは、異種との関係を嗜好品的なものに限定するような、あるいは、異種との関係をあくまで同種との関係の手段や代償とするような、人間関係中心主義的な諸相である」。 『つち式』は、マルチスピーシーズ人類学が取り組むべき今後の実践的な制作論的課題の一つの方向性を示している。 はじまりに向けて マルチスピーシーズ民族誌としてはじまった試みは同時にマルチスピーシーズ人類学へと拡張され、その後またたく間に、アートやパフォーマンスなどを含む様々な実践と連携しながら、新たな知の領域を形成しつつある。 人間に現れる範囲での種ではなく、ともに生きる種たちのダイナミズムを。 人間—存在ではなく、人間—生成を。 民族誌を著わすだけではなく、多様なメディアをつうじて制作を。 人間は、身体外部の環境の中の種を体内に取り込みながら生命を繋ぐだけでなく、身体内部に住む1千兆個に及ぶとされるヒト常在細菌の複数のコミュニティーとのマルチスピーシーズ的な関係の中で生きる人間—生成である。 ストレプトコッカス・ミュータンスという細菌は、農業により穀物を摂取し、糖分が豊富になった人間の体中で「家畜化」されるようになった。 人間が生み出した「情報」が逆に人間の思考や行動に影響を与える状況は、科学情報革命の進展によって、とりわけ、モノのインターネット(IoT)の広がりにより顕著なものとなりつつある。 民族誌だけでなく、アートやパフォーマンスや種々の実践とも連携し、さらにミクロ、生命以外、マクロを取り入れながら、マルチスピーシーズ人類学は今後その研究と活動をいったいどこまで拡張していくのだろうか。 マルチスピーシーズ人類学は、いまその歩みをはじめたばかりである。 いや、はじまりに向けてその準備の緒についたばかりなのかもしれない。 『たぐい vol. 1』に掲載されるのは、種と種の絡まりあいの考察を今後一層深めていくための起点となる論考である。 カークセイ+S. ヘルムライヒ「複数種の民族誌の創発」 2010• それらはまた、マルチスピーシーズ研究でもある。 人間主体にとって、ボールは単なる対象ではなく、それ自体他のアクターの働きかけや関係を集約した「準客体」である。 そのアイデアは、ラトゥールのアクター・ネットワーク理論(ANT)に引き継がれている。 ANTでは、中心的な媒体であるモノは、それをめぐって形成される複数のアクターの関与が同時に働くことにより意味が付与される。 こうした議論を補強するために清水は、人間や動物などに注目し、外部に置かれた不変のモノを特権化せず、総当り的な相互牽制や相対化の仕組みを重視するヴィヴェイロス・デ・カストロのパースペクティヴィズム論に注目する。 《パースペクティヴを持つということは、パースペクティヴとしての位置が、他のアクタントと容易に入れ替わりうるという、この不安定さと引き換えに生じる現象なのである》。 そこでは、パースペクティヴを持つ立場がボールのようなものでもあり、ボールとしての「眼」を奪い合うことになると清水は捉える。 さらに、図と地はもともと二つのパースペクティヴではなく、地はもう一つの図であり、図はもう一つの地でもあるというように、一方は他方に対して変わりなく振る舞っているという「部分的つながり」を強調するストラザーンを導きとして、人間に現れる範囲でしか語られてこなかったモノの相関主義的理解を乗り越えようとする。 これは、諸自己の生態学において存在が何らかの混同を伴うようにして互いに関わりあう仕方から生じる》。 それは、人間が作り出したものである場合もあればそうでない場合もある、関わりあいの中で生みだされるまとまり、科学以前のカテゴリーのことである。 例えば、は、太平洋戦争中にレイテ島で瀕死の兵士から「石には宇宙の全過程が刻まれる」という話を耳にした真名瀬が、帰国後に石の採集に明け暮れるようになり、長男を採石抗で死なせ、妻を心身喪失させて、家族を崩壊させていく、石と人間の苦楽をめぐる小説である。 人間主体にとって、ボールは単なる対象ではなく、それ自体他のアクターの働きかけや関係を集約した「準客体」である。 そのアイデアは、ラトゥールのアクター・ネットワーク理論(ANT)に引き継がれている。 ANTでは、中心的な媒体であるモノは、それをめぐって形成される複数のアクターの関与が同時に働くことにより意味が付与される。 こうした議論を補強するために清水は、人間や動物などに注目し、外部に置かれた不変のモノを特権化せず、総当り的な相互牽制や相対化の仕組みを重視するヴィヴェイロス・デ・カストロのパースペクティヴィズム論に注目する。 《パースペクティヴを持つということは、パースペクティヴとしての位置が、他のアクタントと容易に入れ替わりうるという、この不安定さと引き換えに生じる現象なのである》。 そこでは、パースペクティヴを持つ立場がボールのようなものでもあり、ボールとしての「眼」を奪い合うことになると清水は捉える。 さらに、図と地はもともと二つのパースペクティヴではなく、地はもう一つの図であり、図はもう一つの地でもあるというように、一方は他方に対して変わりなく振る舞っているという「部分的つながり」を強調するストラザーンを導きとして、人間に現れる範囲でしか語られてこなかったモノの相関主義的理解を乗り越えようとする。

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鰻のたちの

たち あう

鍵を握るのは、女性ホルモンのひとつ「エストロゲン」です。 胎児を育む働きを持つエストロゲンは、妊娠から出産にかけて分泌量が増えますが、出産を境に急減します。 すると母親の脳では神経細胞の働き方が変化し、不安や孤独を感じやすくなるのです。 なぜそんな一見迷惑な仕組みが体に備わっているのか?その根本原因とも考えられているのが、人類が進化の過程で確立した、「みんなで協力して子育てする」=「共同養育」という独自の子育てスタイルです。 人間の母親たちは、今なお本能的に「仲間と共同養育したい」という欲求を感じながら、核家族化が進む現代環境でそれがかなわない。 「人類本来の育児」とも言える「共同養育」とはどんなものなのか。 番組では、今なおそれが受け継がれている、アフリカ・カメルーンの部族を訪ね、驚きの子育てぶりを目撃しました。 夜泣きやイヤイヤがひどいのは、自分の子育てが間違ってるから?私って、母親失格? ただでさえ不安や孤独を感じやすい母親たちを、さらに追い詰めるのが、激しい夜泣きやイヤイヤなど、母を悩ませるわが子の不可解な行動の数々です。 うまく育てられないのは自分だけでは?と思い詰めてしまうママたちも少なくないと言います。 原因はいずれも、生まれた時の子どもの脳が、成人に比べて非常に未発達なことにあります。 多くの動物は、生まれた時から脳がかなり成熟していますが、人間はあまりに脳が小さく未熟な状態で生まれてくるのです。 そしてその後10年以上の歳月を掛けて、ゆっくりと脳が成長していきます。 その過程で起こるのが、夜泣きやイヤイヤといった不可解な行動の数々というわけ。 中でも最もママたちを悩ませるのが、2歳頃から始まる「イヤイヤ行動」です。 その原因は、脳の表層にある「前頭前野」と呼ばれる部分が、まだ機能し始めていないことにあります。 前頭前野は、目標達成のために衝動的な欲求を抑える脳機能の中枢。 これが未発達なうちは、脳の中心付近からわき起こる本能的な欲求を抑えることが出来ず、イヤイヤ行動が引き起こされてしまうのです。 イヤイヤ行動とは、まさに子どもの脳で前頭前野が成長しようとがんばっているサインとも言えます。 お母さんの育て方が間違っているからではありません。 でもなぜ人間の子どもは、そんなに未熟な脳で産まれてきてしまうのか。 番組ではその根本原因も、人類進化の視点から解き明かしました。 出産後、なぜか夫に対してイライラが止まらない!助け合いたいのに、どうして? 6歳未満の子どもを持つ育児家庭を対象にした調査によると、子どもが0~2歳と育児が大変な頃に、もっとも離婚が多いという衝撃の事実が。 「産後クライシス」とも呼ばれ、社会問題にもなっています。 実はまさにこの産後間もない時期にママたちの多くが感じやすいのが、「夫への強いイライラ」。 育児で助け合いたい夫に、なぜかいちいちイライラしてしまう理由にも、母親の体内で分泌されるホルモンが密接に関わっていることがわかってきました。 そのホルモンの名は「オキシトシン」。 出産時や産後の授乳時、わが子と触れあっている時などに多く分泌され、脳に作用して、わが子やパートナーへの愛情を強める働きをしています。 ところが最近、愛情だけでなく、同時に「他者への攻撃性」を強める作用もあることが明らかになりました。 たとえ夫であっても、育児に非協力的な人は「攻撃の対象」となり、イライラ感が強められて夫婦関係の破綻を招く恐れもあるというのです。 では、オキシトシンを「攻撃性」ではなく「愛情」を強める方向に働かせるには、どうすればよいのか? 番組では、育児中の母親のストレス状態を、心拍や副交感神経の変化から測定し、何をしている時に母親がリラックスして、愛情が強められやすい状態になるかを調べました。 すると意外なことに、夫が妻の育児相談に真剣に耳を傾けているだけでも、妻のリラックス状態が安定して続いていることがわかったのです。 物理的に子育てを分担することももちろん大切ですが、一人で頑張る母親たちのつらさを理解し、共感し、「よくがんばってるね」と認めてあげることが、オキシトシンの作用でイライラを感じやすいママたちの心を安らがせ、円満な夫婦関係にもつながると考えられるのです。 番組では、オキシトシンが愛情だけでなく攻撃性も高める不思議な仕組みを、ユニークな実験で解き明かしました。

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子どもたちと育みあうセクシュアリティ―児童養護施設での性と生の支援実践

たち あう

わたしたちのウェルビーイングをつくりあうために その思想、実践、技術 「ウェルビーイング(Wellbeing)」とは、身体的にも、精神的にも、そして社会的にも「よい状態」のこと。 心身ともに満たされた状態であることを指す言葉です。 情報技術が私たちの暮らしを便利にする一方で、利用者の心の状態への負の影響も指摘されている現在、ウェルビーイングに対する注目が高まっています。 本書は、ウェルビーイングとは何なのか、そしてそれをどのようにつくりあうことができるのかについて解説した書籍です。 わかりあえなさのヴェールに包まれた他者同士が、根源的な関係性を築き上げ、共に生きていくための思想、実践、技術を照らし出します。 ユーザーに愛されるプロダクトやサービスの設計を目指すデザイナー、エンジニア、ビジネスパーソン、また、組織環境を良くしたい人事・総務担当者などにおすすめの一冊です。 「わたし」のウェルビーイングから、「わたしたちの」ウェルビーイングへ。 「個でありながら共」という日本的なウェルビーイングのあり方を探求します。 論考: 伊藤亜紗/生貝直人/石川善樹/岡田美智男/小澤いぶき/神居文彰/木村大治/小林 茂/田中浩也/出口康夫/水野 祐/安田 登/山口揚平/吉田成朗/ラファエル・カルヴォ 渡邊淳司 NTTコミュニケーション科学基礎研究所 人間情報研究部 上席特別研究員。 人間の知覚特性を利用したインタフェース技術を開発、展示公開するなかで、人間の感覚と環境との関係性を理論と応用の両面から研究している。 主著に『情報を生み出す触覚の知性』(2014年、化学同人、毎日出版文化賞受賞)、『ウェルビーイングの設計論』(監訳、2017年、BNN)、『情報環世界』(共著、2019年、NTT出版)。 ドミニク・チェン 早稲田大学文化構想学部・表象メディア論系 准教授。 公益財団法人Well-Being for Planet Earth 理事、NPO法人soar 理事、NPO法人コモンスフィア 理事。 ウェルビーイング、発酵、生命性をキーワードに、メディアテクノロジーと人間の関係性を研究している。 はじめに Introduction|「わたしのウェルビーイング」から始めよう 1300人の大学生が考えた「わたしのウェルビーイング」 「ウェルビーイング」を考えるために Part 1 What is Wellbeing?|ウェルビーイングとは何か? 1. 0 Overview|ウェルビーイングの見取り図 1. 1 Individual Wellbeing|「わたし」のウェルビーイング 1. 2 Collective Wellbeing|「わたしたち」のウェルビーイング 1. 3 Social Wellbeing|コミュニティと公共のウェルビーイング 1. 4 Internet Wellbeing|インターネットのウェルビーイング Part 2 Wellbeing in Practice|ウェルビーイングに向けたさまざまな実践 2. 0 Intoroduction|テクノロジーから「自律」するために ラファエル・カルヴォ 2. 1 Technology|情報技術とウェルビーイング 2. 1 感情へのアプローチが行動を変える 吉田成朗 2. 2 〈弱いロボット〉の可能性 岡田美智男 2. 3 「生きるための欲求」を引き出すデジタルファブリケーション 田中浩也 2. 4 IoTとFabと福祉 小林 茂 2. 2 Connection|つながりとウェルビーイング 2. 1 予防から予備へ:「パーソンセンタード」な冒険のために 伊藤亜紗 2. 2 「沈黙」と「すり合わせ」の可能性 木村大治 2. 3 孤立を防ぎ、つながりを育む 小澤いぶき 2. 3 Society|社会制度とウェルビーイング 2. 1 お金から食卓へ:貨幣とつながりの現在地 山口揚平 2. 2 ウェルビーイングと法のデザイン 水野 祐 2. 3 本人による自己の個人データの活用 生貝直人 2. 4 Japan|日本とウェルビーイング 2. 1 「日本的ウェルビーイング」を理解するために 石川善樹 2. 2 「もたない」ことの可能性:和と能から「日本的」を考える 安田 登 2. 3 祈りとつながり、文化財と場所 神居文彰 2. 4 「われわれとしての自己」とウェルビーイング 出口康夫 Part 3 Wellbeing Workshop|ウェルビーイングのためのワークショップ 3. 1 なぜ「ワークショップ」なのか? 3. 2 ウェルビーイングワークショップの流れと各ワーク 3. 3 「頭」と「心」と「手」を結ぶ 座談会:「わたしたち」のウェルビーイングに向けたプロジェクト.

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