ドッジ ライン。 ジョゼフ・ドッジ

ドッジ・ライン発表【1949(昭和24)年3月7日】

ドッジ ライン

安倍政権が日銀に対して2%の物価目標の導入と量的緩和の拡大を強く要求し、日銀がこれを受け入れたことから、市場では早くもインフレを警戒する声が出始めている。 足元の経済状況では2%の物価目標はおろか、1%の物価上昇ですら困難が予想される。 インフレの心配など杞憂かもしれないが、一方で、ひとたびインフレになってしまうと、それを押しとどめることが極めて難しいというのもまた事実である。 日本は長期間にわたってデフレが続いてきたので、インフレに対する免疫がほとんどない。 インフレを収束させる際に受け入れなければならない痛みについてイメージできる人は思いのほか少ないのだ。 インフレ期待が高まっている今、過去の事例を振り返り、国家がインフレを収束させるために何をしてきたのかについて知っておくのも悪くないだろう。 70年代の米国を苦しめたスタグフレーション 同じインフレでも平時に発生するインフレと有事に発生するインフレでは状況がまるで異なる。 ここでは平時のインフレとして70年代の米国で発生したスタグフレーションの事例を、有事のインフレとして太平洋戦争前後の日本に発生したインフレを取り上げてみる。 70年代の米国は物価の上昇と経済の低成長が同時に発生する、いわゆるスタグフレーションに悩まされた。 これは米国の競争力に限界が見え始めたことや、ベトナム戦争の長期化によって財政負担が著しく増大したことが直接の原因といわれている。 現在の日本にも通じる成熟国家型のインフレである。 図1は1970年代から80年代にかけての米国の物価、株価、金利の動向を示したチャートである。 1970年からの10年で物価は約2倍に上昇したが、この間の実質GDPの成長率は平均3. 1%だった。 今の感覚からするとそれほど悪い数字ではないが、それまでの米国が平均4%台の成長を続けていたことを考えると大きな落ち込みであった。 米国企業の競争力は低下し、それにともなって企業収益も悪化した。 株式市場は低迷し10年以上にもわたってダウ平均株価は横ばいが続いた。 インフレ率を考慮すると実質的に半分に下落してしまったことになる。 政治的にも暗い時代であった。 ケネディ大統領が開始したベトナム戦争は泥沼化し、ニクソン大統領は就任直後からその後始末に追われることになった。 しかも1974年にはウォータゲート事件で辞任するという前代未聞の事態となってしまった。 1977年に就任したカーター大統領には政治刷新と景気回復が期待されたが、ほとんど成果を残せないまま4年の任期を終えてしまったのである。 ボルカーFRB議長の強硬策とレーガン大統領の登場 70年代の経済政策は常にインフレに振り回され続けた。 景気の先行きを懸念するニクソン大統領の意向を強く受けたバーンズFRB長官は、インフレ懸念があるにもかかわらず70年に利下げを断行しインフレを一気に加速させてしまった。 その後利上げに転じるものの、経済が不調であったことから、議会からは常に利下げの圧力がかけられた。 FRBはしばらくの間、思い切った手を打つことができず、本格的なインフレ抑制策に乗り出すことができたのは、ボルカー議長が就任した79年以降のことである(後にボルカー議長はインフレファイターと呼ばれた。 写真は現在のボルカー氏)。 ボルカー議長は、利上げを行えば議会から激しい突き上げを受けることが分かっていたので、政策金利ではなくマネーサプライを政策目標に切り替えると宣言した。 だがこれは一種の情報戦で、ウラでは矢継ぎ早に利上げを実施し、強烈な金融引き締めに転じたのである。 ボルカー議長は当初10%前後であったFF金利(米国の基準となる政策金利)を一気に20%まで引き上げたため、金融市場は大混乱となった。 信用収縮が起こり、実質GDPもマイナス成長に転じたが、ボルカーはひるまず引き締めを続行した。 長期金利は一時16%近くまで上昇している(図1)。 81年には強いアメリカを標榜するレーガン大統領が圧倒的な支持で大統領に就任した。 レーガン大統領は、歳出削減、大型減税、規制緩和、マネーサプライ抑制(ドル高政策)を主軸とする経済政策(レーガノミックス)を発表、市場には大きな期待感が生まれた。 82年にはとうとうインフレが沈静化しそれと同時に株価も上昇に転じることになった。 70年代に米国を襲ったインフレは、ボルカー議長による徹底的な金融引き締めと、レーガン大統領の大胆な経済政策によってようやくその悪循環を断ち切ることができたのである。 太平洋戦争前後で物価は180倍になった 一方、太平洋戦争前後の日本を襲ったインフレはさらに解決が困難なものであった。 日本は日中戦争と太平洋戦争を遂行するために、総額で開戦当初の国家予算(一般会計)の100倍という途方もない資金をつぎ込んでいた。 これらの費用はすべて国債発行(日銀による直接引き受け)で賄われたため、戦時中から悪質な財政インフレが進行した。 また度重なる空襲で日本の生産設備は50%以上が稼動不能となり、極端な供給不足の状態が続いていた。 このため終戦後にはインフレが一気に爆発することになり、日本は猛烈な物価高に襲われた。 図2は1940年から1955年までの物価指数と公定歩合の推移を示したものである。 1941年の太平洋戦争開戦時から終戦後インフレが収束する1952年までの間に小売物価指数は180倍近くにもなった。 第一次大戦後の5年間に物価が1兆倍に上昇したドイツのハイパーインフレに比べればはるかにマシだが、それでも戦争前後の猛烈なインフレは日本経済と日本人の生活に壊滅的な大打撃を与えた。 日本では戦争が近づくにつれて民主主義が弾圧され、軍国主義的な体制に変わっていった。 これに伴って国家による経済統制も厳しくなり、1938年に施行された国家総動員法以降は完全な統制経済に移行した。 生活必需品をはじめ多くの商品が価格統制の対象となり、見かけ上インフレは抑制されることになった。 だがどんなに価格統制を強化しても、貨幣の乱発と物資不足から来るインフレは進行しており、公定価格とは別の闇価格が形成されるようになってきた。 図2の濃い青のグラフは闇市場価格における物価推移を示している。 戦後、闇市場は半ば公認され、市場データも記録されるようになったが、戦前については闇市場は名実共に禁止されており、公式のデータは存在していない。 グラフの破線は戦後の闇市場価格をもとにした戦前の推定物価指数である。 これによると、終戦が近づく頃には、すでに相当のインフレが進んでいたことが推察される。 もっとも戦時中はインフレといっても、物資が極端に不足しており、どんなに高い価格を提示しても購入すること自体が難しかったと思われる。 日々の食料確保にも事欠く状態であり、国民の生活感覚としてあまりインフレは意識されなかったかもしれない。 多くの人がインフレを意識するのは終戦後、自由な経済取引が解禁されてからである。 預金封鎖と財産課税という荒療治 それでは180倍近い物価上昇となった準ハイパーインフレを日本はどのようにして収束させたのだろうか?当時は公定歩合も統制対象となっており、戦時中にはほとんど改定がなかった。 また戦後も1952年までの間に4回ほど利上げを行っただけである。 現実のインフレ対策はもっと暴力的な方法で行われた。 預金封鎖と財産課税による金融資産の強制徴収である。 預金封鎖とは、銀行口座を強制的に凍結した上で新しい紙幣(新円)を発行し、新円と交換しない限りは預金を引き出せないようにした措置のことを指す(緊急金融措置令および日本銀行券預入令)。 政府は預金封鎖と同時に財産税法を公布し、封鎖された預金に対して最高税率90%にも達する税金を課した。 マクロ経済的には、過剰な紙幣発行で膨らんだ国家のバランスシートを、国民からの強制徴収によって現実の価値水準まで削減したのである。 この措置によって預金のほとんどは国家によって吸い上げられ、多額の預金を持つ資産家はほぼ全財産を失った。 ドッジ・ラインによってインフレはようやく収束したが また金融システムの面では、産業界への資金援助を見直し、企業の自助努力を促す政策に転換した。 これはGHQの経済顧問として来日したジョセフ・ドッジ氏による勧告ではじまったことからドッジ・ラインと呼ばれている(写真は来日したドッジ氏。 左は池田勇人元首相-当時は大蔵大臣)。 ドッジ・ラインでは、均衡財政、政府系金融機関による融資の見直し、債務の償還、公務員のリストラなどが実施された。 特に大きな影響を及ぼしたのが、政府系金融機関による融資の見直しである。 終戦後、復興支援を目的として復興金融金庫(現在の政策投資銀行)が設立され、ここから産業界に対して巨額の融資が行われていた。 戦争によってあらゆる設備が破壊されており、大量の資金が必要であったことを受けた措置だが、この融資がインフレをさらに加速させていた。 ドッジ・ラインによって新規の融資や追加融資が中止となったことで、市場は一気に冷え込み、多くの企業が倒産の危機に直面した。 この時期、トヨタも倒産寸前となりギリギリで倒産を回避している。 国民からの暴力的な資産徴収と金融機関を介した強烈な金融引き締めでインフレは何とか収束した。 日本経済はこの反動で大不況となるのだが、戦後日本はツイていた。 朝鮮戦争の勃発によって一気に経済は回復、高度成長に転換することが可能となったのである(朝鮮戦争特需)。 これがなければ、しばらの間、日本はデフレに苦しむことになっていたはずである。 大きな痛みを伴う過酷なインフレ抑制策の後には、なぜか米国ではレーガノミックスが、そして日本では朝鮮特需が発生し、その後の成長につながった。 だがこれらの出来事は必然なのか、それともただの偶然なのかは誰にも分からない。 日本やドイツのインフレ発生時に、株価や土地、金などが具体的にどのような値動きをしたのかについて興味のある方は弊社作成の以下の有料レポートをぜひ参照して欲しい。 ・ ・ (別サイトでの有料販売となります。 ご注意ください).

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ドッジデフレ・・・日本経済ようやく正常化

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歳入と歳出の関係を整理すると、理論上以下の3パターンが存在します。 1 歳入<歳出 2 歳入=歳出 3 歳入>歳出 3 の状態は、「税金を取りすぎたので貯金している」ということなので、減税措置がとられることが多く、通常ありえません。 1 の状態が均衡予算ではないという状態ですので、 つまり、 1 の状態から 2 の状態にすることが「均衡予算にする」ということです。 1 から 2 にするためには以下の2つの方法が存在します。 歳入を増やす(=増税する) b. 歳出を減らす(=支出を減らす) 理論的にはa. だけを実施すれば政府が支出を減らさずに均衡予算にできますが、増税をする場合には、国民への説明上、歳出削減も同時に行われることがほとんどです。 結果、均衡予算にするために「a. 歳入を増やす」という方法をとるかどうかにかかわらず、「b. 歳出をへらす」ことは確実に行われるわけです。 そして当然、歳出が減れば、政府が何かを買わなくなるということで、「需要創出効果が小さくなる」わけです。 均衡予算にするとデフレ効果がなぜ生まれるかについてですが、これは価格は需要と供給のバランスで決まることと関係します。 供給量が一定と仮定した場合、需要が増える(=買いたい人がたくさん出てくる)場合には値段が上がります。 ) 一方、需要が減る(=買いたい人が少なくなる)場合には値段は下がります。 ただし、あくまで「デフレ効果がある」だけで、実際にデフレになるかどうかはその他の要因との兼ね合いで決まります。

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傾斜生産方式とドッジ・ライン

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来歴 [ ] 生い立ち [ ] 1890年、のポスター画家ジョセフ・チーズマン・ドッジの長男として生まれる。 ドッジは三人兄弟で、弟と妹がいる。 幼少期は父に連れられハイキングやキャンプを経験し、森林探検家になることを夢見ていたが、母ガートルードは「私はジョゼフが銀行家になることを確信しています。 ジョゼフは同年代の男の子の中で唯一人、手が泥塗れになるのを嫌がっていましたから」と述べている。 銀行家 [ ] 1908年、デトロイト中央高校を卒業し保険会社の事務員となるが、翌1909年に ()に転職する。 ドッジはメッセンジャーボーイとして働くが、独学で簿記を学び簿記係となり、20歳の時にミシガン州最年少で審査官になる。 ドッジは5年間優秀な業績を挙げ、頭取エドワード・ドイルの目に留まり、彼の助手に抜擢される。 1916年にジュリア・ジェーン・ジェファーズと結婚し、執行役員に昇進する。 翌1917年に頭取を退任したドイルから、彼の息子トム・ドイルの経営する自動車会社を支援して欲しいと依頼される。 1932年、による経営悪化を受けダッジの役員を辞任し、1933年にファースト・ナショナル・バンクの副頭取に就任する。 同行は金融危機により経営破綻するが、ドッジはその後 ()の創設に関わった。 この功績により、同年デトロイト銀行頭取に就任し、1953年1月まで務めた。 ドッジは少しでも損失リスクのある企業家への融資を拒否するなど経営に対して厳しい態度で臨んだため多くの顧客を失ったが、それにも関わらず38万人の新規顧客を獲得するなど手腕を発揮した。 1941年、の経理部門主任を務め、不要な政府支出を抑えるために軍需企業を監視し価格調整に努め、1942年の中西部中央調達地区価格調整委員会の会合で提言した。 1943年には軍需委員会議長に就任し、6つの政府機関の軍需物資の価格調整を担当した。 独墺の金融再建 [ ] 1945年8月、の ()の依頼を受け金融政策顧問としてに赴任 し、破綻した銀行システムの再建に乗り出した。 ドッジの提言は翌1948年6月からアメリカ・・の占領地域で実施され新しくが発行され、結果的に物々交換や買い溜めなどを阻止した。 しかし、新通貨の発行には反発し、を引き起こす結果となった。 では、賠償金に関する諮問委員会が設立された。 ドッジはドイツマルクが発行されるまでの間、オーストリアの金融政策が主な担当となり、1947年5月にから諮問委員会のアメリカ代表に任命された。 また、の代理としてロンドン会議に出席した。 1948年1月、金融政策顧問を辞任し、「実施のための経済協力、財政、金融問題に関する諮問委員会」の委員に任命され、1951年まで務めた。 日本の金融再建 [ ] ジョゼフ・ドッジ(右)と(左) 1949年2月、の金融政策顧問に任命され、公使としてに赴任する。 この役職はトルーマンによって閣僚に準じる権限を与えられていたが、ドッジはドイツでの成功にも関わらず就任を二度辞退している。 占領下の日本は競争力の脆弱さにより輸出が伸びず、また国内ではに基き復興金融金庫から基幹企業に大量の融資が行われたためが発生していた。 ドッジはこれらを是正するため「緊縮財政や復興金融金庫融資の廃止による超均衡予算」「日銀借入金返済などの債務償還の優先」「1ドル=360円の単一為替レートの設定」「戦時統制の緩和」「自由競争の促進」を柱とする金融政策を実施した。 ドッジの実施した金融政策はと呼ばれ、彼の最も著名な業績とされている。 行政管理予算局長官 [ ] でが当選すると、ドッジはクレイの紹介でアイゼンハワーと会い、アイゼンハワーの大統領就任に伴いに任命される。 ドッジとアイゼンハワーは、政府支出を削減することでインフレを抑制させるという基本理念を共有していた。 トルーマン政権では100億ドルの財政赤字を抱えていたが、ドッジは在任中に50億ドルの赤字を削減させた。 ドッジは各省の予算案をランク付けし、優先度の低い支出を削減した。 また、各省に欠員が生じた場合も必要がない限り人員の補充を認めず、公用車の交換も認めず、自身も在任中は一度も公用車を交換しなかった。 アイゼンハワーは ()を掲げて安全保障政策の予算充実を図り、ドッジも積極的にニュールックの予算確保に努めた。 しかし、ドッジは均衡予算を達成することは出来なかった。 晩年 [ ] 行政管理予算局長官辞任後はデトロイト銀行頭取に復帰しアメリカの対外援助計画の見直しに関わり、1954年12月にアイゼンハワーの特別補佐官に任命され、1956年まで ()議長を務めた。 1956年6月に2銀行と合併し、総資産10億ドルを超えるデトロイト・バンク・アンド・トラスト・カンパニーを設立した。 1958年に軍事援助検討特別委員会委員に任命され、1959年からはの顧問を務めた。 ドッジは、から法学名誉博士号を授与され、ドイツでの金融政策の功績により1946年9月18日に功労勲章を授与された。 1950年に陸軍省から日本の金融政策の功績により民間特例勲章を授与され、1962年4月28日には日本からを授与された。 脚注 [ ] []• 24, 1995• " Volume 1 of Michigan Biographical Dictionary. Vol. North American Book Dist LLC, 1998: 207• 杉田米行 Sugita, Yuneyuki, and Marie Thorston. Beyond The Line: Joseph Dodge and the Geometry of Power in the US-Japan Relations, 1949-1952. Tokyo: University Education Press, 1999. and Yoneyuki Sugita. "Joseph Dodge and the geometry of power in US-Japan relations. " Japanese Studies: 1981-2012. Vol. 3 1999 :297-314. doi:10. Schonberger, Howard B. Aftermath of War: Americans and the Remaking of Japan, 1945-1952. Kent, OH: Kent State University Press, 1989• "World Trade-Budget Observer. " Times Magazine, 12-1-1952 参考文献 [ ]• Richard J. Barnet, The Alliance--America, Europe, Japan, Simon and Schunster, 1983. 公職 先代: () 第10代: - 次代: ().

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