愛知 トリエンナーレ 問題。 あいちトリエンナーレ

「あいちトリエンナーレ」問題 河村たかし名古屋市長が激白「私と大村知事を国会に呼んで!」 「日本の世論がハイジャックされたような展覧会」 (1/2ページ)

愛知 トリエンナーレ 問題

あいちトリエンナーレ2019の会期中の愛知県美術館(愛知県美術館-Wikipediaより) 中止になっていた「表現の不自由展・その後」再開に向け合意 慰安婦問題を象徴する少女像や昭和天皇の写真を焼いて踏みつけるという表現に対して脅迫電話などがあり、安全が確保できないとして中止していた国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」だが、芸術祭と不自由展の実行委員会が展示再開で合意し、再開の見通しとなった。 有本)この問題が持ち上がったのは7月末で、8月の頭に私も名古屋に行きました。 ただ私が行ったときには、もうこの展示は中止されていました。 名古屋の河村市長にも実際に取材しましたが、この問題を大手メディアの報道やテレビだけで見ている方は、ことの本質がわからないと思います。 この一連を見ると、「表現の自由、表現の不自由」ということよりも、「報道の不自由」を問題にしたほうがいいと思います。 中心会場の愛知芸術文化センター(あいちトリエンナーレ-Wikipediaより) 「昭和天皇のお顔を焼いて踏みつけにする」ことが許されるのか 有本)もちろん慰安婦像と称されるものもあるけれど、この展示の内容に関して言うならば、いちばんの問題は昭和天皇のお顔を焼いて踏みつけにするということです。 このことを知らない人が多いのですよ、そんなものもあるのかと。 これについて大手メディアが頑として触れない。 それはなぜかと言うと、これはみんな大問題だと実はわかっているからではないですか。 だって、「日本国憲法の1条に何と書いてありますか」ということですよ。 公的な自治体が主催するところでやるのに、ふさわしい内容ですかと。 しかも、これが相当な物議をかもして反発を生むだろうということは、今年(2019年)の初めからわかっていたわけです。 文化庁はその相談も受けないまま、この事業に対して補助金を出す、採択すると言っていた。 しかし、そんなことが最初からわかっていたのであれば話が違うということで、取り下げることになった。

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あいちトリエンナーレ

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愛知県で開かれた国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」は14日、閉幕した。 昭和天皇の写真をバーナーで焼き、灰を足で踏み付けるような映像作品などを、公共施設で税金投入して公開することに批判が集中したが、「メディアが真実を伝えない」ことへの疑問も噴出した。 作品の公開を認めた張本人である愛知県の大村秀章知事が「即位礼正殿の儀」(22日)に参列することへの反対論も浮上するなか、メディア報道を検証した。 撮影は認められなかったが、その映像作品の印象は取材ノートと脳裏に焼き付いている。 約20分の映像で強烈なのは、昭和天皇の肖像をバーナーで焼き、顔の部分が最後に燃え尽きる一連のシーンだ。 残った灰は地面にこすり付けるように足で踏み付けられた。 鮮血を想起させる赤い液体がしたたるなか、下駄を履いた女性の白い足を重ねるインパクトの強い場面もあった。 女性の叫ぶような歌声のBGMも流れていた。 企画展には、昭和天皇の映像作品のほか、慰安婦像とされる少女像や、英霊を冒涜(ぼうとく)するように感じる作品もあり、電話やメールなどで抗議が相次ぎ、8月3日をもっていったん公開中止となった。 芸術祭の実行委員会会長を務める大村氏は10月8日に再公開に踏み切った。

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愛知トリエンナーレ「表現の不自由」展 ~そして当事者がいなくなった?

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Advertisement しかし、そうなると「芸術作品とはなんぞや?」という定義付けが必要になり、議論は途端に暗礁に乗り上げてしまいました。 「文芸・絵画・彫刻・音楽・演劇など、独特の表現様式によって美を創作・表現する活動。 またはその作品」 といったオーソドックスな表現をすれば、「表現の不自由展・その後」に出展されたものは、どれも当てはまりません。 しかし現代アートにおいては、そうした定義は当てはまらなくなっているのも事実で、深く追及してゆくと出展作品を仕分けることが困難になってしまいます。 現代アートにおいては芸術は「美を創作・表現する活動。 またはその作品」とは限らないからですね。 憲法論争「表現の自由」と「検閲」 大村知事は中止後の会見で、河村名古屋市長が申し入れた書簡に対し、自身の憲法解釈を披露しました。 長いので要約すると 「(河村市長の行為は) 憲法違反の疑いが極めて濃厚ではないか。 河村さんは胸を張ってカメラの前で発言しているが、いち私人が言うのとは違う。 しかし、この発言に対して一斉に反論が集中しました。 なぜならば、もしも大村知事がそう理解しているとすれば、 憲法違反をしているのは「表現の不自由展・その後」を中止した実行委員会会長の大村知事自身だからです。 表現の自由を保障するのは大村知事ご自身であって、自らが決断して中止したのも大村知事ご自身なのですから。 また「検閲」とは民間に対して行政が行うものであって、今回の場合には当てはめることはできません。 こうした 大村知事の不見識な発言によって、憲法論争は決着を見たような気がします。 芸術監督・津田大介氏の資質 実行委員会会長・大村知事の資質に関しては、先に記した憲法論争でもその一端が伺えますが、津田氏を芸術監督に迎えることを決断したのも知事であり、事前の打ち合わせで 「尖ったものにしてくれ」と暗に「過激な出展を示唆」し、その結果今回の企画を津田氏は探してきたという経緯になります。 そして今回の企画展に対し、許可を出したのも大村知事であったわけですから、 津田氏に関する問題点はすべて主催者の実行委員会会長の問題点であり責任なのです。 「任命責任」という議論は、「実行犯がいてその犯罪を教唆した」という考え方に近くなります。 つまり任命した責任は大村知事にあるわけですが、主犯は芸術監督の津田氏にあるとしているわけですね。 もちろんこうしたイベントでは芸術監督が企画やコンセプトの立案、作品の選定などほぼ全権を持つわけですが、その責任はトップにあるのが当然です。 任命責任を追及するのであれば、大村知事自体の責任を追及すべきです。 何が芸術(アート)で何がガラクタか 芸術に対する価値観の変遷は、現代においては極めて多様な価値観へと変貌していると言えます。 たとえば欧米の近代美術館では、到底芸術とは思えないような作品に何億円もの価値があるとされている作品が少なくありません。 それらは一昔前には芸術ではなくて 「ガラクタ」と評されるものばかりでした。 現代の芸術である以上、煽情的なのは当たり前の世界であって、政治色を帯びた作品も一定の評価を受けるものが増えてきました。 そもそも行政(主催者側)が理解できていないものを展示して(市民に対して)「これが芸術です」と言うこと自体が大問題なのです。 今回だけでなく、過去のトリエンナーレも恐らく同様のジレンマを持ち続けながらの開催だったのではないかと思います。 今回の騒動では、大村知事を中心とした行政(主催者側)に誰一人芸術を一定の基準をもって判断できるひとが居なかったと思います。 世界でももっとも難解な芸術分野に対し、素人が税金を使って「お祭り」をやろうと言う、安易な企画が「あいちトリエンナーレ」だった。 そうしたイベントを開催することが、政治であり行政であるという極めて滑稽な感覚が、今回の騒動とともに白日に晒されたと言えるのではないでしょうか。 そして最大の被害者は、煽情的な作品に強い憤りを感じて批判をした人、と言うよりも、戦争や皇室、そして日韓問題に関しての左翼的展示を見せられた人でもなく、 芸術であるのかガラクタであるのか分からない人間によって「これが芸術と言うものです」と意味不明の価値観を押し付けられた国民です。 関係者すべてが世間を扇動しようとした結果.

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